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第一話 名前を呼ばないで



雨だった。


段ボールの中で、濡れた毛を舐めていた。

そこに、彼女が屈み込んできた。


それが、最初の記憶。


彼女の名前は、心響という。


自分には、まだ名前がない。


「猫ちゃん、ごはんだよ」


それは名前じゃない。


「猫ちゃん、おいで」


それも、名前じゃない。


隣の家の猫には、ちゃんと名前があるらしい。

窓越しに聞こえる声で、それがわかる。


自分にだけ、ない。


それが、少しだけ気に食わなかった。


夜になると、心響はベッドの端を軽く叩く。

そこに乗れという合図。


布団に潜り込むと、彼女の心臓の音が聞こえる。


とくん。


とくん。


規則正しいその音を聞きながら眠るのが、一日でいちばん好きな時間だった。


ベランダの向こうに、見慣れない灰色の影がよぎることがある。


ハチワレの、片耳が少し折れた猫。


近づいてくることはない。

ただ、通り過ぎていくだけ。


気にする理由も、ない。


ある晩、心響が電話をしていた。


声のトーンが、いつもと違う。


「うん、来月には引っ越すから」


誰に言っているのかは、わからない。

言葉の意味も、わからない。


「猫? ああ、連れていくよ。もちろん」


それから、少し黙って、


「名前つけちゃったら、離れられなくなりそうで」


笑いながら、そう言った。


声が、少し震えていた気がする。


気のせいかもしれない。


それからしばらく、心響は前よりも長く、自分を撫でるようになった。


写真を撮る回数が増えた。


ため息の数も、増えた気がする。


理由は、わからない。


ただ、そばにいた。


段ボールが、部屋の隅に積まれていく。


家具が、少しずつ減っていく。


いつもの匂いが、少しずつ薄まっていく。


最後の夜。


部屋には、もう何もなかった。


床に敷かれた一枚の毛布の上で、心響は膝を抱えて座っていた。


「おいで」


膝の上に乗る。


いつもより、強く抱きしめられた。


「ねえ」


耳のすぐ近くで、声がした。


「……心音」


はじめて、名前を呼ばれた。


意味はわからない。


自分の胸の音のことなのか。

彼女自身の、何かのことなのか。


ただ、その声は、いつもより優しかった。


窓の外、街灯の下を、灰色の影が横切っていった。


片耳の折れた、あの猫だった。


誰かを、見送るように。


それだけ。


意味はわからない。


ただ、覚えている。


新しい部屋には、知らない匂いがした。


段ボールを開ける音、テープを剥がす音、そういうものだけが、しばらく部屋を満たしていた。


心音、と呼ばれるたびに、少しずつ、それが自分の名前だという実感が、体に馴染んでいった。


最初は、戸惑った。


「心音」


その響きは、どこか、彼女自身の名前に似ていた。


偶然なのか、そうではないのか、確かめる術はない。


ただ、夜になると、彼女は変わらず、布団の端を軽く叩いた。


とくん。


とくん。


心臓の音は、前の部屋でも、今の部屋でも、同じ速さで鳴っていた。


変わらないものが、ひとつだけあるということが、なんとなく、安心できた。


ある夜、彼女がアルバムを開いているのを見た。


古い部屋の写真が、何枚も並んでいる。


その中の一枚に、段ボールの中で丸まっている、小さな自分が写っていた。


「あのときは、まだ猫ちゃんだったね」


指先で、写真をなぞりながら、彼女は笑った。


「今は、心音だもんね」


その言葉に、返事はできない。


ただ、彼女の膝によじ登って、体を丸めた。


とくん。


とくん。


その音を聞きながら、新しい部屋の匂いにも、少しずつ慣れていった。


『第一話 名前を呼ばないで』 終

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