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権力犯罪と#MeToo 映画「Black Box Diaries」 その1 伊藤詩織の闘い


ややネタバレになるけれど、映画「Black Box Diaries」は、性被害をめぐる裁判で最高裁判決が出たことを車の中で知り、車内ではしゃぐ伊藤詩織のシーンで終わる。ゾッとするほど怖いラストシーンである。

私は2ちゃんねるで遊びながら、この性加害事件を追いかけていた単なる暇人である。激しいレスバトルもしてきたし、事件についてはかなり詳しく知っていると自負している。「Black Box Diaries」も申し訳ないがとある方法で見させてもらった。映画を見て、そして上映を巡る様々な議論を見ていて、あまりにもズレた議論ばかりだと感じるのだ。私は今まで一過性の落書き場である2ちゃんねるから出る気など無かった。無責任に言いたいことだけ言えば十分だった。しかし、どうやらそうもいかなくなったようだ。少々長くなるが、まとまった意見を残しておかねばなるまい。


事件の2つの側面

まず最初に「Black Box Diaries」の出発点である性加害事件を再確認しなければならない。そこがいい加減にされていることが問題を分からなくしている。この事件には二つの側面が存在している。一つは加害者が政権に近い山口敬之であり刑事部長である中村格が逮捕を止めた権力犯罪という側面。もう一つは、被害者である伊藤詩織が名前と顔を出して被害を公表した#MeToo事例という側面。この二つの側面を明確に区別して考えていないことが問題を見誤らせているのだ。

この事件が報道された週刊新潮の第一報は、「『警視庁刑事部長』が握り潰した『安倍総理』ベッタリ記者の『準強姦逮捕状』」。被害者は匿名だが、加害者の山口敬之はもとより、警視庁刑事部長の中村格も実名表記。この事件は最初は権力犯罪として報道されたのだ。

事件が発覚した当時、山口敬之は安倍晋三に最も食い込んでいるジャーナリストとしてTVに頻繁に登場していた。だから当初は山口敬之を追い落とす工作でないかと疑われもした。花田紀凱は「数カ月前から、左翼系の何人かの男たちが、この情報をメディアに売り込んでいた」と書いている。もちろん嘘八百だろうが、そういう見方は確かに存在した。もし伊藤詩織が記者会見して告発しなければ、事件そのものが捏造のいいがかりにされてしまったのではないだろうか。安倍政権とはそういう時代だった。

だから伊藤詩織は顔を出して告発する必要があった。もちろん刑法改正を訴えたいという目的もあっただろうし、検察審査会に訴えるためのアピールもあっただろう。しかし、何より週刊新潮が報道した権力犯罪が事実であることを証明するには、伊藤詩織が出るしか無かったのだ。

伊藤詩織が記者会見して事件を表沙汰にした年の秋、アメリカで大きな動きが起こる。ニューヨーク・タイムズによる、映画プロデューサー ワインスタインの性加害の告発と、それに触発されて自らも性被害を告発していくムーブメント。いわゆる#MeToo運動である。伊藤詩織の告発も日本における#MeToo運動として認識された。伊藤詩織は#MeTooの先駆者として顔と名前を出して性被害を告発した人として扱われた。その認識自体は間違っていないが、事件における権力犯罪の側面は影に隠れてしまった。

もちろん、この事件において権力犯罪の側面と#MeTooの側面は不可分である。それをことさら分ける必要はないという意見もあろう。しかし、この事件の発覚から「Black Box Diaries」の上映問題に至るまで、この二つの側面の違いはずっとついて回る。とりわけ「Black Box Diaries」の上映問題を考えるときには、この二つの側面の違いを意識していなければならないのである。

メディアの偏向報道

「Black Box Diaries」の予告編を見たのは、まだ映像の許諾問題が表沙汰になる前のことだった。しかし、その時点で既にこれは日本国内では上映されないだろうなと感じた。なぜなら、二つの側面のうち、権力犯罪の側面を大きく扱う内容になると予想されたから。この性加害事件における権力犯罪の側面は、日本のメディアでは扱うことができない状態なのである。

この性加害事件は日本で大きく報道されたと思っている人が多い。大間違いである。確かに#MeTooとしての側面はそれなりに報道された。裁判の経過も報道された。しかし報道されたのは#MeTooとしての側面だけで、権力犯罪としての側面はまったくと言ってよいほど報道されなかった。加害者の山口敬之は元TBS記者とだけ紹介され、あれだけTVに出まくっていたのにも関わらず何をやっていた人かは報道されなかった。もちろん以前の売り文句であった安倍晋三との距離の近さなど無かったことにされた。逮捕状が執行停止になったという核心問題も大手メディアはほとんど扱わなかった。唯一権力犯罪の側面を追及できたのは週刊新潮なのだが、それについては改めて別に書く。

これが海外メディアではまったく事情が違う。BBCの特集番組やニューヨーク・タイムズの記事では、山口敬之と安倍晋三の親密な関係も報道され権力犯罪としての側面が強く報道された。そもそも、この事件が権力犯罪でなければ海外で報道されることも無かっただろう。だから海外で「Black Box Diaries」を上映できない日本社会はおかしいという声が上がるのも分かる。それは映画が作られてから浮上した問題ではなく、映画製作前から続いている問題なのだ。

この偏向報道は今でも変わらない。日本のメディアでは「Black Box Diaries」は伊藤詩織が自らの性被害を題材にした作品だと紹介されている。それは間違いではないし、その側面も確かにある。しかし、「Black Box Diaries」は伊藤詩織自身が言うように「性暴力と権力というテーマ」の映画である。それは、#MeTooである以上に、権力犯罪に対する告発である。と言うより権力犯罪との闘いの記録、と言った方が正しいだろう。そして、そういう映画であることは報道されないままなのだ。

伊藤詩織の標的

「Black Box Diaries」を見るまで私は伊藤詩織を見誤っていた。そもそも事件自体には興味があっても、伊藤詩織という人間にはあまり面白さを感じなかった。彼女は単に運悪く事件に巻き込まれた被害者というだけだと思っていた。私が興味を持ったのはこの事件の権力犯罪の側面であって#MeTooではなかった。そして伊藤詩織がやりたいのは#MeTooであって、権力犯罪の追及はやりたくないのだと思っていた。

実際彼女は日本における#MeTooの先駆者として振る舞っているように見えた。性被害者としてメディアや集会に出ていた。その際に、権力批判や政権批判は一切行わなかった。だから、権力犯罪の追及は他人に任せ、伊藤詩織自身は#MeTooの側面を強調する活動をしていくのだと見ていた。それは彼女がしなければならない保身術だとも考えていた。権力批判、政権批判の側面が強調されることは誹謗中傷する敵を増やすだけでなく、証言者とかの味方を減らしてしまうことにもなる。だから、伊藤詩織が正面に立って権力犯罪の追及をすることは意識的にやらないのだと思っていた。

しかし、振り返って見れば伊藤詩織は一貫して権力犯罪の側面を訴えていた。著書「Black Box」でもその問題は大きく取り扱われていた。#MeTooの先駆者たる伊藤詩織というのはメディアが伊藤詩織の一側面を強調していただけに過ぎない。私もメディアが作った伊藤詩織のイメージに惑わされていたのだ。そして、そうやってできた伊藤詩織のイメージは、結果的にこの性加害事件の権力犯罪の側面を隠してしまうことにもつながっていた。

民事裁判の節目では、何度か記者会見が行われている。改めてその動画を見直してみたが、伊藤詩織は常に権力犯罪の問題を語っていた。そして、弁護団はその問題には深入りしていない。弁護団の目的はあくまで民事裁判による救済であり、警察捜査に異を唱えることではなかった。当時はこの両者のスタンスの違いには気が付かなかった。しかし、権力犯罪に対する態度の違いは、当初からずっと存在していたのだ。

「Black Box Diaries」では、伊藤詩織は公然と権力犯罪を標的に据えた。捜査の理不尽さを追及する映画を作った。だから中村格を追い回し、山口敬之と安倍晋三の近さを強調する。ホテルの防犯カメラ映像も、そのために絶対に必要だった。そこが「Black Box Diaries」という映画の核心であり、日本での上映を巡る問題の起因であり、一連の議論で最も抜け落ちている視点でもある。西廣弁護士をはじめとする元代理人との軋轢の原因もそこにあった。

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