見出し画像

第36話 紹介状の紹介状には封がされていなかった

ある日、母は大学病院から急に呼び出されて帰ってきた。

1時間かけて歩いて帰ってきた母は
疲れた顔で、リュックを下ろしながら言った。

「明日、緊急でCT検査をするから、
 家族の人と一緒に来てくださいって」

その言葉を聞いた瞬間、胸の奥がざわついた。

なぜ緊急なのだろう。
何か見つかったのだろうか。

聞きたいことは山ほどあるはずなのに、
母も突然のことで頭が真っ白になり、
ただ頷くことしかできなかったという。

私は仕事を休み、
翌朝一番で母と一緒に大学病院へ向かった。

病院の待合室には、
いつもと変わらない時間が流れていた。

受付番号を呼ぶ機械音。
行き交う看護師さんたちの足音。
小さな子どもの泣き声。
どこかから漂ってくる消毒液の匂い。
みんな、それぞれの日常を過ごしているように見えた。

けれど、私たち親子だけが、
別の時間の中に取り残されているような気がした。

名前を呼ばれ、母はCTの検査室へ入っていった。
「悪いね。すぐ終わるから待っててね。」
そう言って笑った母の背中は、
いつもより少し小さく見えた。

閉まる扉を見つめながら、私は待合室の椅子に座った。
時計の針は確かに進んでいるのに、
時間だけが止まってしまったようだった。

スマートフォンを開いても文字は頭に入らない。
ただ、母が無事に戻ってくることだけを
祈りながら、何度も時計を見上げていた。

検査を終えた母は、そのまま点滴を受けることになった。
何のための点滴なのか、母も私もよく分からなかった。

聞きたいことはあるのに、聞くのが怖かった。
答えを知るのが怖かった。

「紹介状を書くので、
 明日、医療センターへ行ってください。
 詳しい検査をしてみないことには、
 病名も何も分かりません」

大学病院の先生は、そう言った。

その表情は穏やかだったけれど、
声の奥には隠しきれない緊張が滲んでいた。

町医者から大学病院へ。
そして大学病院から、
さらに医療センターへ。

どの病院も「緊急です」と言い、
翌日の受診を指示した。

紹介状の更に紹介状。

母の病気の輪郭だけが、
少しずつ濃くなっていくようだった。

けれど、肝心の病名だけは、
誰も教えてくれなかった。

しばらくして、先生から説明があった。
「造影検査については、
 腎臓に影響が出る可能性があるので、
 こちらではできません。」

静かな口調だった。
けれど、その一言の重さに、
息が詰まった。

私はその時、初めて気づいた。
母の体は、私が思っていたよりも
ずっと大変な状態なのかもしれない、と。

造影剤を使わなければ
詳しい検査はできない。
でも、使えば腎臓に負担がかかる。 
調べたいのに、調べられない。

進みたいのに、進めない。
そんな現実があるのか。

母は静かに先生の話を聞いていた。
不安だったはずなのに、
取り乱すこともなく、
小さく頷きながら耳を傾けていた。

私は母の横顔を見つめながら、
「大丈夫だよ」と言ったが、
本当は私自身が一番不安だった。
母の前では泣いてはいけない。

しっかりしなければ。
そう思えば思うほど、
胸の奥が苦しくなった。

大学病院へ来るきっかけになった紹介状。
そして、その紹介状からさらに渡された、
医療センターへの紹介状(診療情報提供書)。

ふと手元を見ると、
その封筒には封がされていなかった。

なぜ封がされていないのだろう。
そこには、まだ私たちの知らないことが
書かれているのだろうか。

見てはいけないものなのか。

それとも、開いているということは
見てもいいものなのか。

見るようにということなのか。

白い封筒は、思っていた以上に重く感じた。

たった1枚か2枚の紙だろうはずなのに、
これから始まる現実の重さが、
そのまま詰まっているようだった。

私は母の顔をそっと見た。
母は窓の外を見つめていた。
その横顔は、どこか遠くを
見ているように見えた。

封が開いていることには気づいていない。

帰宅後、私は迷いながらも
ゆっくりと紹介状に目を通した。

いいなと思ったら応援しよう!