囲いの”外”から入る
昨日の、「外から見るピースのかわいさ」は、自分で理由が判っている。
ひと言でいえば、「外にいる時、自分は”無責任状態”」だから。
そこはほぼまったくの安全地帯で、頭も心もとても静かで、エネルギーも使わないところ…だから「余裕がある」目でそれを見ている。その状態は、対象と距離があるという”余白”と言ってもいい。
いつものように良し悪しでなく、そういう状態。だから逆に言うと、いつも内で”ピースと共にある時”というのは、私は全く自覚していないけども、「この子」に対して、何かの責任を持った状態である、またそのことから「お世話」ということへの強い意識が(息が・域が)かかっているのだということ。その状態はつまり、この子をその対象として扱う状態にあり距離は近く、ダメなものはダメとも言うし、「ただ見ているだけではない状態に常にある」ということ。思いより、思考の働く頭の状態からいつもこの子に接しているということ。
「他者」という存在でも、しっかりと自分の中に置かれているものは、”自分を通した”ものとして見てしまうために、自分がそこから抜ける状態がなければ、その”アタマ”を通して接することは気づかぬうちに「普通」となる。特に生活という営みのど真ん中に置いてあるのだから余計に意識が強くなる。
もう大分前に、主人に「うーーん…」と言われたことがあって、具体的には忘れたけども、私がよく使っていた「好き嫌い」というものの表現についてのことだった。「”嫌い”も内側じゃないか」と。
そしてその反応には不思議でもなく、私自身も嫌うということも好きと同様に「自分の内(中)のことで、”外”じゃない」と解釈するところも持っているから。そしてその事を今回ふと思い出し、このピースの時の話と重ねた時に湧いた、「思考と感覚」との違いだと。
主人の言ったように、好きも嫌いも両方とも内側―――、自分の感覚においては。快不快と同じでその域の幅、範囲のもの。そしてその自分の内側により、嫌いを「外」に追いやるようにしたくなるのも人の感覚で、本当にこれは難しいというより、感覚を思考によって変えることはムリと思う。何かが不快だと感じてしまっているのだから。
嫌悪の状態から、快という意味で内側に置けるということは、不快の程度が弱くて済むからであり、また思考により快へできるのならば、通常であれば自分にとって「得」があるからで、何もないことに対して、人は不快なものを「快」で処理などしない。それくらいに「生理的に」も含めて受け付けられないものは人それぞれにある。
基本的には「そうだ」ということは私は今も変わらない。
その上で、だ。
以下少し前のものになる短いメモ。
何かはきっかけになっても、「行い」がなければ何とも結ばれない。自分と「反対側」にあるものは、今見えているのは向こう側かもしれないけども、それが”きっかけ”となって自分側で開けることがある。同じ輪の中だけでは現れないきっかけは、いつも「外」から入る。それと自分(内側)を結んでみること。
・・・
何にしても、どんな事に対しても。「→」だったり「←」の向きだったりで、大まかにそれぞれは正反対という方向の違いがあって。その何かへの選択は、一方を強さで押し進める姿勢も良いけれど、周辺というものを視界に収めていたならば、所々で向きの違うものの採用があって良いのだろうと思っている。それが強さとしなやかさとだと思っている。だから、環境にあるそのデメリットから生み出せるメリットは何かと、ある意味「良いとこどり」できるのが、柔軟ということだと思っている。
私たち人の世界の捉え方は、必ずしも「合っている」とは言えない。だけどもそう見えるのだから仕方ないし、でも本当に外を見ているならば、新しく見えているもの”があるはずだと思っている。柔軟さが現れないのは、信念という名の「ただの硬直」かもしれないことは、常に自分に問わなければならないことだと思っている。
ある一定方向の見方で目線を定めてしまうから、その路線から外れた時に、痛さを感じる。定める目線が重要であればある程、その裏に対して非常に弱くなる。その弱さの時に拾える”メリット”を選択肢に持っていることは柔軟な選択に転換できることに繋がるのだと思っている。
人がいつも多くのことで闘っているのは内側を守ること。その内側に、本当に自分関係のことしかないのであれば、この先世界は暗い。大切にしたいこの自分は、「外という環境の全て」によって成り立っているということを、大人の頭では理解した方が良いと思っている。
(それで思い出した。若い方の世の中などのものの見方は、そもそも既に色んなことを見聞きしてきた人たちと、過ごしてきている時間も見てきているものもまったく違うために同意とはならないことを想定した方が良い。そしてそもそも、脳の発達が「まだ(弱い)」の部分もある状態にあったりと、「考えれば分かる」と思うことが、「考えてもそう思わ(え)ない」ということも珍しくない―――現代は情報ばかりが多く”わかった解釈”が容易で、非常に難しいと感じている)
倫理的にダメなものはダメという当たり前のことは、柔軟も何もない。流されてはいけないことと、逆へ振っても良いことなどたくさんの経験がある人々だから出来ることがあるので、そちらに力を注ぐように傾けたい。
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