中山道の東側その2 奈良井~木曽福島
中山道の東側を歩いたレポートの「その2」です。
1月に苦労して雪道を歩いた中山道、5月には気持ちよくウォーキングを楽しみました。
名古屋から特急に乗り、JR奈良井駅に降り立ちました。気温マイナス10度だった4ヶ月前と同じ場所だとは思えない気持ち良さ。日本の四季って凄いなぁって思います。今更ながら。
江戸時代に無かったものは置かないっという妙に厳しい取り決めを作った為に、かつてコーヒーを提供してもOKかどうかで論争になっていた妻籠宿ほどではありませんが、奈良井宿もかなり江戸時代っぽい風情があります。
ちなみに江戸時代の日本にはコーヒーが全く無かったという訳ではありません。長崎の出島に持ち込まれたコーヒーをオランダ人は飲んでいて、蘭学を学ぶ日本人の中にもコーヒーを飲んだ人がいました。文化元年(1804)の太田蜀山人による記述が日本人初のコーヒー飲用記録だと言われています。そんな事があって(議論の末に)妻籠宿でもコーヒーを提供してもOKっということになって、今ではカプチーノが飲めるカフェもあるようです。江戸時代にエスプレッソマシンは間違いなく無かったはずですが。


宿場の北の丘の上には奈良井城跡があります。室町時代から戦国時代にかけてこの地にいた豪族奈良井氏の館跡です。堀の跡の沢が流れていて、土塁(土の城壁)や空堀(水の無いお堀)が残っています。 って、興味の無い人には「それってお城?何も無いんじゃない?」っと思われてしまう程度の遺構ですが、マニアには十分に魅力的なものです。近くには最後の城主であった奈良井義高のお墓もありました。奈良井宿を訪れる人は多くっても、マイナーな城跡や義高さんのお墓に立ち寄る人は少ないのでしょう。実際、誰にも会わず静かに見学することが出来ました。


奈良井宿から南東へ向かうと峠に差し掛かります。1月に積雪のために向かうのを諦めた鳥居峠です。 峠からは奈良井宿が一望できます。

峠道に「熊除けの鐘」というものが設置されていました。リュックに鐘を付けて歩いている人とすれ違う事は多いのですが、据え付けタイプは初めて見ました。これが峠を越えるまでに7カ所ほどありました。よっぽどクマが多いエリアなのでしょう。 とりあえず一発鳴らしておきました。


峠の途中に「子産の栃」というトチの木がありました。松尾芭蕉も「木曽の栃 浮き世の人の 土産かな」っという句を詠んでいます。 この栃の木の実を煎じて飲めば子宝に恵まれるんだとか。その実を使った栃の実煎餅を全村民に配布すれば村の人口も劇的に増えるのでしょうが、そんなに人が増えても仕事が足りないので配らないのでしょう。

戦国時代、木曽地方には木曽氏が勢力を張っていました。木曽氏は木曽義仲の子孫と称していましたが本当に子孫なのかどうかは定かではありません。 木曽義元が小笠原氏との合戦の前に、この峠のてっぺんで御嶽山に向かって戦勝を祈願して、小笠原氏に勝った後に鳥居を奉納した為に鳥居峠という名前になったんだそうです。 って、それまでこの峠は名も無き峠だったのでしょうか?


峠のてっぺんを過ぎて少し下ったところに木曽氏の砦跡があります。眼下の峠道を進んでくる敵勢を狙い撃ちできそうな立地です。 鳥居峠では何度も合戦が行われました。木曽義康(義元の孫)は天文18年(1549)に武田晴信(後の信玄)の軍勢を撃退しましたが、その6年後には晴信に敗れて武田の軍門に降りました。 天正10年(1582)織田信長が武田攻めを開始すると木曽義昌(義康の子)は武田から離反。怒った武田勝頼(信玄の子)が攻め寄せますが、義昌は峠や麓の林で数倍の武田勢に対して互角以上に戦い、やがて織田勢が来援して武田勢は一気に崩れ、甲斐の名族武田氏は滅亡へと急速に転がり落ちていったのでした。

鳥居峠を下りてきたところには、尾張徳川家お抱えの鷹匠の役所跡がありました。この辺りでタカの雛を取ってきて(命賭けでしょうね)育てて調教して狩猟のパートナーに仕立て上げたのでしょう。

宮ノ越宿には宿場の本陣が残っています。木曽路に残る唯一の本陣建築。大名などのVIPが宿泊する名主の屋敷です。中を見学できるようですが、つい先ほど閉館したところでした。係の方が親切に「開けましょうか?」と言ってくださいましたが「先を急ぐ旅の者でござるゆえ」っと丁重にお断りして立ち去りました。
薮原宿には愛宕社の「火廼要慎」の碑がありました。こんな字を書いて「火の用心」と読みます。愛宕神社の総本宮は京都嵯峨野の奥の愛宕山頂上に鎮座しています。実は私は25年ぐらい毎年1回の参拝登山を続けています。1年間台所に貼ってあった御札を剝がしてお返しして、新しい御札を頂くのです。 あ、もちろん有料ですが。
関東では火の用心は秋葉大明神にお願いすることが多いと思いますが、木曽では愛宕?ここまで来ると関西系になるのでしょうか?

宿場には酒蔵もありました。長野県で2番目に古いという慶安3年(1650)創業の湯川酒造店。が、開いていなかったので近くの酒屋でここの銘柄「木曽路」の1合瓶を購入しました。

宿場を過ぎてしばらく進むと街道沿いに機関車が出現しました。自由に触ることが出来て、運転席にも座れます。なんかちょっと感動しました!


木曽川に「巴が淵」という淵がありました。後に木曾義仲の愛妾となる巴御前がここで水練にいそしんだんだとか。 今は渓流釣りのポイントらしく(ミノーと呼ばれる小魚の形をした)ルアーを投げている釣り人がいました。「ミノーで釣れるんですか?」っと聞いてみると「これに喰いつくデカいのがいるんですよ」っと嬉しそうに教えてくれました。しばらく見ていましたが、大イワナが掛かる場面を見ることは出来ず、諦めて立ち去りました。こういうのって見物客が去った後すぐに釣れたりするものです。それで「もうちょっと早かったら見せてあげられたのに」って思うものです。


木曽川に沿って5kmほど歩いたところには木曽義仲の館跡があって八幡神社が鎮座していました。その名も旗挙八幡宮。もちろん治承4年(1180)に以仁王(もちひとおう)の令旨を受けて、義仲が平家打倒の旗挙げをした事に由来します。八幡宮は義仲が京の石清水八幡宮の御分霊を勧請したものなんだとか。ここの境内には義仲が植えたといわれる大きなケヤキの木がありますが、落雷や台風のために無残な姿となってしまっています。なんだか義仲の最期を物語るようで、より一層の哀愁を感じます。


木曽義仲館跡の近くには、義仲を引き取って育てた中原兼遠の館跡があって、兼遠のお墓もありました。先ほどの淵でスイミングの練習をした巴御前は中原兼遠の娘で義仲とともに育ったとも言われます。 滋賀県大津市の義仲寺(ぎちゅうじ)に義仲と巴御前のお墓があったよな~っと思い出しながら田んぼの畦道を歩いていると、足元からキジの雌雄ペアが飛び立ってビックリしました!つがいのキジって初めて見ました。義仲と巴御前だったのかもしれません。


義仲と兼遠の館跡から4kmほどを歩くと木曽福島駅に到着しました。
前回に南から歩いて来た地点です。前回とは打って変わって、とっても気持ちの良い春の木曽路ウォーキングでした。
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