作ってみたいVRワールドのコンセプトにCopilotを使って挿絵を入れてみた!
20XX年、国際的ないくつかの巨大企業の連携という形で形成された超巨大資本グループが世界経済をほぼ独占状態で支配し、いい意味でも悪い意味でも世界全体が一つの巨大なショッピングモールのようなところ、どこに行っても同じようなデザインの店舗による同じような商品や娯楽が流通しているという世界となっていた。もちろん生産される製品はすべて高品質で価格も安定している。故障の際などのメンテナンスサービスも十分に行き届いている。ライフラインも(当然それらも巨大資本グループが独占しているが)安定している。人々はそこでの消費者としての、生活を十分に満喫している。消費者としてだけではなく労働者としても満足している。「今の時代はいい」と多くの人は言う。確かにそうだろう。事実、巨大資本グループはその利益の多くを使い、貧困地域を「開発」という形で救い出してもいる。

しかし、一方では、様々な事情からそのような世界からはじき出された者、そのような世界にそもそも入れなかった者、さらにはそのような世界から自主的に飛び出した者や飛び出すというまではないものの違和感を覚えている者達も少なからず存在し、彼らは彼らで独自のコミュニティーを形成していた(しかし彼らも決して巨大資本グループを全否定しているわけでもない。使えるものは使わせてもらうという態度で接している)。そして、そのコミュニティーは、決して、ある特定の地域、というような分かりやすい形で存在しているものではない。それらは、超ハイテクなオフィスビルの地下の一角にあるデッドスペースや、ビルとビルの間の狭い裏路地、諸事情から完成間近で工事がストップしている建物、あるいは取り壊しが決まった老朽化した建築物の一角を借りる(というか勝手に利用する)などの形で点在し、ケーブルや電波、さらには光などを使用したネットワークではなく(当然ある程度は使用しているが)、まさに人の移動、人を介してのネットワークとして存在していた。

そしてその点在する拠点の一つとして「クラブ新世界」がある。「工事中」と書かれた建築用シートでうまく隠されており、実際カモフラージュ的な工事は随時行われているが、そこはかつて「ダンスクラブ」「ダンスホール」さらには「グランドキャバレー」と呼ばれた建造物である。当時の面影は今はかすかに残る程度であり、むしろ無機質な倉庫的な空間であるが、ステージとダンスフロアは度重なるリフォームを経ながらも残されており、音響設備と防音設備(外に音もれしないための)は充実している(一世代以上前のオーディオシステムではあるがだからこその音の良さがある)。そしてそこでは、大資本系の音楽事務所やレーベルには属さない、インディペンデントの音楽家たちによる演奏が昼夜を問わず行われており、既存の音楽、世間に流通している音楽には飽き足らないコアな音楽ファン、ダンスファン、そして単にその空間が好き、という者達がこっそりと、しかし強い熱量をもって足を運んでいる。

なお、この「クラブ新世界」では一種の都市伝説ともいうべきものがまことしやかに語られている。それはごくごくまれなことだが、演奏や会場の熱気がまさに頂点とでもいうべき次元に達するとフロアや壁がパラパラと崩れ落ち、そこにかつての「クラブ」が、かつての「グランドキャバレー」が、レトロでもありながら、かつ幻想的な光の演出も加わってまさに「新世界」として登場するというものである。多くの人は「それは粗悪なドラッグの影響による幻影でしょう」と言う。またある者は、「いや、あれも演出で、プロジェクションマッピングの仕掛けがされているんだよ」と言う。

しかし、人々がそこに通うのは決してこの都市伝説をその目にしたいからではない。人がそこに通うのはそこが商業音楽の場ではなく実験的な音楽の場だからである。そこに行けば、モール化された世界にはない音楽があるからである。もちろん当然のことではあるが、そこでの実験は商業側にとりこまれることもある。事実、巨大資本系音楽会社の人間もその身分を隠してこのクラブにはちょくちょく来ている(その意味でこのクラブは巨大資本グループからある意味黙認されているとも言える)。しかし、このクラブで演奏している者達がそのスカウトの声に乗ることはほぼない。彼らが求めているのは金や地位ではない、さらに言えば「商品化」されることではないのだから。その結果、彼/彼女らのアイデアやコンセプトだけが、商業音楽側に取り込まれ、さらにそれが巨大資本グループの商業ルートに乗り、ヒットしていくことはよくある話である。この世界では(というか音楽についていえばそのような現象は古くから存在していたが)流行やスターまでもが巨大企業によって生産され販売され、消費されるのである。それに対して意識的ではないかもしれないが「No」を唱え続けているのが、このクラブに集うミュージシャンであり、それを聞きに来るファンたちである。パクるのならパクってもいい、でも、我々はさらにその先に行くからね、という気概であり態度である。しかし、「先を行く」と言っても、彼/彼女らの音楽は決して流行を追っているものでもないし、流行の最先端を気取っているものでももちろんない。むしろ流行などどうでもいいのである。自分のやりたいスタイルを流行や流通とは無縁のところで展開したい、そしてそれが嵌る人たちだけに聞いてもらえればいい、ただそれだけの事であり、それが彼/彼女らにとっての音楽である。まさに「音を楽しむ」という意味での「音楽」である。

その意味では、先の都市伝説も、音楽が商業化、メディア化される前の時代、人々が音楽というものを単なる流行の確認ではなく、まさに「音を楽しむもの」として会場での生演奏として楽しんでいた時代に対する演奏者の、そして来場者たちのノスタルジー、こうでありたいという想いが生んだ伝説、として解釈することもできよう。いつでもどこでも聞けるもの、「今、これが来ていますよ」としての音楽ではなく、今、ここでだからこそ聞けるものとしての音楽、ライブとしての音楽。いまここにある、といか今ここにしかないものとしての音楽。ここにはそれがあり、かつてはそれがむしろ当たり前だったのだから。
