権力犯罪と#MeToo 映画「Black Box Diaries」その4 望月衣塑子の嫉妬
望月衣塑子の名が世間に広まった頃、菅野完が「あいつは能力低いから駄目だ」と貶していたことがある。「能力低い」というのは菅野完が他人の悪口を言う時の決まり文句ではあるのだが、驚くほど激しい罵倒だった。当時は同じ安倍政権を追及している者同士で揉めるのは残念で、そういうことはやめて欲しいと思っていた。だけど、菅野完は人柄最悪だけど奇妙に正鵠を射ることを言う。今回の問題でも、やっぱり菅野完正しかったなと思ってしまうのだ。
上映を巡る騒動で、最も激しく伊藤詩織を攻撃したのは望月衣塑子だった。良くも悪くも騒動を大きくしたのは望月衣塑子だった。何故望月衣塑子が激しく伊藤詩織を攻撃したのか。結論から言えば、あれは嫉妬だったと思う。それは映画賞のような栄光に対する嫉妬でも、作品の素晴らしさや才能に対する嫉妬でもない、もっと罪深い嫉妬だった。
改めて上映問題についての私見
望月衣塑子の問題に触れる前に「Black Box Diaries」の上映問題について私見を述べておきたい。この映画は海外で公開された版そのままで日本でも上映されるべきだ。何故なら、この映画は公益性のあるドキュメンタリーでもなければ芸術性の高い作品でもない。もちろんアカデミー賞にノミネートされるぐらいだから、公益性も芸術性も十分にあることは分かっている。しかし、そうであったとしても、「Black Box Diaries」はあくまでも伊藤詩織の私的な落とし前なのだ。そういう個人的な色彩の強い作品である以上、もはやその内容に他人がとやかく言うことはできない。その結果、発生する責任問題は伊藤詩織が背負い込めば良いだけだ。
その上で、そのような怖い映画を上映・配信して良いかどうかの判断は上映館や配信会社に求められる。伊藤詩織はタクシー運転手を映像処理したり、西廣弁護士や女性記者集会に関わる部分を削除する修正版を作るという。そのような修正版ができて映画館や配信会社が安心して国内公開できるなら結構なことではある。
だけど私は悲観的だ。修正版を作ろうが国内公開はできないと思う。タクシー運転手や捜査官のプライバシー問題なんて言いがかりにすぎない。最も困難なハードルはホテルの防犯カメラ映像であり、その背後にはおそらく警察がいる。中村格が辞職しようがこの事件が警察の関わった権力犯罪であったことに変わりはない。そのことに触れている映画である以上、修正版を作ったところで国内公開はできないだろう。
伊藤詩織は最初から国内公開は困難なことを承知で「Black Box Diaries」を作ったはずだ。記者会見で何度も繰り返し権力犯罪の側面を訴えても、週刊新潮以外のメディアは動いてくれなかった。そんな日本社会で権力犯罪の側面を大きく扱う映画が公開できるわけ無い。それを承知の上で、落とし前をつけるために映画を作ったのだ。
伊藤詩織にとって想定外だったのはアカデミー賞ノミネートされたことだろう。もちろんそれは事件の落とし前として最高の結末であり、痛快な出来事には違いない。しかしアカデミー賞ノミネートによって日本国内でも公開して欲しいという声が高まってしまった。伊藤詩織は体調不良を理由に記者会見をキャンセルし、修正版も出すことができなかった。これは日本公開を求める声にどう対応すべきか、伊藤詩織自身も答えを出せていないということだと思う。
望月衣塑子の攻撃
さて、問題は望月衣塑子である。伊藤詩織は唐突とも思えるやり方で望月衣塑子を訴えた。そこには強い怒りが感じられる。何故、伊藤詩織はそんなに怒っているのか。直接的な理由は1月14日の「伊藤詩織さん監督映画、『性被害』語る女性の映像を許諾なく使用」という東京新聞の記事である。この記事は自分の性被害を語る女性の映像を無許可で使ったかのようにミスリードさせている。確かに悪質な書き方なので裁判を起こされても仕方ないとは思う。だけど、この記事だけが怒りに原因ではないだろう。
私は問題の記事の前月、12月22日に望月衣塑子がXに投稿した文章が伊藤詩織の逆鱗に触れたのだと思っている。
https://x.com/ISOKO_MOCHIZUKI/status/1870651795992948779
この文章は東京新聞の記事よりかなり強い調子である。この中で、これは揉めるだろうなと感じる点を三点指摘しておきたい。
一つ目は、ホテルの防犯カメラ映像の許諾問題にほとんど触れていないことである。映画の公開にあたり、もっとも問題となるのはホテルの映像問題であり、伊藤詩織と西廣弁護士が鋭く対立した部分も許諾問題だったはずだ。と同時に、この許諾問題には裏に権力による圧力がチラつく部分でもある。卑怯にも望月衣塑子はそこから話を逸らしてしまったのだ。
二つ目は、「ジャーナリズムの基本原則」が押し付けられていること。ジャーナリズムとドキュメンタリーの違いという議論には私は深入りできない。しかし、そもそも伊藤詩織はジャーナリストとして取材していたわけではない。あくまで被害者として証人や捜査官と接し、その記録を残したまでだ。その記録を公開することの是非はともかく、そこにジャーナリストとしての規範を求めるのは筋が違うはずだ。
三つ目は、映画の製作にあたって「オスカー賞への執着があったのでは」という言葉。これは、あまりにも失礼である。私が見るにこの映画は私的な落とし前だし、そうでなくても権力犯罪告発の意味合いが強い。そこに映画賞狙いのような邪推を入れてしまうこと。これはもう望月衣塑子の品性の問題である。
そして、望月衣塑子の投稿の最大の問題点は「何故お前が言うか」なのである。西廣弁護士はじめ元代理人が抗議するのは、その立場を考えたら理解できる。#MeTooの側面を応援してきたフェミニストが西廣弁護士に同調するのもわかる。しかし、望月衣塑子は立場が違うはずだ。いくつもの記者会見で望月衣塑子は常に権力犯罪の側面から質問をしていた。権力犯罪を追及する同志であるはずだった。しかし望月衣塑子は権力犯罪の側面の追及を忘れたかのように伊藤詩織を攻撃している。伊藤詩織が裁判に訴えるまでに怒っているのは、何よりそこなのではないだろうか。
「権力と闘う」ということ
望月衣塑子の著書「新聞記者」で印象に残ったエピソードがある。駆け出し時代の望月衣塑子が支局で警察署回りをする。そこで重要な情報源となってくれそうな幹部を見定め、その幹部が早朝ジョギングをするのを知って、一緒に付き合って走るようにしたという苦労話である。若い女性記者が年配男性のプライベートに入り込むことの是非は問うまい。新聞記者にはいろいろな苦労があるのだろう。だけど、そういうやり方で情報をとらなければならない職業が権力と闘うことができるのか、そこには疑問を感じてしまうのだ。
望月衣塑子は「権力と戦うジャーナリスト」である。彼女は権力の監視こそジャーナリズムの役割だと自認している。私は望月衣塑子のその信念や正義感を疑わない。しかし、実績が見えないのだ。私もかつては望月衣塑子に期待した。でも彼女が権力を脅かすような仕事をしたという覚えがないのだ。森友事件でも、ジャニーズ問題でも、そしてこの性加害事件でも。
この性加害事件、特にその権力犯罪の側面は多くのジャーナリストが報道したいと思ったはずだ。望月衣塑子にせよ、清水潔や金平茂紀にせよ、みんな報道したいと願って取材したことだろう。ホテルの防犯カメラ映像だって公開できないかあたってみたかもしれない。だけど、国内で権力犯罪の側面を報道できたのは週刊新潮だけだった。その理由は既に考察した。
伊藤詩織は、先輩のジャーナリストたちの誰もなし得なかったことをやってのけた。真正面から権力犯罪の側面を取り上げた。ホテルの防犯カメラ映像を公開し、山口敬之や中村格の名前や顔を出して追及した。それは快挙であると同時に、多くの犠牲をともなうことだった。今まで支えてくれた支援者と離反しなければできない仕事だった。そこを望月衣塑子は汚してしまったのだ。
望月衣塑子には伊藤詩織が権力犯罪と闘っていることが分かっていたはずだ。だけど、何故伊藤詩織は闘うことができるのか、それが理解できなかった。理解できなかったのは、望月衣塑子が嫉妬で目が曇ってしまっていたからだと思う。望月衣塑子は権力と闘うジャーナリストでありたいと望みながら、実際にはほとんど闘うことができないでいるジャーナリストだ。だから、本当に権力と闘ってしまう伊藤詩織の強さの意味が分からなかったのだ。
伊藤詩織は権力犯罪と闘うためにかなり強引なことをした。支援者を裏切るような行為もした。それを望月衣塑子は伊藤詩織のジャーナリストとしての未熟さととらえて厳しく批判した。伊藤詩織が選ばざるを得なかった裏切りを、支援者が分断されたと感情的になって騒いだ。そして、伊藤詩織がどうしてもつけなければならなかった落とし前を、映画賞が欲しい功名心だと決めつけた。それらは望月衣塑子自身が権力と闘うことができない嫉妬心からくる誤りだったのだと思う。
望月衣塑子の嫉妬とは、映画賞や海外の高評価のような栄光に対する嫉妬ではない。作品の出来の良さやそれを作った才能に対する嫉妬でもない。権力と闘うことのできない望月衣塑子から、権力と闘っている伊藤詩織への嫉妬なのだ。だから罪深いのだ。
権力と闘うジャーナリスト。その言葉に望月衣塑子は映画でのシム・ウンギョンのような格好良い理想像を抱いているのだろう。だけど、今の日本を見渡して、権力と闘う人間はそんな格好良い人間なんかじゃない。例えば森友事件の最前線で闘った菅野完や相澤冬樹のどこが格好良く見えるだろうか。
それは「Black Box Diaries」で描かれる伊藤詩織も同じだ。エキセントリックで、情緒不安定で、猜疑心に満ちて、ずるいことも失敗もする。ぶっちゃけ危ない人である。おそらく、そういう人間こそが権力と闘うことができるのだ。「Black Box Diaries」は、令和4年7月8日、性被害をめぐる裁判で最高裁判決が出たことを知って車内ではしゃぐ伊藤詩織のシーンで終わる。ゾッとするほど怖いラストシーンである。
