第68話 「邪本論者」

日本の英名がジャパンである事を忌嫌う人達がいる。ニッポンが訛ってジャパンになってしまったので本来の呼び方に戻そうという趣旨らしい。本来の呼び方とはなんぞやで、二ホンなのかニッポンなのか、妙な強勢を配したサァョナゥラの様な欧米式発音を矯正しようということなのか。奇妙に聞こえても彼らは真剣である。唇の動きよりも舌や顎の筋肉をビシバシ遣う発声形態に加えて周波数可聴域が日本人とは可也り違う。日本語の発音を彼らに強要する事は出来ないし、バケツだのシャツだのジャケツだのメリケンだのとちょっとどうかと思う様な変形をしている日本語に比べれば、「ジャパン」はかなり真面だと感じられる。

同じ J で記されいても各国語の発音は多様である。スペイン語ではハポン(Japon)、ドイツ語ではヤーパン(Japan)、イタリア語なんか G で始まってジャポーネ(Giappone)だし、まして韓国語では漢字で日本と書いてすらイルボンである。子音が弱めの日本語の響きはイポンと捉えられ、ヒポン→ハポン→ジャポンと変遷した様に窺えるし、邪馬台国の耶馬の音が伝わったとも推測されるし、水夫がジャポンと海に落ちた音だとする説もある。ニッポンと呼ばれたいという願望は解らぬでもないが、各各の言語は各各の文化であり今更各国に外国語たる「ニッポン」を要求しても聞き入れられぬのは明白なので、申し訳ないが精精「ああそうですか頑張って下さい」と呟いて終了としたいのだが、気になって仕方がないのはその他の有り勝ちな理屈である。

よく挙げられるものに、大戦時代にジャップと言って蔑まれていた(蔑称問題)、ジャの音が邪や蛇を連想させる(邪蛇問題)、J で始まる単語には Jealous 等の悪い意味のものが多い(意味悪い問題)の三点がある。あと、英語で挨拶をする時に口を横に開いて「ヂァピヤン」と言うのが恥しいというのがあるが、それは本人の発音が悪い所為であって修練を積んで貰いたい。この三大問題はもう少し注意深い考察が必要である。

まず最初は蔑称問題。これは過去に犯した戦争責任の縛りもあるので迂闊に叫ぶのは抵抗があり、実際そういう理由で反発する人もいるが、私の立場は違う。ジャップはもっと古く江戸時代から存在するのである。更にここでは別の観点つまり米語感覚から、実は物凄い抵抗がある事を指摘しておきたい。仮に米語で別な国称だったとしても、適当な蔑称を作って呼ばれたに違いないのは誰にでも想像できる。例えばカパンだったとしたら、カッパで決まりだろうし、ジャパンを廃止させてニッポンを普及させたとて将来、ニップといって侮蔑される可能性がある。ジャップ自体には本質的に日本以外の意味が見当たらないのに比べ、ニップは乳首を意味するニプルの短縮形であるからして致命的である。ジャップなら知らばくれていれば良いが、ニップだといけない。乳首を曝け出した黒い海パン姿の親爺が頭に皿を載せて花を咥えて踊る様を連想するのは本当に私だけなのか。こんなイメージで「ニップ」と呼ばれてしまう事だけは如何しても避けねばならぬ。更に「ノー」と言って外交交渉が決裂して事態が悪化の際には、同じエヌ音だけに
「ノーパン」
 と、呼ばれる最悪の事態も覚悟しておかねばならない。本当にそれでいいのか。再考を促したい。

二番目の「邪蛇問題」に移る。個人的には蛇は嫌いではあるが、岩国の白蛇を始めとして、この地球上には蛇を神のシンボルだとする国や地域があるので悪いイメージだとは断言し難い。邪については元々邪馬台国だし理解を示すのに吝かではないが抑抑、社や舎や者だって「じゃ」と読むのである。過剰反応と取れないでもない。それにハクション大魔王の立場はどうなるのだ。呼ばれて跳び出て蛇邪蛇邪ーん。同レベルの発想をすれば、ニッポンだって「ポン」はポンビキの「ポン」だし、ポンキッキの「ポン」だし、スッポンポンの「ポン」である。個人的にはそんな恥しい音で本当にいいのかという気がする。イタリア語のチンチン(乾杯)や、本当はスへーフェニンゲンだけど日本ではスケベ人間と呼ばれているオランダの町 Scheveningen の立場はどうなるのだ。邪くらいでガタガタ騒ぐのも大人気ない。

三番目の「意味悪い問題」は単なる難癖である。確かに意味の悪い言葉は幾つか存在する。けれども其等は J で始まる全単語数に比べて物の数ではない。そういう事をいうと J で始まる名前の人から一斉に反発されるのは必定で、人名にはジャンヌダルク(Joan of Arc)をはじめ、
Jack, Jackson, Jane, Janet, Jean, James,  Jerome,  Jefferson, Jeremy,  
Joanna,  John,  Josephine,  Joyce, Judy, Judith, Julia,  Julian, 
等々と J で始まる姓名が実に多いし、聖書関係では、Jesus Christ を筆頭に、Joshua,  Jacob, Joseph,  Jonah, Jeremiah, Juda 等々がある。
中には裏切り者もいるけれど。

地名関連ではユダヤ人が Jew であるし、Jerusalem, Johannesburg, Java,
 Jamaica, Jordan, Jugoslavia, Jutland, Jupiter 等がある。
中には悪名高い町や、ちょっと遠いのもあるけれど。

月の呼称だって January,  June,  July と三つもあるし、綺麗な言葉だってある。 jewel (宝石)、 jolly (陽気な)、 joy (喜び)、 jovial (陽気な)、
 jasper (碧玉)、 jade (ひすい)。
最後のは阿婆擦れ女という意味もあるけれど。

もうちょっと挙げると、judo(柔道)、japan(漆器・漆を塗る)、 japonica (つばき)を始めとし、justice(正義)、jurisdiction(司法権)、judge(裁判官)、journal(雑誌)、juvenile(児童の)、jam(ジャム)、juice(ジュース)、jasmine(ジャスミン)、joke(冗談)、jackal(ジャッカル)等等があって限りがない。

抑抑人名が多いのは聖書に因んだ名前が多いからで、ジョンやジョセフィーヌは元々ジョセフ(ヨセフ)だし、ジュディやジュディスは judicious(思慮分別ある)→  the Judges(旧約聖書士師記) 或は the Judge(神)と遡ることが出来る。聖書や神話に因む単語は人名だけでなく、曜日、月名、惑星名などは殆どそうであり、例えば一月(January)は新旧両年に面することから前後に顔を持つ門の神「ヤヌス」(Janus)に由来する。因みに先月分の家賃を滞納して今月どうしようかと両月に亘って顔色を窺うのは、家主である。

兎に角、上記三問題の様なまやかしではなく、充分に説得力ある理由で国際理解を得る事が肝要である。同じジェイの誼みという事で先ずはジャットランド(Jutland)地方の人に訴えてみるのもいい。だが、交渉は慎重にすることだ。そんな事は「ゆっとらんど」と返されて落胆せぬ為にも。

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