環流夢譚 その5――「近世仏教堕落論」という神話
はじめに
本稿では、その3で近代のスリランカの仏教改革運動を扱い、その4で近代のインドのヒンドゥー教改革運動について述べ、スリランカ以外のアジア各地の仏教改革運動にも(ごく簡単にではありますが)触れました。そこで今回からは、近代の日本の仏教について見ていきましょう――と言いたいところなのですが、ここでちょっとだけ立ち止まってみたいと思います。
というのも明治時代は、日本の仏教の大きな転換期でした。お寺の役割や、僧侶の立場が変化し、仏教を語ることばもそれまでとは異なる性格を持つようになっていきます。こうした明治以降の仏教の変化について考えるためには、そもそも明治以前に仏教がどのような形で存在していたのかを見ておく必要があります。そこで今回は、ごく簡単ではありますが、明治以前の仏教について触れておきたいと思います。
江戸時代の仏法
寺請制度および寺檀制度の成立
まず江戸時代以前の話を少し述べておきます。鎌倉時代から室町時代にかけて、興福寺や延暦寺や園城寺や根来寺といった有力な寺院は、広大な荘園(寺社領)や僧兵を所有する一大勢力でした。寺社勢力は、朝廷を中心とする公家勢力と競合し、武士たちも手を焼くほどの政治力を持ち、繁栄を謳歌してきたのです。しかしその寺社勢力も、織田信長や豊臣秀吉による天下統一のプロセスを通じて、経済的な基盤(荘園)や軍事力(僧兵)を失い、政治力を大きく失うことになります。さらに江戸時代になると、それまでの様々な特権(守護不入権など)を剝奪された寺社は、江戸幕府が定める法の枠内でのみ活動を許されるようになりました。
ご存知の方も多いと思いますが、江戸幕府は、キリスト教を体制を脅かすおそれがあるということで禁止し、それを徹底するために寺院を利用する政策をとりました。こうした背景のもとに、寺請制度と呼ばれるシステムが確立していきます。これはひとことで言うと、寺院が人々の身分保証を行う制度です。寺院が、自分のところの檀家(寺院に所属する信徒)はキリスト教などに帰依しておらず、寺院に所属しているという保証を与え、檀家の身分証明を行うシステムです。
寺請制度のもとで、家ごとに家族の名前や年齢や妻の実家などを記した宗門人別帳と呼ばれる台帳(今で言う戸籍のようなものです)が作成され、寺院はそれに基づいて自分の檀家であることを証明した寺請証文と呼ばれる身分証明書を発行しました。寺請制度のもとでは、人々はすべてどこか特定のお寺に檀家として所属することになり、全員仏法に帰依しているのだということになります。かくして、江戸時代の日本においては寺院は、人々の身分証明を行う「行政機関」のような役割を果たすことになりました。「役所」のような機能を果たすことになったのです。
同時に寺院は、そこで身分を保証された檀家の葬式や法事を独占的に行うようになりました。このように、人々が特定のお寺の檀家になってお布施を行ない、寺院は檀家の葬式や法事を永続的に行うシステムを寺檀制度と言います。寺請制度および寺檀制度においては、檀家は特定のお寺に所属することになり、お寺と檀家の関係が固定化されることになります。
こうした江戸時代の仏教の姿は、ひと昔前は仏法の堕落だと見なされて、極めて低い評価しか与えられませんでした。つまり、寺請制度および寺檀制度によって寺院が幕府の統制・保護を受けて「お役所」と化した結果、僧侶は檀家の葬式を形式的に行うばかりになってしまった。僧侶は制度にあぐらをかいて、人を救うことをしなくなった。仏教が形式化し形骸化してしまった。少し前まではそのように考えられて、江戸時代の日本の仏教は、仏教の堕落形態だと見られていたのです。こうした見方は、近世仏教堕落論と呼ばれることがあります。
しかし、その後研究が進むにつれて、この近世仏教堕落論は、問題の多い偏ったイデオロギーであることが明らかになっていきました。江戸時代の仏教には、堕落という一言では到底片づけられないような、活発な面が多く含まれていたことが明らかになっていったのです。ここではその活発な面のすべてを紹介することはできませんが、そのほんの一部を見ておきたいと思います。
渡来僧と仏法復興
まず、中国から道者超元(1602-1662)や心越興儔(1639-1695)や隠元隆琦(1592-1673)などの禅僧が来日し、明で行われていた禅を新たに持ち込んだことがきっかけとなって、仏法を再生しようとする運動が盛り上がりを見せました。この流れは仏法の枠を超えて、日本の文化全般に大きな影響を及ぼしました。
当時の長崎には多くの中国の人々が居住しており、彼らも檀那寺を必要としていました。そこで、1620年代に興福寺・福済寺・崇福寺という3つの中国様式のお寺(三福寺と呼ばれています)が建てられて、中国から招かれた禅僧によって中国式の修行や儀式が行われるようになりました。三福寺は、中国から渡来した高僧の活動拠点として機能するようになり、道者超元や隠元隠元隆琦も三福寺で活動しました。
その道者のもとでは、多くの日本人の禅僧たちが修行しました。例えば、臨済宗の賢巌禅悦(1618-1696)や盤珪永琢(1622-1693)や、曹洞宗の独菴玄光(1630-1698)や月舟宗胡(1618-1696)や鉄心道印(1593-1680)などが、道者に師事しています。盤珪は、平易な日本語で「不生禅」と呼ばれる禅を教えて、一般の人々にも大きな感化を及ぼした人物です。独菴玄光は、曹洞宗の復興に力を尽くした人です。また、月舟宗胡の弟子に、曹洞宗の卍山道白(1636-1715)という人がいます。卍山は曹洞宗の宗風を道元(1200-1253)の時代に復帰させようとする「宗統復古運動」を推進し、その後の曹洞宗の歩みに大きな影響を与えました。卍山はその活動によって、後世には「曹洞宗中興の祖」と称されるようになりました。
また、明の時代の禅を新たに日本に伝えた隠元隆琦は、新しく隠元のために京都の宇治に建てられた黄檗山万福寺の開山(寺院を創始した僧)となりました。万福寺では、中国人の僧侶が住職になって、中国風の儀式や修行や日常生活を行ないながら、中国僧と日本僧がともに学ぶという、独特の宗風が確立されました。

隠元のもとで学んだ日本の僧侶には、鉄牛道機(1628-1700)、潮音道海(1628-1695)、鉄眼道光(1630-1682)、了翁道覚(1630-1701)などがいます。鉄牛は、下総(現在の千葉県北部と茨城県の南西部のあたりです)の椿沼の干拓事業を推進し、鉄眼も飢饉の救済に力を尽くしています。当時の黄檗僧の社会活動には目覚ましいものがあったのです。ともあれ、以上のように、江戸時代初期には、中国からやってきた渡来僧から刺激を受けて、仏法を復興しようとする運動が盛りあがっていました。日本側は、盛んに中国の新しい動向を学ぼうとしていたわけです。
大蔵経の出版と出版文化のめぐみ
さて、隠元のもとで学んだ鉄眼道光は、日本に大蔵経を普及させるうえでも大きな役割を果たしました。大蔵経というのは、三蔵(経蔵と律蔵と論蔵)をはじめとする膨大な量の仏典を集めて集大成したものです。日本ではそれまでにも、1637年から1648年にかけて印刷され、10年以上の月日を費やして完成した天海版大蔵経というものがあったのですが、部数に限りがあり、普及という点では不十分でした。そこで鉄眼は、大蔵経を広く普及させたいと願って、民間で大蔵経を刊行することを志しました。鉄眼は全国を回って大規模な募金活動を行い、数々の困難を乗り越えて、鉄眼版大蔵経を完成させたのです。鉄眼版大蔵経は、その後何度も印刷されたので、全国に広く流布することになりました。全国規模で仏法にまつわる大事業が行われ、成果をあげていたわけです。

また、鉄眼と同じく隠元のもとで学んだ了翁道覚も、大蔵経の普及に大きな功績をあげた人物です。了翁は、各宗の寺院に大蔵経を寄進する活動を行いました。江戸時代の仏法はややもすると、排他的な宗派が固定化して、閉塞状態に陥っていたようにイメージされがちです。ところが了翁は、宗派的な束縛を嫌って天台・密教・禅を兼学することを掲げ、宗派を超えて寺院に大蔵経を寄進しました。このように、隠元のもたらした流れは、宗派の壁を打ち破る効果も発揮していたのです。
ところで、このように大蔵経が出版され全国に流布されるという事態は、印刷技術を背景として起きてきたものです。この印刷技術というものは、それまでの学問や仏道のありかたを変えるパワーを持っていました。というのも、もともと日本では、印刷された書籍ではなく手書きの写本を通じて漢籍や仏典が学ばれていました。手書きの写本は限られた範囲にしか流通しておらず、その内容を学ぶためには、(訓点が施された)写本を手に入れたり、師についてその読み方や解釈を学んだりする必要がありました。
写本は狭い範囲でのみ流通していましたし、それを教える側も多くの流派に別れていました。同じテキストに対しても、流派ごとに異なる独自の解釈がほどこされていました。そういうわけで、漢籍や仏典の解釈はしばしば、師匠が特別な弟子にのみ伝える非公開の秘伝になっていました(広く公開してしまうと、テキストを解釈したり教えたりする特権が失われそうですからね)。
こうした状況にあった仏道では、テキストが元々の形から変化していったり、後世の人々によって新しい部分が書き加えられていったりといったことも起こりました。好意的にとれば、流派ごとにテキストにいろんな解釈がなされ、自由な思想の展開が見られたとも言えます。こういったことは和歌の世界でも見られたことです。例えば「古今伝授」と言って、『古今和歌集』の解釈などの学問を師匠が弟子にのみ秘伝として伝えるということが行われていました。
ところが、印刷技術はこうした状況に変化をもたらしました。書物が公開されて、不特定多数の人々に共有されるようになったのです。江戸時代ともなると、漢籍はもはや一部の貴族や僧侶のみが読むものではなく、武士や町人にも広く読まれるようになります。また、仏道に関係する書物も数多く出版されるようになっていきます。江戸時代に出版された書籍のうち、仏道に関係する書物は大きな比重を占めていました。このようにテキストが広く公開されるようになり、従来のようにテキストを改変したり強引な仏典解釈をしたりしていると、すぐにツッコミをくらう環境が出現します。手書きの写本に基づいた秘伝による文化の継承が衰退し、「合理的」な解釈が勢力を増すようになります。
新たな学問の展開
江戸時代には、このような印刷技術の発達や出版文化の盛りあがりを背景に、僧侶たちのあいだで仏典の研究が進展しました。幕府が寺院に対する統制を強める一方で学問を奨励したこともあって、各宗派は教学の研究に努めたのです。各宗派はそれぞれ、檀林とか談議所とか学寮といった学校をつくって、祖師の教えを中心に研究を進め、仏典や祖師の伝記や宗派の歴史などを研究して成果をあげました(これらの学校は、僧侶の養成機関としても機能しました)。こうした成果は、明治以降の各宗派の教学を支える基礎にもなっていきます。
かくして江戸時代には、日蓮宗の日重(1549-1623)、新義真言宗智山派の運敞(1614-1693)、曹洞宗の卍山道白、浄土宗の義山(1648-1717)、臨済宗の無著道忠(1653-1744)、浄土真宗の香月院深励(1749-1817)などなど、各宗派を復興させるうえで大きな功績をあげた人物や、偉大な学者が陸続と出現しました。鳳潭僧濬(1654-1738)や徳門普寂(1707-1781)のように、宗派を超えた自由な仏典研究を行い、伝統説を批判して画期的な華厳解釈を提示した学僧も現われています。彼らの研究は文献に基づくものであり、秘伝に基づいた中世の学問と大きく異なっていました。
戒律復興運動
また、江戸時代にはいろんな宗派で戒律復興運動が起きています。早い時期に運動を起こした人物に、真言系の明忍(1576-1610)がいます。明忍は槙尾山西明寺というお寺を復興して戒律復興に努め、西明寺は江戸時代の戒律運動の拠点になっていきます。明忍の系統からは、良永(1585-1647)や浄厳(1639-1702)らが世に出て、さらに慈雲飲光(1718-1804)につながっていきます。江戸時代にはほかにも、日蓮宗の草山元政(1623-1668)による草山律の運動や、浄土宗の霊潭(1676-1732)による浄土律の運動などが起こりました。
天台宗では、妙立慈山(1637-1690)とその弟子の霊空光謙(1652-1739)によって安楽律運動と呼ばれる改革運動が展開されました。彼らはいわゆる「本覚思想」を批判し(「本覚思想」については、詳しく説明し始めるとものすごく長くなってしまうので、ここでは割愛します)、僧侶は大乗戒だけでなく具足戒も受けるべきだと主張したのです。
これはすごいことなので、少し脱線するようですがどういうことなのか説明しておきたいと思います。まず、仏教においては、出家してサンガ(僧団)に属する一人前の比丘(尼)として認められるためには、具足戒という掟を守り保つ誓いを立てて、サンガから具足戒を受戒するという手続きを踏む必要があります。具足戒の体系は、上座部に伝わるパーリ律や、法蔵部に伝わる四分律や、大衆部に伝わる摩訶僧祇律など、インドの部派が保持していた律蔵に記されており、その内容はそれぞれ少しずつ異なっています。アジアのどの地域の仏教でも、具足戒については、これらインドの部派が保持していたものが、現在に至るまで用いられ続けています。例えば東アジアの場合、中国では当初は複数の律が並行して行われていたのですが、やがて法蔵部の四分律を用いる方向になっていきました。
そして、大乗では具足戒とは別に、大乗戒(菩薩戒)と呼ばれる大乗独自の戒があります。大乗戒には、初期の唯識文献である『瑜伽師地論』などに出てくる三聚浄戒や、中国で書かれた『梵網経』という大乗経典で説かれる梵網戒があります。梵網戒は、必ず守るべき十種類の戒と四十八種類の細かな戒(十重四十八軽戒と呼ばれる)で構成されているのですが、例えば十重戒のなかには、「酒を売ってはならない」というものも含まれています。つまり、梵網戒は必ずしも出家者向けというわけではなく、在家にも出家にも適用可能な戒が少なくありません。
そういうわけで中国では、出家者は四分律に従って具足戒を受戒し、同時に大乗戒も受けるということが行われていました。梵網戒にしても、出家者・在家者のどちらにも通用する者として授戒されていました。ところが最澄(ご存じのように、天台宗を中国から日本に輸入した平安時代初期の僧です)は、具足戒は部派の戒であり「小乗」のものであるから大乗にはふさわしくなく、大乗独自の戒である梵網戒を用いて僧侶の資格を与えるべきだと主張したのです。僧侶は具足戒を放棄して、大乗戒だけでやっていくべきだというのです。これは、日本以外の仏教圏のどこにも見られない型破りな主張でした。最澄の主張は死後に認められて、822年に比叡山に大乗戒壇が設立されることになりました。
最澄が提示したこの方向性については、最澄の意図とは別に戒律軽視を加速させたとか、出家と在家の区別が曖昧になったとか、日本の仏教をガラパゴス化させたとか、いろんなことが言われていますが、話を安楽律運動に戻しましょう。江戸時代の安楽律運動では、以上のような最澄の主張にとらわれずに、大乗戒だけでなく具足戒も受けるべきだと主張しました。つまり江戸時代の天台宗には、祖師である最澄の教えすらも否定して、原点に復帰しようとする動きすらもあったわけです。これは驚くべきことです。
また、先ほど触れた真言宗の慈雲飲光は、仏の直説を信じ受け入れて、直説のとおりに修行し、戒律を厳格に守って、仏が生きていた時代に行われていた仏法に立ち戻るべきだと主張しました。慈雲の活動は正法律運動と呼ばれています。
慈雲は戒律と道徳の一致を説いて、俗人には十善戒という戒を授けました。十善戒は、不殺生(殺さない)・不偸盗(盗まない)・不邪淫(不倫などの肉体関係を持たない)・不妄語(嘘をつかない)・不綺語(無意味なおしゃべりをしない)・不悪口(乱暴なことばを使わない)・不両舌(二枚舌で人を争わせない)・不慳貪(貪りの心を抱かない)・不瞋恚(怒りを抱かない)・不邪見(誤った見解を持たない)の十箇条です。飲酒を禁じておらず、不邪淫も不倫のみを禁じているので、在家にも現実的で受け入れやすいものでした。十善戒は、世俗の世界を生きる人々にも倫理を与え、明治期の戒律復興運動にも影響を与えていくことになります。
慈雲は、サンスクリット仏典の研究でも業績を残しました。まだ西洋から近代仏教学が輸入されていなかった時代に、仏の直説を求めて悉曇(梵字とサンスクリット語の文字)を研究し、『梵学津梁』という膨大な量の著作を完成させたのです。これは、近代的な仏教研究の先駆となる偉大な業績です。
近代における「近世仏教堕落論」の創作
以上のように江戸時代の仏法では、宗派の枠を超えた様々な活動や研究が見られました。仏法の原点に立ち返ろうする動きや、インドまで遡ろうとする動きすらあったのです。江戸時代の仏法がみんな宗派の枠にとらわれていたわけでも、硬直化したり形骸化したりしていたわけでもありません。江戸時代の仏法全体を堕落の一語で切り捨てることはできません。
そもそも「近世仏教堕落論」は、明治以降に創作されていった「物語」です。近代日本仏教史を専門とするオリオン・クラウタウ(1980-)は、明治以降に仏教界の刷新を目指した改革的な仏教者たちの「仏教語り」によって、近世仏教堕落論と呼ばれる枠組みが創作されていったと指摘しています。クラウタウによれば、すでに江戸時代後期には、仏法が置かれた状況を問題視して、それを刷新すべきだと主張した僧侶による現状批判や、仏法を排斥しようとする排仏論者による仏法批判の流れが存在していました。その後明治時代になると、仏教改革運動を担った仏教者たちは、仏教界が多くの問題を抱えている原因は、仏教諸宗派が幕藩体制のもとで置かれてしまった構造にあると主張しました。
かくして、江戸時代後期の排仏論や、僧侶自身による現状批判が近世仏教堕落論の起源の一部となり、明治維新以降の仏教改革運動のなかで江戸時代の仏教は堕落していたというイメージが明確になり、近代のアカデミズムの世界でも受容されて、近世仏教堕落論が展開していったというのです[クラウタウ 2012]。近世仏教堕落論は、本稿で紹介した江戸時代の仏教にまつわるいろんな事実に基づいたものというよりも、明治維新以降の仏教が置かれた現状を批判する意図や信念を強く伴って、仏教が停滞している原因を直前の時代である江戸期に求めることで政治的に創作されたイデオロギーなのです。
日本近世史を専門とする上野大輔(1983-)は、近世仏教堕落論の背景について次のように述べています。
ここで、衰微史観を支えた学知について整理を試みたい。一言で述べると、近代西洋的な学知ということだが、更に踏み込んで幾つかの要素を列挙したい。
第一に、形式化批判が挙げられる。形式化によって衰微するというロマン主義的な性格を帯びた主張だが、内面の信仰を重視するプロテスタント的宗教観の影響や、信教の自由への志向も背景をなすだろう。
第二に、僧侶の「堕落」という知見である。これは前代からの排仏論や僧侶の自己反省の系譜にもあるが、第一の形式化批判とつながることで学知として強化された。
第三に、葬式仏教批判が挙げられる。葬式仏教とは、葬式を(主な)役割とする仏教という意味である。近世日本において葬式仏教は一般化するとされるが、これをインド哲学的仏教観に立脚して仏教「本来」の姿ではないと批判することで、近世仏教衰微という見解に至り得る。但し、葬式仏教自体が常に批判されるとは限らず、第一の形式化批判(とりわけ寺檀制度批判)の言い換えの場合もある点に、注意が必要である。
第四に、西洋モデルの歴史像である。進歩史観に立脚し、ルネサンスや宗教改革を近代への画期と見なすような学知が国史学に導入された結果、これを後ろ盾に「鎌倉新仏教」や近世の儒教(儒学)は高く評価されることとなった。それは直ちに近世仏教の衰微という議論を導いたわけではないが、衰微史観を間接的に支えた学知として把握できよう。
第五に、権力批判である。幕藩権力のもとで体制化した仏教教団に厳しい眼差しが向けられるようになったが、キリシタンや日蓮宗不受布施派の評価と表裏の関係をなすだろう。この権力批判は、マルクス主義と交わりつつ敗戦後(一九八〇年代頃まで)隆盛を保ち、日本史研究者にも広く共有された。
以上の五つの要素は、多様な組み合わせを伴って近代仏教論を規定し、衰微史観を支えることになったとみなすことができよう。
近代以降に日本に輸入された西洋のイデオロギーも、近世仏教堕落論を支えたというわけです。また、宗教学者の林淳は次のように指摘しています。
近世の宗教史、仏教史の関連図書や論文は、数多く積み重なっている。しかしつい最近まで、近世仏教を対象とした論文では、まずは辻善之助の近世仏教=堕落論が通説のように扱われ、それを乗りこえなくてはならないと書かれることは稀ではなかった。この五十年、学界には近世仏教=堕落論を支持する研究者は誰一人としていないにもかかわらず、亡霊のように語られてきたのである。
寺請制度および寺檀制度についても、寺院が幕府の権力を後ろ盾にして民衆をサクシュする制度であり、仏教の堕落であるという評価がなされることがありました。確かに江戸時代の寺院には、身分保障の拒否などを匂わせながら、高額なお布施を檀家に強要した悪質な事例もありました。しかし、そうした一部の悪質な事例をもって、寺請制度および寺壇制度のすべてを仏教の堕落だとただちに決めつけることはできません。
というのも、そもそも寺請制度および寺壇制度のもとでは、人々はすべてどこか特定のお寺に檀家として所属することになります。よって、この制度が機能するためには、大前提として、日本全国の檀家を受け入れるための多くの檀那寺が必要になります。そして、この多くの檀那寺は、江戸幕府によって寺檀制度が形成されていく前にすでに建立され始めていました。民俗学者の岩田重則(1961-)は、次のように指摘しています。
たとえば、元禄年間(一六八八~一七〇四)に成立した浄土宗の『蓮門精舎旧詞』を分析した竹田聴洲によれば、寺院設立年代が分かる全三二六五寺院のうち、天正年間(一五七三~九二)にかけての設立がニ一六四(六六・三パーセント)を占め、全体の「三分ノ二は天正から寛永に至る実年数七〇年程の極めて限られた時期に集中」しているという。また、東本願寺の『申物帳』を分析した大桑斉らによれば、寺号免許授受が分かる全一六二一寺院の内訳は、元和年間(一六一五~ニ四)にニ五九寺院(一六・九パーセント)と比較的多くの設立があるが、その後、承応年間(一六五二~五五)から寛文年間(一六六一~七三)までの約二十年間余に八三五寺院(五一・五パーセント)と半数以上の設立が行われているという。これについて大桑は、民間寺院設立が浄土宗に比べて時期的な遅れがみられる浄土真宗のばあい、すでに設立されていた道場が地域の寺院として自立するピークが寛文年間にあったからではないかと推定している。また、仏教諸宗派による違いをも留意した圭室諦成も、各宗派とも民間寺院の設立あるいは再興の多くが、応仁元(一四六七)年の応仁の乱から寛文五(一六六五)年の諸宗寺院法度制定までの期間であることを、近世編纂の地誌類などによりつつ地域の現実に即して論証している。
江戸幕府が寺請制度を強制することによりはじめて寺檀関係が形成され、それを行うために民間寺院が設立されたとするのならば、近世仏教の庶民への浸透は、幕藩領主権力の庶民支配の結果としてのみとらえられるが、現実には、そのような政治としてのみとらえることができない歴史的事実に満ちている。
すでにみたように、民間寺院の多くは江戸幕府による本末制度が整備される以前、十六世紀後半から十七世紀にかけての設立であり、また、寺檀関係をとりあげてみても、たとえば、一村内の家々が村外を含め複数の寺院と寺檀関係を結ぶ一村複数寺檀関係がほとんどであり、さらには、一家内の構成員が複数の寺院の檀那となる一家複数寺檀関係もあった。仮に、寺請制度によってのみ、つまりは江戸幕府の政治によってのみ、近世仏教が庶民へ浸透したのであるならば、寺檀関係は整然とした現実として、一村一寺関係、また、一家一寺関係をとったものと思われる。しかし、現実的には、寺檀関係は同一家内でも複数あるばあいがあるなど、多様性に富んでいる。宗門改めと人別改めが合体した江戸幕府の庶民支配としての寺請制度のみが、寺檀関係を形成させたのではなく、むしろ、十六世紀後半から十七世紀後半にいたる民間寺院の成立とともに、庶民とその民間寺院との寺檀関係は徐々に形成され、それが、後発的な江戸幕府の政治、寺請制度によって寺檀制度として再編成されるようになったと考えるのが妥当ではないかと思われる。
こうした事実を過小評価するわけにはいきません。こうした事実は、身近な死者の葬儀や供養を、お寺やお坊さんに行ってもらいたい、親類縁者を弔ってもらいたいと切実に願う人々が数多く存在していたことを意味しています。こうした人々の信心と、それに応えた僧侶たちが存在したからこそ、寺請制度および寺檀制度は可能になったとも考えられるわけです。寺檀制度を収奪や搾取の制度としてのみ捉える「物語」では、こうした事実をうまく説明することはできません。
世間の幅広い領域に関わる寺院
ともあれ寺檀制度は、葬儀を核とした仏法の受容のあり方でした。ただし江戸時代の人々は、葬式や法事といった領域だけを通じて仏法と関わっていたわけではありません。江戸時代の寺院は、今のことばで言う「裁判」や「教育」や「福祉」や「商業」や「娯楽」などの非常に幅広い領域に浸透し、大きな役割を果たしていました。
先ほども触れたように、織田信長や豊臣秀吉による天下統一のプロセスを通じて寺社勢力は経済基盤(荘園)や軍事力(僧兵)を失い、江戸幕府が成立すると、幕府が定める法の枠内でのみ活動を許されるようになりました。それまでの寺社勢力は、今で言う「軍事」や「外交」や「裁判」といった領域をも担っていましたが、その大部分は幕府や諸藩によって剥奪されることになったのです。
「裁判」について言うと、現在の「刑事裁判」にあたる領域の多くは、江戸幕府や諸藩が担うことになりました。しかし、もめごとを裁判沙汰にせずに内々に解決するとか、内済(ざっくり言うと、江戸時代の和解です)と呼ばれる領域では、依然として個別の寺院が大きな役割を果たしていました。例えば、「詫びる意思を示すために寺に駆け込み謹慎した事例」や「処罰・制裁のために村や町の判断で強制的に入寺させた事例」や「保護・救済のために入寺させた事例」などが見られます。また、江戸時代の寺院は、夫との離縁を望んで寺に駆け込んだ妻を保護し、離婚調停を行う特権を公的に認められていました(縁切寺とか駆込寺と呼ばれています)。「教育」について言うと、江戸時代の寺院では、寺子屋と言って読み書きそろばんが教えられていたことをご存じの方も多いでしょう。「商業」について言うと、寺院が定期市や常設市の拠点となった事例もあります。「娯楽」ということで言えば、寺院はお祭りやご開帳や、農村歌舞伎などの興行に携わって劇場のような役割を果たしました。
このように江戸時代の寺院は、葬儀や法事を担って人々の生死にかかわり、寺請によって檀家の身分を証明する「役所」であると同時に、今で言う「教育」や「福祉」や「商業」や「娯楽」などの非常に幅広い領域に浸透し、総合的な文化センターのような役割を担っていました。人々の精神的ケアを行う「よろず相談所」でもあり、縁切寺という形で困窮した女性が駆け込むシェルターとしても機能していました。人々の生活の隅々にまでかかわる「公共施設」だったのです。
なお、四国や伊勢や出羽三山などの「聖地」に、僧侶だけでなく多くの一般人が参拝するようになるのというのも、江戸時代に広く見られるようになる現象です。当時は現代と比べると「娯楽」が限られていたこともあり、寺社への参拝は「レクリエーション」としての意味も担っていました。伊勢神宮をはじめとする寺社への参拝は、当時の一般の人々が生まれた土地を離れて旅行することを許される数少ない機会の一つであり、観光旅行的な側面を持っていました。お伊勢参りについては、お陰参りと呼ばれる集団参詣ブームが周期的に起こって、大量の参拝者が伊勢神宮に押し寄せました。
また、西国三十三箇所と呼ばれる観音霊場(東国三十三箇所・秩父三十四箇所とあわせて日本百観音となる)に巡礼する文化が一般の人々にまで広まるのも江戸時代のことです。四国八十八箇所のお遍路についても、『四国徧禮道指南』や『四国徧禮絵図』のような巡礼者向けの実用的なガイドブック(今で言う『地球の歩き方』シリーズのようなものです)が書かれ、多くの人がそれを手に四国遍路を行うようになり、それ以前から行われていたものが整備されて現在の八十八箇所が確定していくのも江戸時代になってからです。江戸時代は、数多くの一般の人々が巡礼の旅に出るようになり、仏法が一般の人々にも浸透していく時代だったという見方ができるのです。

さて、以上のように、仏法が世の中の幅広い領域に浸透していた時代は、明治になると終わりを迎えることになります。本稿ではこれから、その結果として起きてきた複雑で“難儀な”事態のほんの一部を記してみたいと思います。
近世から近代へ
「神仏判然令」と廃仏毀釈
周知のように、最後の将軍となった徳川慶喜(1837-1913)は、慶応3(1867)年に大政奉還を行って、朝廷に政権を返上しました。これを受けて出された王政復古の大号令によって明治政府が成立し、「諸事神武創業ノ始メ」に基づいて政治を行なうことが宣言されました。日本の初代天皇だとされる神武天皇が国を創業した昔に回帰するという理念を示したのです。
かくして慶応4(1868)年3月に、次のような布告が発せられました。
此度 王政復古神武創業ノ始ニ被為基、諸事御一新、祭政一致之御制度ニ御回復被遊候ニ付テ、先ハ第一、神祇官御再興御造立ノ上、追追諸祭奠モ可被為興儀、被仰出候
この布告は、「神武創業」に基づいて「祭政一致」(祭祀と政治の一致)の回復や神祇官の再興を宣言したもので、王政復古の大号令に基づいたものであることが明らかです。神祇官というのは、古代の日本で設けられた、朝廷の祭祀を司る官庁です。ここでは、神武天皇が国を創業した昔に回帰するという「神武創業」の理念が、古代の祭政一致や神祇官の復活へと言い換えられているわけです(神話の世界の神武天皇の世に神祇官があったのかどうかはともかく)。
しかしそれでも「祭政一致」だということで、神社および神職は神祇官に附属することが命じられ、神祇官が設置されました。神祇官は、1467年に始まった応仁の乱の際に庁舎が焼失して実質的に廃絶していましたから、その復興はほとんどゼロからの出発だったのですが、ともかくも神祇官が置かれることになりました。神祇官と神社による祭祀によって支えられた、神道中心の政治運営を目指すことになったのです。
神道を中心とした「祭政一致」の政治体制を目指した人々は、神祇官復興だけでは満足せず、祭祀を純化しようとしました。神と仏を分離しようとしたのです。明治以前には、例えば寺院と神社が同じ境内に住みわけしながら共住し、僧侶が神社を管轄しているというケースが数多くありました。仏像をご神体(神様が宿る物体)にしている神社もありました。社僧といって、神社に所属しながら仏教儀礼を行う僧侶が多くの神社に置かれ、僧侶が神社の祭祀を行ったり、神前でお経を読んだりといったことがなされてきました。
皇室を見ても、宮中には「御黒戸」と呼ばれる部屋がありました。御黒戸というのは一言で言うと、宮中にあった仏間です。仏像や歴代天皇の位牌などが安置され、女官によってお供え物がなされていました。また、後七日御修法という空海が始めた鎮護国家を祈る密教儀礼も、(室町時代から江戸時代初期には長らく中絶されていた時期もありましたが)明治初期に至るまで年の始めに行われ続けてきました。さらに、天皇が即位する際には即位灌頂という密教儀式が行われ続けてきました。即位灌頂では、新たな天皇が摂関家の人物から印契と真言を伝授されて、新しい天皇が大日如来と本来的に一体であることを確認するということが行われます。
また、皇族に生まれても、跡継ぎ以外は出家して僧侶や尼さんになる慣行があり、門跡(皇族や公家が出家して居住する寺院)と呼ばれる寺院が存在していました(出家した宮家出身の男子を宮門跡、女子を比丘尼御所と言います)。さらに言えば、天皇が崩御した際に行われる葬儀や埋葬や供養も、寺院が仏式で行ってきました。天皇の葬儀や埋葬を執り行う寺院は、もともとは一つに定まっていませんでしたが、やがて泉涌寺という真言宗のお寺に一本化されていきます。泉涌寺は皇室の菩提寺となり、「御寺」と呼ばれました。このように、江戸時代までの天皇は、自ら仏法の実践に関わり、寺院との関係を複雑に取り結ぶ形で存続してきました[小倉・山口 2018: pp.160-164]。
以上のような江戸時代までの状況は、祭政一致を目指した人々の眼には“不純な”ものに映りました。神祇官を再興しても、祭祀が“不純な”ままではダメだ。祭祀から仏法などの“不純な”要素を取り除いて、“ピュア”な祭祀に回帰しなければならない。そのように考えて、神と仏を無理やり引き剝がそうとする政策を実行したのです。
かくして、慶応4(1868)年3月17日に、神社に社僧や別当などの形で勤めている者への還俗命令が出されました(この法令では、差し支えがあれば申し出よとされていました)。同月28日には、権現や牛頭天王といった仏法のことばを神号(神様の名前)として用いている神社に由緒を申し出るように命じ、仏像をご神体としている神社はそれを改め、仏像や鰐口や梵鐘や仏具などを取り除くように命じました。以後も、神と仏を引き剝がす法令が次々に発せられました。こうした一連の布告は、「神仏判然令」と呼ばれています。
この神仏判然令の(おそらくは)意図せざる結果として、反仏教的な思想が流布していた地域や、そういう思想を信奉する者が権力を握っていた地域を中心に、寺院や仏像を破壊したり、寺院を統廃合したり、僧侶を強制的に還俗させたりする動きが各地で起こりました。こうした動きは「廃仏毀釈」と呼ばれています。単に神と仏を切り離すのみならず、神社に特に関係ない寺院や仏像までもが、廃寺にされたり破壊されたり燃やされたり略奪にあったりすることになったのです。
「神仏判然令」を受けて各地で破壊活動が起きたため、明治政府はそれを抑制しようとする法令を発しています。慶応4(1868)年4月10日の法令では、神職者が私憤を晴らすような所業は許されず、神社の仏像や仏具を取り除く場合もいちいち伺って指図を受けることとし、粗暴の振る舞いがあれば処罰するとしています。僧侶に対しても、生業の道を失わず、国家の御用に立つように心がけよと呼びかけています。また、同年9月18日の法令では、破仏の趣旨では決してなく、往々にしてみだりに還俗を願い出る僧侶がいるが、いわれのないことであるとしています。[岩田・桐原 2018: pp.32-33]。いわゆる「神仏判然令」は、神と仏を切り離そうとしたものではあっても、直ちに「廃仏」を意味するものではなく、「廃仏毀釈」の運動が起きたのは意図せざる結果だった面が見られるわけです。しかし、お上がこのように破壊を制止しようとする法令を発しても、その後しばらく「廃仏毀釈」はおさまりませんでした。
最初期の「廃仏毀釈」の例を一つあげると、佐渡では明治元(1868)年11月に、500以上あったお寺を80にまで減らし、それ以外は廃寺にされました[末木 2011: p.28]。比叡山延暦寺の境内にあった日枝神社では、神社側が社殿の鍵の引き渡しを要求したところ、寺院側が応じなかったため、寺院側は鍵を破壊して神殿に押し入り、仏像や仏具を焼き捨てました。奈良の興福寺では、僧侶たちが積極的に還俗して春日大社の神職になり、塔頭が破壊されたり仏像が転用されたり五重塔が売り払われたりしました。
極端な地域をあげておくと、例えば薩摩藩では、徹底的な廃仏毀釈が行われました。それまで薩摩藩にあった1000以上の寺院のほぼすべてが破壊され、3000人近くいた僧侶のほぼ全員が強制的に還俗させられました。薩摩藩を治めてきた島津家の菩提寺であり、歴代藩主ゆかりのお寺だった福昌寺ですらも廃寺になりました。美濃(現在の岐阜県南部)の苗木藩では、1870年に藩主の遠山友禄(1819‐1894)が藩内のすべての仏教寺院の破却を命じ、石像から石碑に至るまでを破壊し、全ての領民の葬儀を仏式から神式に改めさせました。これらは極端な例であり、廃仏毀釈の激しさや形態や発生時期などは地域ごとに大きく異なっていました。よって、その「衝撃」を強調しすぎるのは適切ではないという指摘もなされています。とはいえ、直接被害を受けたかどうかにかかわらず、こうした動きが仏教界を動揺させたのは確かです。
神と仏を切り離そうとする政策は皇室にも及びました。宮門跡や比丘尼御所は還俗させられ、皇族から僧侶が追放されることになりました。まず、皇族が今後は僧侶となることが禁じられました(明治元年4月)。門跡や比丘尼御所の称号も廃され(明治4年5月)、朝廷から僧侶に僧位・僧官という形で位階や官職を与えることも廃されました(明治5年2月)。先ほど触れた後七日御修法や大元帥法など、宮中で行われていた密教儀礼も廃止されました(明治4年9月)。密教儀礼の即位灌頂も廃され、明治天皇は、大日如来と本来的に一体であることを確認することなく即位した(少なくとも500年ぶりの)天皇になりました[小倉・山口 2018: pp.180-183]。
上知令の衝撃
さて、先ほど述べたように、江戸時代の寺院は、葬儀や法事を担って人々の生死にかかわり、寺請によって檀家の身分を証明する「役所」であると同時に、今で言う「教育」や「福祉」や「商業」や「娯楽」などの非常に幅広い領域に浸透し、総合的な文化センターのような役割を担っていました。しかし、明治政府は新しい国家体制を築くうえでもはや寺院や僧侶を必要とせず、寺院の特権を剥奪する措置が相次ぎました。
政府は明治4(1871)年1月に、寺社に対して上知令を布告しました(太政官布告第4号)。この法令は、「現在の境内」を除いて寺社から土地を上知(没収)しようとしたものです。そもそも日本では、寺院は古代には朝廷の保護を受け、中世には荘園を有して権力を保持していました。江戸時代には、由緒ある寺院は朱印地(将軍の朱印状によって領有を認められ、租税を免除された寺社領)や黒印地(藩主の黒印状によって領有が認められた同様の寺社領)を与えられ、中小の寺院は田畑を所有し、寺檀制度のもとで経済的な安定が保証されてきました。つまり、大部分の寺院は歴史的に、土地所有によって存続してきたのです。よって上知令は、日本の長い仏教史のなかでも先例のない衝撃的な事件でした。
ただ、寺社領の所有関係は非常に複雑だったため、上知は難航しました。境内には平民が開墾した田畑やその家屋、広大な山林、所有者が明確でない土地などが入り組んでいました。「現在の境内」を除いて社寺から土地を上知するといっても、その「現在の境内」というのが一体何を意味しているのかも明確ではありませんでした。
上知の基準はその後あれこれと模索されていくのですが、明治8(1875)年6月に地租改正事務局から出された「社寺境内外区画取調規則」によって、「祭典法要に必需の場所」が「新境内」と定義されました。つまり、祭典や法要を行うのに必要な範囲のみが境内地とされ、ほかはすべて上知の対象だということになったのです。このガイドラインによって、山林の官有地化が進行することになりました。広大な山林を所有していた旧来の大寺院は境内地を大幅に削られ、その山林収入は激減しました。寺領に頼ってきた大寺院は大打撃を受け、社寺領の収入や収穫物によって生活の糧を得ていた僧侶や神職は、経済的な困難を強いられることになったのです。
そういうわけで、上知令で最も打撃を受けたのは、多くの寺領を所有していた天台宗・真言宗・臨済宗・浄土宗・時宗などの寺院でした。一方で、寺領を持つ寺院が少なく、土地収入にあまり依存せずに主に寺檀制度に支えられていた浄土真宗や日蓮宗や曹洞宗は、相対的に打撃を免れました。ここで指摘しておきたいのは、明治以降の仏教界で有力になっていくのは、上知令による打撃を比較的免れた宗派だということです。特に真宗は、これから述べるように、近代において大きな役割を果たすことになります。そういう意味で上知令は、それまでの仏教の勢力図を塗り替えてしまうほどの変化をもたらした事件でした。上知令は、近代以降の仏教の明暗を分けた重要なターニング・ポイントの一つなのです。
寺請制度の解体と肉食妻帯蓄髪勝手令
さて、上知令による経済的打撃に加えて、寺請制度も解体されることになります。明治4(1871)年4月に戸籍法が公布され、7月に氏子調の制度が開始され、10月に宗門人別帳も廃止されました。氏子調というのは、新生児を特定の神社(主に生まれた土地の神社)に登録するというものです。つまり、お寺ではなく神社が人々の身分証明を担うことになったのです。
先ほど見たように、江戸時代の寺院は、幕府の保護のもとで、宗門人別帳という「戸籍」の作成に関与し、寺請制度のもとで人々の身分証明を行う「役所」のような役割を果たしていました。しかし、そうした「行政機関」としての公的な役割をあえなく失うことになったのです。氏子調の制度は、うまく機能せずにわずか2年で廃止されたのですが、ともかくここで寺請制度は終わりました。寺院が葬儀や法事を担って檀家の生死にかかわるシステムは、その後も慣習として生き残って現在に至っているのですが、江戸時代のような公的な権力による保証は一切なくなったのです。
さらに、僧侶の身分に関する制度も大きく改変されました。明治5(1872)年4月に政府が、「自今僧侶肉食妻帯蓄髪等可為勝手事」という布告を発したのです。今後政府は、僧侶が肉を食べたり妻を持ったりすることを禁止しないし、坊主頭や僧侶の恰好を維持しなくてもかまわんと宣言したのです。肉を食べず、妻を持たず、髪を剃って僧侶の姿を保つといった僧侶の生活規範には、政府は今後関知しないというわけです。これは、政府は今後は僧侶と俗人とのあいだに特別な違いは認めないという趣旨の宣言であり、江戸と明治の仏教を大きく分ける出来事でした。
江戸時代の僧侶は、武士でも平民でもない特殊な身分に置かれていました。例えば、特に上級の僧侶には、城中に参賀するなどの平民には許されない特権がありました。その一方で、女犯(女性と性的な交わりを持つこと)のような破戒を行った僧侶は、厳罰に処せられました。例えば、8代将軍の徳川吉宗(1684-1751)のもとで作成された『公事方御定書』の下巻によれば、女犯を犯した住職は遠島(財産没収のうえで島流し)に処し、住職でない僧侶は晒し者にしたうえで本寺に引き渡されました。江戸時代の僧侶は、平民と比べれば特権階級でしたが、俗人とは異なる取締りの対象にもなる特殊な身分だったわけです。しかし、そうした僧侶の特別な扱いは明治になるとほとんど廃止されることになりました。僧侶は特殊な身分から、一種の職業になったのです。以上のように、明治初期に寺院と僧侶は、それまでの立場を失ったのです。
神道による「国民教化」の失敗
さて、ここで少し視点を変えてみましょう。明治維新直後の日本では、西洋列強に対抗して独立を維持するために、「国民」としての一体感や、「国家」との一体感や、「国家」への忠誠心を人々が抱くようになることが急務であると考えられました。そのため、「国民」意識を形成するための教化運動が、明治政府の主導で展開されていくことになります。
最初期の明治政府は、その教化運動を神道によって行おうとしました。政府は明治2(1869)年に、宣教使という官庁および職員を設置し、翌年に大教宣布の詔を発しました。この詔は、宣教使が「惟神之大道」(神の御心のままの道)を布教することを命じました。開国後の日本では、キリスト教が西洋から流入・浸透し、人々が異国の教えになびいてしまうのではないかという懸念が存在していました。そこで、宣教使に「惟神之大道」を布教させて人々を教化し、それを通じて人々を「国民」として統合して、キリスト教が流入するのを防ごうとしたのです。
しかし、「惟神之大道」を説くといっても、そもそも一体何を布教したらいいのか不明確だったうえに、人に教えを説くことを得意とする神職者も不足していました。それまで人々に教えを説いてきた説法のプロである僧侶たちに比べると、神職者たちは能力も経験も不足してたのです。特に地方では十分な布教体制が整えられず、あちこちで戸惑いや混乱の声があがりました。神道に肩入れした「国民教化」は、成果をあげることができずに失敗に終わったのです。
結局、明治政府は政策を転換します。明治4(1871)年に神祇官は神祇省に改組され、翌明治5(1872)年3月にはその神祇省と宣教使が廃止されて、代わりに教部省という官庁と教導職という役職が設置されました(教部省と教導職については後ほど説明します)。
しかしこの教部省も、明治10(1877)年に内務省に吸収合併されて、内務省の社寺局というところがその業務を引き継ぐことになります。神祇官は何百年ぶりかに復興されたものの、あっというまに内務省の一部局になってしまったのです(この結果に納得できず、神祇官の再再興を目指す運動を起こす人々も出てくるのですが、そのあたりは次回以降に少し触れることになるかもしれません)。
神道による教化から神仏合同教化へ
さて、最初期の明治政府による以上のような神道に肩入れした政策は、成果をあげることができずに周囲との軋轢を生み、仏教側からも反発を招きました。江戸時代までの地位を失って大きな打撃を受けた仏教側からは、政府による保護を求める声や、仏教や儒教や神道がそれぞれ教えを説くことでキリスト教に対抗するべきだという声があがるようになりました。人々を教化してキリスト教の浸透を防ぐためには、神職だけの力では不十分であり、説法のプロである僧侶による協力も不可欠だという考え方が、政治家にも一定の支持を得るようになります。
このような状況を背景にして、政府の政策は、神職だけが人々を教化するのではなく、神職と僧侶が合同で人々を教化する役割を担う体制を目指す方向へと転換することになりました。神道に肩入れした政策は挫折し、神仏合同教化政策へと転換することになったのです。神道に肩入れした政策から、神道だけでなく仏教も取り込んだ政策へ。大打撃を受けた仏教界は、ここで曲がりなりにも失地回復への糸口をつかむことになったのです。
先ほど述べたように、明治4(1871)年に神祇官は神祇省に改組されました。翌年には神祇省と宣教使は廃止され、代わりに教部省という官庁と、教導職という役職が設置されることになりました。教導職というのは、人々を教化する役割を担った「無給の役人」で、神職や僧侶などが任命されました(ちなみに、教導職の設置と同じ日に肉食妻帯蓄髪勝手令も公布されています)。神職や僧侶などが教導職になって、合同で人々を教化することになったのです(もはや、いわゆる「神仏判然令」のような極端な政策は見られなくなります)。
このような政策の転換にともない、明治6(1873)年に教部省は大教院を設置しました。大教院は、教導職を育成したり、人々を教化する活動を行ったりすることを目的として設けられた機関で、仏教各宗派の要請によって設立され、東京の芝にある増上寺(浄土宗のお寺です)に置かれることになりました。その大教院の下で、地方に置かれたのが中教院と小教院です。原則として各府県に一箇所ずつ中教院が設置され、各地の神社や寺院を小教院とすることになりました。この大中小の教院で、神仏合同で教化活動を行うことになったのです。
かくして、神仏合同の教化体制が成立し、仏教側は公的な立場を回復するきっかけを獲得しました。しかし、この体制においても神道が仏教よりも優位な状況になってしまい、仏教側の当初の期待は徐々に裏切られていくことになります。まず、教導職が人々に布教することを許された教えには厳しい制限があり、三条教則を布教しなければなりませんでした。三条教則というのは、政府が発布した新たな布教理念で、
〇敬神愛国ノ旨ヲ体スヘキ事
〇天理人道ヲ明ニスヘキ事
〇皇上ヲ奉戴シ朝旨ヲ遵守セシムヘキ事
の三条です。要は神道や愛国や天皇に関する教えを説けということで、僧侶にはなじみが薄い内容でした。また、増上寺の大教院では、神職と僧侶が合同で儀式を営むことになったのですが、それは非常に神道色が濃いものでした。大教院の本殿には神道の注連縄が飾られ、中央に四神(天御中主神・高皇産霊神・神皇産霊神・天照大神)が祀られ、神職も僧侶もそれに礼拝して祝詞を唱えるということが行われたのです。
大教院の主な任務だった教導職の育成も、資金不足などの要因でうまく進みませんでした(この背景には、政府側が仏教や神道による教化ではなく、学校教育による国民教化を重視する方向に徐々に進んだという事情もあります)。また、肝心の教化活動についても、仏教側と神道側で布教の内容や方法などで足並みがそろわず、布教を行う側もそれを聞く側も混乱していました。神職が仏教批判を行ったり、僧侶が仏法を説いたり三条教則と矛盾する内容を説いたりするなどといった光景が見られたのです。
そういうわけで、政府内外から教部省および大教院に対する強い反対運動が巻き起こりました。反対運動の主な担い手となったのが、木戸孝允や伊藤博文などの長州出身の政治家と、彼らと親密な関係にあった島地黙雷(1838-1911)です。黙雷は長州出身の浄土真宗本願寺派の僧侶で、長州閥の政治家たちとのあいだに太いパイプがありました。
黙雷は浄土真宗を大教院から分離させる運動を展開し、さらに教部省および大教院の解体を訴えました。その後いろんなすったもんだの末に、明治8(1875)年に大教院は解散することになります。かくして、神仏合同教化の時代もわずか3年ほどで終わることになりました。先ほど触れたように、明治10(1877)年には教部省も廃止となり、教部省の業務は内務省社寺局へと引き継がれます)。
ひとまず今回はこれくらいにします。
次回(その6)はこちら
参考文献
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末木文美士編著『日本仏教再入門』講談社学術文庫、2024年
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