「即」という名のアポリア 第4回
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今回は、縁起説や十二処や十八界について述べたいと思います。縁起説は仏教の根幹と言っていい重要な思想です。十二処(六根六境)や十八界をめぐっては少しだけ煩雑な話も出てきますが、縁起説と絡んでくるところがあるので、ここでいっしょに述べることにします。
まず十二処(六根六境)と十八界について。十二処(六根六境)について、経典にはこう書かれています。
「比丘たちよ、なにをか一切となすのであろうか。それは、眼と色(物体)とである。耳と声とである。鼻と香とである。舌と味とである。身と触(感触)とである。意と法(観念)とである。比丘たちよ、これらを名づけて一切というのである。
比丘たちよ、もし人ありて、<わたしは、この一切を捨てて、他の一切を説こう>と、そのように言うものがあったならば、それは、ただ言葉があるのみであって、他の人の問いに遇えば、よく説明できないばかりか、さらに困難に陥るであろう。何故であろうか。比丘たちよ、それは、ありもしないものを語っているからである」(サンユッタ・ニカーヤ35・23 増谷文雄訳)
また、十八界については、こう書かれている経典があります。
「師よ、それでは界についての知が熟達した比丘と正しくいいうるのは、どのような範囲においてでしょうか」
「アーナンダよ、次にあげる十八の界、すなわち、眼と色形と視覚、耳と音と聴覚、鼻と香りと嗅覚、舌と味と味覚、皮膚と触れられるべきものと触覚、心と概念と意識の諸界がある。アーナンダよ、これら十八の界を(正しく)知り、見るならば、彼を界についての知が熟達した比丘であるということは、このかぎりにおいて正しいのである」 (マッジマ・ニカーヤ第115経 長尾雅人・工藤成樹訳)
まず六根というのは、眼・耳・鼻・舌・身・意という六つの感覚器官のことです。六境というのは六根の対象である色・声・香・味・触・法という六つの要素のこと。そして、六根と六境が接触し、相互作用することで生じる六種類の認識が六識で、眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識の六つです。
六根と六境をあわせて十二処、六根と六境と六識をあわせて十八界と言います。「界」というのは、パーリ語の原語はdhātuという言葉です。このdhātuという言葉は非常に多義的で始末に困るのですが、十八界というときの「界」は「要素」という意味です。
具体的に言うと、眼(視覚機能)と色(いろやかたち)が相互作用することで眼識(視覚的認識)が生じ、耳(聴覚機能)と声(音のこと)が相互作用することで耳識(聴覚的認識)が生じ、鼻(嗅覚機能)と香によって鼻識(嗅覚的認識)が生じ、舌(味覚機能)と味によって舌識(味覚的認識)が生じ、身(触覚能力)と触(触られる対象)によって触識(触覚的認識)が生じ、意と法によって意識が生じます(意と法と意識については後ほど説明します)。人間の認識はこのようにして生じる、というわけです。これを簡単に表にまとめると、次のようになります。

ここでちょっと注意していただきたいのは、六境の一つである色は、五蘊の一つである色とは意味が異なるということです。五蘊の一つである色は現象の世界の物質的要素すべてを指しますが、六境の色は「眼の対象であるいろやかたち」のことで、この世にある物質的要素の一部しか指していません。字面は同じですが、意味が違うので気をつけてください。
六根も六境も六識も、最初の五つはいわゆる五感に対応しているのでイメージしやすいかと思いますが、六つ目の意と法と意識については説明が必要でしょう。
「眼と色の相互作用によって眼識が生じる」とか「耳と声の相互作用によって耳識が生じる」というのは、人間が外界から受ける刺激を認識する場合の話です。でも、人間の認識には外界からの刺激によって生じる「もの」だけではなく、「何かを思い出す」とか「何かを予想する」とか「何かを考える」とかいった場合もあります。
外界からの刺激ではなく、そういう内的な現象を想定したのが意と法と意識です。法というのはここでは、「人間が思い浮かべることができるすべての『もの』」ぐらいの意味です。法を対象にして内的に意根が作用することによって意識という認識が生じるというわけです(ちなみに、この六識の一つである意識が、現代の日本語でも使われている「意識」という言葉の起源です。もともとの意味とは少し違う意味で使われているのですが)。
ここで、「でも、意根と意識って区別できるの? 同じ『もの』なんじゃないの?」と疑問に思った方もいるかもしれません。
この点については、後の時代に説一切有部という部派が苦し紛れではありますが、「意識は現在の認識だが、意根は一瞬前に過ぎ去った認識である」と答えています。つまり、まず意根が法を対象として作用し、その一瞬後に意識が生じるというリクツです。
この苦し紛れの理論には優れた面もあったため、これがのちに経量部という部派や唯識派に取り入れられ、インドの仏教哲学史にさりげなく大きな影響を与えたりしていて面白いのですが、そのことについて述べていると紙が何枚あっても足りないし、この雑文にもあまり関係ないのでそこには立ち入りません。
さて、ここで重要なのは、先ほど引用した経典のなかで釈迦が、十二処は一切であると言っていることです。そう言ったうえで釈迦は、「<わたしは、この一切を捨てて、他の一切を説こう>と、そのように言うものがあったならば、それは、ただ言葉があるのみであって、他の人の問いに遇えば、よく説明できないばかりか、さらに困難に陥るであろう」「それは、ありもしないものを語っているからである」と説いています。
つまり、十二処も十八界も、人間がこの世で認識したり考えたりするすべての「もの」を網羅しているのです。というのは、もし「十二処以外の『もの』を考えついたぞ!」とか「十八界には含まれていない『もの』を思いついたぞ!」などと言っても、考えたり思ったりしたその瞬間にそれはもう六境の一つである法(これは先ほど言ったように、「心で思い浮かべることができるすべての『もの』」です)に含まれてしまっているからです。
ここでこんな疑問を抱いた方がいるかもしれません。「そうするとこの世に存在するすべての『もの』は十二処のうちのどれかに分類することができ、十二の要素以外の『もの』はこの世に存在しないということになるわけだ。でも十八界という分類法では、その十二の要素にさらに六識が加わっている。これはおかしい。十二処でこの世のすべての要素が網羅されていると言うのなら、そこにさらに六識を加える必要はないはずだ。十二処はこの世のすべてを含む分類ではないということになって、矛盾するんじゃないか」
これは、先ほど説明した「まず意根が法を対象として作用し、その一瞬後に意識が生じる」というリクツと絡んでくる問題です。
十二処という分類法では、「意根による作用」と「その結果一瞬後に生じる意識」という二つをひとまとめにして意と呼んでいます。ここでは、六識はすべて六根のひとつである意のなかにまとめて含まれているわけです。そして、そうやってひとまとめにされている意の中から、六根と六境との接触の結果生じる認識だけを別立てして並べたのが六識です。
やや煩瑣な話になりましたが、いずれにせよ初期仏教では十二処は一切であると言っているわけで、十二処の相互関係を超えて認識が生じるなどということはないと考えたわけです。これは、現代人の感覚でも納得できることでしょう。たとえ最先端の宇宙物理学などであっても、宇宙についてのデータは人間の知覚を通さなければ得られないはずです。
人間は十二処を離れて世界を認識することはできないし、十二処の外側に全知全能の神やブラフマンやイデアや道といった「もの」が存在すると説くことは、初期仏教に言わせれば無意味なことなのです。十二処・十八界を離れて、根拠のある言説は成り立たない。だから、初期仏教は経験や見解の限界を忘れて、人間が経験することができる事実に基づいて答えを出すことができない問題をああだこうだと論じることを戒めていると言えます(このことは第5回で述べる「無記」という教えにも関わってくる問題です)。
ちなみに、六根の眼とか耳とか舌というのは、眼球や耳たぶ及び内耳の器官やベロなどのことではありません。一応物質的要素ではあるのですが、どちらかというと「機能」とか「能力」とでも言うべき要素です。
また、六識は現代人が言うところの精神と同じ「もの」だというわけでもありません。六境は六根という感覚器官を通して六識と直結しており、三者が一緒になってスパークすることで、現代日本語で精神と呼ばれている「もの」が現れてくるということになります。
ですから、六識だけを指して精神と呼ぶことはできません。境と根と識という三者が精神を構成しているとさえ言いうるのです。
この発想は、キリスト教や西洋思想に見られるような、物質・肉体と精神(魂)を完全に二分し、独立した存在として扱う考え方とは全く異なるものです(そもそも無我説では魂などという「もの」は認められません)。境が物質で、識が精神であると無理矢理区分したとしても、両者を中継する根の帰属がどっちつかずになって決定できません。西洋的思惟と異なる思考が認められるわけで、なかなか興味深いものがあります。
ついでだからさらにつけ加えておくと、先ほども少し登場してもらった説一切有部という部派は、識は特定の空間には存在しないと考えました。なぜなら、空間はあくまでも物質が占有するものであり、識は物質でないからだと言うのです。これはなかなか面白い見方だと思います。あえて無理に言うなら、「その生命体の全体に遍満している」といった感じになるのでしょうか。
現代でも我々は、精神活動の場をどこか特定の場所に限定したいという誘惑に駆られて、つい「精神は脳の中にある」などと言ったりしますが、よく考えるとこれは不合理です。
精神は我々の身体を構成するすべてのパーツが五感を通じて統合されたところに現れてくる「もの」ですし、脳だけがあっても精神は現れてきません。もっと言えば、その五感を刺激する外界の要素もまた精神形成に大きく作用します。ただ、そういった外界の物質的要素や身体という要素を統合する作用の多くを脳が行っているというだけです。そのことからただちに精神は脳の中にあると言うことはできません(そういえば『ドグラ・マグラ』という小説には「脳髄は電話交換局だ」という有名なフレーズが出てきますね)。そう考えると、説一切有部のように識の存在箇所を特定しないというのはなかなか理にかなった興味深い見方のように思えてきます。
少々煩雑な話になったり脱線したりしましたが、ともあれ重要なのは、五蘊・十二処・十八界のいずれにも、「自分」とか「自我」とかいった「もの」や、あるいは「机」とか「椅子」とか「レコード」とか「猫」とか「犬」といったような、人間が常識的に実在すると信じて疑わない「もの」は含まれていないということです。
以前言ったことの繰り返しになりますが、こんな感じになります。通常我々は、例えば椅子でいくと、まず椅子という「もの」が実在していて、その椅子にいろとか形とか、あるいは「かたい」とか「ざらざらしている」とかいった属性があると考えます。しかし、初期仏教ではそう考えません。存在するのは色や香や触といった要素(境)であって、それらがそれぞれ眼や鼻や身といった要素(根)と接触し、眼識や鼻識や身識といった認識が生じると考えます。人間が椅子という「もの」が実在すると考えるのは、それらの認識を恣意的に統合することで浮かび上がってくる「椅子」という架空の集合体が実在すると錯覚するからだというわけです。
ここで椅子を自分とか自我に置きかえて、「自分とは何か」「自我とは何か」を説明するとどうなるか。「自分」とか「自我」も同様に、様々な要素が寄り集まって関係しあうことによってあたかも存在するかのようにみえるけれど、実際には幻のような「もの」だということになるわけです。
十二処や十八界についてはこれくらいにして、縁起説にいきましょう。これも仏教を理解するうえで非常に重要な考え方です。以前にも少し触れましたが、縁起説というのは、思いきって大ざっぱに言うと、「この世界の現象はすべて(因果関係などの)関係によって動いている。だからすべての現象は関係によって条件づけられており、条件がなくなれば滅びる」という考え方です。他の宗教のように、絶対的な神様がいて、不可思議なパワーで世界を動かしたり、人々に何かを強制したりするとは考えないわけで、現代人にも納得できる考え方です。
現代の日本語では、例えば茶柱が立っているのを見て「縁起がいい」と言ったり、黒猫が目の前を横切るのを見て「縁起でもない」などと言ったりします。この場合の縁起という言葉は「よいことや悪いことの前兆」ぐらいの意味であり、かつてのインド仏教とはだいぶ違った意味で使われています。
また、『元興寺縁起』とか『北野天神縁起』とかいった具合に、「神社仏閣が建てられた由来や歴史。また、由来や歴史を記した書物や絵巻」ぐらいの意味で用いられることもあります。
現代の日本語では、縁起という言葉の元々の意味は蒸発し見失われている感があります。しかしその一方で日本語には、「ご縁がある」とか「縁がない」とかいった言い回しもあります。こちらは、かつてのインド仏教における縁起説を反映していると言っていいかもしれません。
ともあれ、この縁起説がパーリ経典に出でくる際には、“最も整った形としては”十二支縁起という形で説かれています。ここでいう「支」という言葉は要素という意味です。ですから十二支縁起というのは、「十二の要素が連なった縁起」と解釈していいでしょう。
それではこの十二支縁起というのは具体的にどういうものなのか。例のごとく経典を見てみましょう。
「比丘たちよ、わたしはいま汝らに縁起について説こうと思う。汝らはそれをよく聞いて、考えてみるがよろしい。では説こう」
「大徳よ、かしこまりました」
と、彼らもろもろの比丘は答えた。そこで世尊は説いていった。
「比丘たちよ、縁起とは何であろうか。比丘たちよ、無明によって行がある。行によって識がある。識によって名色がある。名色によって六処がある。六処によって触がある。触によって受がある。受によって愛がある。愛によって取がある。取によって有がある。有によって生がある。生によって老死・愁・悲・苦・憂・悩が生ずる。かかるものが、すべて苦の集積によって起るところである。比丘たちよ、これを縁によって起るとはいうのである。
比丘たちよ、また、無明を余すところなく離れ滅することによって行は滅する。行を滅することによって識は滅する。識を滅することによって名色は滅する。名色をめっすることによって六処は滅する。六処を滅することによって触は滅する。触の滅するとこによって受は滅する。受の滅することによって愛は滅する。愛の滅することによって取が滅する。取の滅することによって有が滅する。有の滅することによって生が滅する。生の滅することによって老死・愁・悲・苦・憂・悩が滅する。かかるものが、すべての苦の集積のよって滅するところである」(サンユッタ・ニカーヤ12・1 増谷文雄訳)
ここで語られているのは、ドゥッカが生じてくるメカニズムです。つまり、ドゥッカの根本原因は無明という要素であり、その無明という要素によって行という要素が生じる。その行という要素によって次は識という要素が生じる。その識という要素によって今度は名色が生じる、という具合にどんどん連鎖していき、最終的に生という要素によって老死・愁・悲・苦・憂・悩が生じる。
ということは、無明を滅ぼせば行は滅びるし、行が滅びれば識は滅ぶし、識が滅びれば名色が滅びる、という具合になるから、最終的に老死・愁・悲・苦・憂・悩も滅びる。
無明を消すことができれば、あとはドミノ倒し式に各要素が消えていき、ドゥッカを滅ぼすことができる。そういう考え方です。十二支縁起で取り上げられている十二の要素を列挙すると次のようになります。
①無明 ②行 ③識 ④名色 ⑤六処 ⑥触 ⑦受 ⑧愛 ⑨取 ⑩有 ⑪生 ⑫老死
これらの十二の要素がそれぞれ具体的に何を意味しているのか、十二支同士の関係はどんな風になっているのかについては、パーリ経典や阿含経典の内部にも異説があったりして必ずしも明確ではないところがあります。この点についてはいったん置いておいて、縁起説についてもっと知るためにパーリ経典に出てくる十二支縁起以外の縁起説を見てみましょう。サンユッタ・ニカーヤに、次のように説かれている箇所があります。
比丘たちよ、取著するものを味いながら観ていると、その人には愛著の念がいやましてくる。愛によって取がある、取によって有がある、有によって生がある。生によって老死・愁・悲・苦・憂・悩が生ずる。かくのごときが、このすべての苦の集積の生ずる所以である。
比丘たちよ、それは、たとえば、ここに大きな焚き火があって、そこで十把の薪、あるいは二十把の薪、あるいは三十把の薪、あるいは四十把の薪をもやしておるとする。しかるに、その時、人があって、時を見はからって、その焚き火に、また、乾いた草を投じたとする、あるいは乾いた牛糞を投じたとする、あるいは乾いた薪束を投じたとするならば、どうであろうか。比丘たちよ、そうすれば、その大きな焚き火は、そのために、いよいよ久しく燃えつづけるであろう。
(中略)
しかるに、比丘たちよ、取著するところのものを、これはいけないぞと観ていると、その人には、愛著の念が滅する。愛が滅すると取が滅する。取が滅すると有が滅する。有が滅すると生が滅する。生が滅すると老死・愁・悲・苦・憂・悩もまた滅する。かくのごときが、このすべての苦の集積の滅する所以である。
比丘たちよ、それは、たとえば、ここに大きな焚き火があって、そこで十把の薪、あるいは二十把の薪、あるいは三十把の薪、あるいは四十把の薪をもやしておるとする。しかるに、その時、誰も時を見はからって、その焚き火に、また乾いた草や、あるいは乾いた牛糞や、あるいは乾いた薪束などを投入することをしなかったとしたならば、どうであろうか。比丘たちよ、そうすれば、その大きな焚き火も、やがて、さきの薪は燃え尽き、新しい燃料は加えられないということで、消えてしまうであろう。 (サンユッタ・ニカーヤ12・52 増谷文雄訳)
これは五支縁起と呼ばれています。愛(渇愛)を原因として最終的に老死が生じるということで、先ほどあげた①~⑫の十二支でいえば、①~⑦(無明から受まで)がなく、⑧~⑫(愛から老死まで)のみが説かれています。他にも八支縁起(⑤の六処を原因として最終的に⑫の老死が生じると説く)や十支縁起(③~⑫までを説く)など、経典によって様々な縁起説が説かれています。中には二支縁起や三支縁起のような単純なものもあります。
このように多様な縁起説が成立した理由としてよく言われるのは、最初は支が少ない単純なものだったのが、時代が下るに従って徐々に支が増えて複雑化し、十二支縁起が成立したという説です。一方で、まず十二支縁起があって、そこから省略形や変形ができていったという少数説もあります。
ともあれ、ここで注目したいのは五支縁起です。これは、四諦説と対応した内容になっているという点で興味深い縁起説です。というのも、以前説明したように、四諦説の苦諦というのは「この世はドゥッカであるという真理」で、集諦は「ドゥッカは原因があって起こるのであり、その原因とは渇愛であるという真理」です。五支縁起は、渇愛によって最終的に老死というドゥッカが生じるという関係を説いたものですから、内容的には同じです。そして、⑧~⑫(愛から老死まで)は、八支縁起や十支縁起や十二支縁起のいずれにも組み込まれています。
そういったことを考えあわせると、五支縁起において最終的に老死をもたらす原因だとされている渇愛がなぜ生じるのかを、さらに遡って探ったのが八支縁起や十支縁起や十二支縁起だと解釈することもできるのではないかと思います。いずれにせよ、縁起説と四諦説は相互に絡んでいる教えであるとは言えます。
さて、十二支縁起が、四諦説や五支縁起で説かれている渇愛が生じる原因をさらに探ったものだとすれば、①~⑫までの要素がそれぞれ具体的に何を意味しているのか。また、十二支同士の関係はどんな風になっているのか。先ほども申し上げたように、この点については必ずしも明確でないところがあるのですが、ひとまずここでは経典を一つあげるだけあげておきます。
では、比丘たちよ、老死とはなんであろうか。生きとし生けるものが、老い衰え、朽ちやぶれ、髪しろく、皺生じて、齢かたむき、諸根やつれたる、これを老というのである。また、生きとし生けるものが、命おわり、息絶え、身?やぶれて、死して遺骸となり、棄てられたる、これを死というのである。かくのごとく、この老いとこの死とを、比丘たちよ、老死というのである。
また、比丘たちよ、生とはなんであろうか。生きとし生けるものが、生れて、身体の各部あらわれ、手足そのところをえたる、比丘たちよ、これを生というのである。
また、比丘たちよ、有(存在)とはなんであろうか。比丘たちよ、それには三つの存在がある。欲界すなわち欲望の世界における存在と、色界すなわち物質の世界における存在と、無色界すなわち抽象の世界における存在である。比丘たちよ、これを有というのである。
比丘たちよ、また取(取著)とはなんであろうか。比丘たちよ、それには四つの取著がある。欲にたいする取著、見(所見)にたいする取著、戒(戒禁)にたいする取著、我にたいする取著がそれである。比丘たちよ、これを取というのである。
比丘たちよ、では、愛(渇愛)とはなんであろうか。比丘たちよ、それには六つの渇愛がある。物にたいする渇愛、声にたいする渇愛、香にたいする渇愛、味にたいする渇愛、感触にたいする渇愛、法にたいする渇愛がそれである。比丘たちよ、それを愛というのである。
比丘たちよ、では、受(感覚)とはなんであろうか。それには六つの感覚がある。眼の接触によりて生ずる感覚、耳の接触によりて生ずる感覚、鼻の接触によりて生ずる感覚、舌の接触によりて生ずる感覚、身の接触によりて生ずる感覚、ならびに意の接触によりて生ずる感覚がそれである。比丘たちよ、これを受というのである。
比丘たちよ、では、触(接触)とはなんであろうか。比丘たちよ、それには六つの接触がある。すなわち、眼による接触、耳による接触、鼻による接触、舌による接触、身による接触、および意による接触がそれである。比丘たちよ、これを触というのである。
比丘たちよ、では、六処(六根六境によってなる認識)とはなんであろうか。眼の認識と、耳の認識と、鼻の認識と、舌の認識と、身の認識と、意の認識とである。比丘たちよ、これを六処というのである。
比丘たちよ、では、名色(五蘊)とはなんであろうか。受(感覚)と想(表象)と思(思惟)と触(接触)と作意(意志)と、これを名というのである。また、四大種(地・水・火・風)およびそれによって成れるもの、これを色というのである。つまり、そのような名とそのような色とを、名色というのである。
比丘たちよ、では、識(識別する作用)とはなんであろうか。比丘たちよ、それには六つの識がある。すなわち、眼識と耳識と鼻識と舌識と身識と意識とがそれである。比丘たちよ、これを識というのである。
比丘たちよ、では、行(意志のうごき)とはなんであろうか。比丘たちよ、それには三つの行がある。すなわち、身における行と、口における行と、心における行とがそれである。比丘たちよ、これを行というのである。
比丘たちよ、では、無明(無智)とはなんであろうか。比丘たちよ、苦についての無智、苦の生起についての無智、苦の滅尽についての無智、および苦の滅尽にいたる道についての無智である。比丘たちよ、これを無明というのである。 (サンユッタ・ニカーヤ12・2 増谷文雄訳)
……正直に言うと、十二支縁起には人によって解釈がだいぶ違うといったような面倒な問題がいろいろあって“あまり説明したくない”のですが、大ざっぱに言うとこんな感じでしょうか。
無明が根本原因となって行(行為エネルギーの慣性・「世界」を形成する力。ここでは五蘊の一つである行よりも広い意味です)が生じ、そこから識・名色・六処・触という具合に、認識作用や心的要素や物質的要素が複雑に接触しあうようになる。そうすると苦しみや楽しみなどを感受するようになる(受)。すると衝動や執著や所有への渇望が生まれる(愛・取)。そうすると、「生存」がもたらされる(有)。そして最後に、苦しみや楽しみを享受する者を待ち受けているのは、生と老死である……。
繰り返しになるようですが、十二支縁起についてははっきりしないところがいろいろありますので、正直に申し上げると、この説明も「考えられうる大ざっぱな説明のうちの一つ」でしかないです。ただ、渇愛の原因を遡って説明していくにあたって、五蘊や六根といった教えをそこに位置づけようとしているということは言えるように思います。縁起も四諦説も五蘊も六根も独立した教えではなく、相互に絡みあっているというのは初期仏教を理解するうえで重要だと思います。
ちなみに、この十二支縁起説については、経典においては十二の要素とセットで次のような決まり文句が述べられることもあります。
これがあるとき、かれがある。これが生ずるとき、かれが生ずる。
これがないとき、かれがない。これが滅するとき、かれが滅する。
つまり、十二支縁起の因果関係を公式化するとこうなるというわけです。十二の要素はいずれも関係によって条件づけられているので、条件がなくなれば滅びるというわけです。「これがあるとき、かれがある。これが生ずるとき、かれが生ずる」というのは、苦諦と集諦のことであり、「これがないとき、かれがない。これが滅するとき、かれが滅する」というのは滅諦と道諦のことだと解釈できます。こういうところをとっても、縁起は四諦説と絡んでいるとみることができます。
とりあえずここでは、以下の四つのポイントをおさえておくことにしましょう。
①縁起説の基本にある考え方は「この世界の現象はすべて(因果関係などの)関係によって動いている。だからすべての現象は関係によって条件づけられており、条件がなくなれば滅びる」というものである
②縁起説は四諦説と深く絡んでいる
③初期仏教では縁起説は、“最も整った形としては”十二支縁起という形で説かれている
④その十二支縁起説ではドゥッカの根本原因は無明であるとされているとされている
では、十二支縁起において、ドゥッカの根本原因とされている無明というのは何なのか。これについては、「無知」のことだという解釈や、「根本的生存欲」のことだという解釈があります。
先ほど引用した経典を見てみましょう。ここには、「比丘たちよ、では、無明(無智)とはなんであろうか。比丘たちよ、苦についての無智、苦の生起についての無智、苦の滅尽についての無智、および苦の滅尽にいたる道についての無智である。比丘たちよ、これを無明というのである」とあります。
ここでいう苦・苦の生起・苦の滅尽・苦の滅尽にいたる道というのは、以前説明した苦諦・集諦・滅諦・道諦という四諦のことです。つまり無明とは、四諦に対する無知のことだと言っているわけです。無明とは、仏教の根本思想に対する無知だということになります。ただし、この無知というのは知識がないとか頭が悪いとかそういった意味ではありません。無常やドゥッカや無我や四聖諦や縁起を体得できず、目の前の「もの」や「自分」が確固として存在すると考えて疑わず、体験され経験される現象を「ニュートラルに」捉え如実に知るということができないという意味でしょう。
「なるほどなるほど。『自分』にも『自分』の欲望にも『自分』の欲望の対象にも本体や実体はないのだな。とらわれはよくない」と頭では納得しても、それだけだとそのあとで大きなおっぱいを見るとやはり欲情してしまったりするわけです(´・ω・`)「自分」にも対象にも実体はないと頭ではわかっていても怒りのままに行動してしまったりするわけです。
現代風に言えば、遺伝的に受け継がれた生得的な行動様式によって突き動かされ、そこで形成されふっと浮かんできた欲望を「自分」だと錯覚し、快いものを好ましく感じ、いとおしいものを愛でて、醜悪だとみなしたものを嫌悪し、不安や痛みを遠ざけようとするというのは人間の拭いがたい性向です。「自分」も「自分」の欲望も「自分」の欲望の対象も虚妄であると頭ではわかっていながらやめられない。経験される現象をニュートラルに捉え如実に知るということができない。そういう事態を指して、無明(無知あるいは根本的生存欲)と仏教では言っているわけです。
そういうわけで、ドゥッカの根本原因は無明であり、それを滅ぼせばドゥッカは滅びるというのが仏教の考え方だということになるわけですが、これは文字通り「言うは易く行うは難し」というやつです。だからこそ修行=八正道の実践が必要だという話になるのですが、この実践については後ほどまた触れることにします。
今回述べた十二処や十八界や縁起説と、以前述べた無我説をあわせて考えると、初期仏教はこう説いていると解釈することができます。人間の認知は錯覚だらけで、無明が原因で経験される現象をニュートラルに捉え如実に知るということができず、「こはわが所有なり、こは我なり、こはわが本体なり」と思い込んで疑わず、「自分」という幻想や「自分の『もの』」という幻想に執着し束縛されるからドゥッカから逃れられない。例えば、
यः प्रतीत्यसमुत्पादः शून्यतां तां प्रचक्ष्महे ।
सा प्रज्ञप्तिरुपादाय प्रतिपत्सैव मध्यमा ॥
こんな「もの」を見ても何が何だかわかりませんよね。これはナーガールジュナの『中論』第24章に出てくる非常に重要な一節です。私は、もしタイムマシンが開発されたら、ここに出てくるसा(それ)が、प्रतीत्यसमुत्पादःとशून्यतांのどちらを指しているのか(それによって解釈に影響が生じる)をナーガールジュナ本人に訊きにいってみたいと思っているのですが、今はそういうこのテキストをめぐる話はどうでもいいです。
今言いたいのは、こういう言葉を見たり聞いたりしても、サンスクリットを習ったことのない人にとってはただの文字や音でしかないということです。日本語にしても、我々が読んだり聞いたりしているのはつまるところは「紙についているただのインクのしみ」「(PCやスマホなどのディスプレイの場合は)ただのドットの集まり」「ただの音の組み合わせ」にすぎない。
しかし、日本語を身につけた人はいわば「日本語という『物語』」「日本語という幻想」をインストールしているこそ、それらを読んだり聞いたりして喜怒哀楽を覚えるし、言葉に感動して涙を流したりすることもあれば言葉に激しい怒りや不快感を覚えることもあるというわけです。それと同じように、おっぱいは「ただの脂肪のかたまり」だし、かわいい声も「ただの音の組み合わせ」です。
にもかかわらず人間が異性に対して激しい欲望を覚えるのは、それらの脂肪とか音とかいった流動的な要素(仏教の言葉で言えば六境です)を、(仏教の言葉で言えば無明によって)恣意的に構成・統合して固定化し、「かわいい女の子」という「物語」や幻想を作り上げているからです。そして、そういう欲望を伴った(ニュートラルでない)多様なイメージがまとめられて、世の人が「世界」という言葉で呼んでいる幻想が形成されていくわけです。
そして、多様なイメージがまとめられ織りあわされて「世界」という幻想が形成される上で必要なのが、「自分」という幻想です。色や声や香や触をまとめあげて「かわいい女の子」という一つのイメージを形成するためには、「このかわいい女の子を認識しているのは俺だ」という「物語」が必要になるわけです。そういう具合にして人間はイメージにイメージを重ね、「こいつは男」「こいつは女」「こいつは善人」「こいつは悪人」「これは音楽だけどあれはノイズだから無価値だ」といった具合に、目の前の流動的な現象をどんどん切り分け多様化させ固定化させることで、男や女や「善人」や「悪人」や「音楽」や「ノイズ」といった「もの」が確固として固定的に実在し、変わることなく存在し続けるかのように錯覚するようになってしまうというわけです。そしてそういうイメージの組み合わせを「世界」だと思い込み、「世界」という固定的な「もの」が存在すると思い込む。「世界」というのもつまるところは言葉であり言葉に対応する実体など存在しないとは夢にも思わない……。
そういうわけだから初期仏教では、ドゥッカの根本原因である無明を滅ぼし、「自分」や「世界」といった幻想や「物語」を解体して、縁起によって条件づけられて継起している現象をニュートラルに捉え如実に知ろう、そうやって迷いの世界を脱出しよう、という話になるわけです。縁起や十二処や十八界についてはこのくらいにしておきます。(続く)
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