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なぜ人は人形を作るのだろうか

記録をさかのぼれば、私はこの半生、切れ目は幾らかありつつも人形を作ってきた。

10歳の頃にはNHKのテキスト、婦人百科(現在は素敵にハンドメイド)の記事、菊池ともゆき氏の『やさしいフランス人形』を見て、見よう見まねで作っていたこともある。

様々なテキストが私の元にはあるが、それらをぼろぼろになるまで熟読しても、結局のところ、何か足りない部分が出てくるのが人形作りの面白いところで、自分なりに構造や組成物質を微細に変化させたり、人形のポージングや、視線、衣装などにストーリー性を加えたり、実際にストーリーを追加したりすると、全て合わさった時に異質な世界が生まれる。

こんな手間暇かけずとも、それでも素朴な疑問が湧いてくる。

なぜ人は人形を作るのだろうか?

私以外にも人形を作る人々は少なからずいる。その人たちの声に耳を傾けた時に聞こえる事は、まず一つ目。

「魂を込めたい。」
この人形にこめられた魂という領域は実に興味深いもので、これはすなわち作品の巧拙に直結するものではない事が面白い。

しかも意図的に作品に魂を込めようとする、その作為性によって、かえって魂が損なわれる場合も無くはない。

美しく作ったのに、魂を感じさせない作品もあれば、粗削りなのに、魂があると感じさせる作品がある。美しくて魂が入っている作品ならもはや何も言うことは無いが、技巧に優れていながら、画竜点睛がままならなかった作品とは何を示すのだろうか?

私が推測するにそれは、思考にノイズがある可能性がある。

人形に限らず創作物のほとんどは、作者の写し鏡であるという。
絵画、書道、彫塑、小説、漫画、何でも良いのだが。これを表現として用いる場合に、あまりにも自我が強くあり過ぎるとそれは、臭みや雑味となって、その持ち味を殺してゆく場合がある。例えばこうだろう。

「この○○は、誰よりも抜きんでて見られるように、皆をあっと言わせて、だけど、尖り過ぎて批評を浴びないように安全圏で、上から二番手位のクオリティで出したい、それから、コンペでも、あの○○さんが作った(書いた)ものだと呼ばれるような特徴を持たせたい、みんなこれを見てどんな顔をすることか。」
と言ったような過剰なる自意識。あるいは。

「悔しい、私の方が絶対に良いものを作っているはずなのになんであの人だけいい評価をもらっているの!ありえない、でも、やっぱり…いえ、そんなはずは…。」といった嫉妬心。

創作物に魂を宿らせるうえで、こんな邪魔になるものはない。

これが行き過ぎると、そのノイズだけが作品に宿る。作品に向き合った人が何故か得も言われぬ不快感を覚えたり、もっとありていに言えば、その情念の核だけが宿る。私を見て!私はすごい!私を見て!私は寂しい!という、無声の叫びを発する呪いの様な作品になってゆく。だから創作は恐ろしいのだ。

そして、その雑味を排するには何をするべきなのか。

無心無我の境地に至る事だ。

それを人形作りに限定して言えばこうなる。

全身を力ませず、強張らせず、しかし、あくまで神経に一本張りを持たせる感覚、解りやすく言えば、発達障害者特有の過集中状態(いわゆるフロー状態)を作り出した上で、土台に対して、人形の成りたがっている姿が見えるまで、心を凪いだ海のように、いささかの波も発せぬ状態に保ち、対峙すると、やがて、こうありたいと人形が望む姿が土台から浮かび上がって見えるのだ。それに対して、完全に服従姿勢をとり、対象物に謙虚に向かい合い。慎んで作らせていただくという気持ちで作成に励む事が魂を注ぐための唯一の道であるように思う。

良い道具があることは、喜ばしいが必須ではない。課金アイテムさえあれば、全ての壁を乗り越えられるかと言うとそうでもない。それらのものは、良い人形作りの手段であってそれさえあれば人形作りが達成されるといった目的を果たすものではないからだ。必ずしも高級ミシンが無ければ、優れた筆がなければ、良い人形を作れないというわけではない。実際、衝動的に作ろうと思ったら新聞紙やティッシュペーパーを丸めたものを人形の芯に用いる場合もある。筆も100均のアクリル絵筆で間に合う事もある。しかし、結局のところ、どれだけの精度を出すのかは、集中状態をどれだけ維持できるかどうかにかかっている。

そして、道具は使いこなせて初めて真価を発揮するものであり、縫い目の細かさは、普段の生活で針を運ぶ回数にも比例するだろう、一朝一夕で乗り越えられる裏技も無ければ便利な近道も存在しない。どこまでも、積み上げた物事を試される。

人形の衣装に関しては、過去どれだけ衣装制作の経験があるのかを試され、しかし、人形の体は人間とは異なって当たり前なので、デフォルメを施して型紙を補正するセンスが試され、人形の顔に関しても過去どれだけ失敗とやり直しをしてきたかが試され、他にも数え上げればきりがない事だが、人形とは人の姿をしているものであるので、その人形の背景が自然と滲むものであってほしい事は言うまでもない。

そして、本題に戻るが、人はなぜ人形を作るのか。

私にとっては、自分の本質とリンクしているからだと言うのが答えだろう。
日々の介護と仕事に忙殺され、精神的に追い詰められると大体人形を作っていた。
忙しいとは自分の心をを失う事に繋がっている。人形は、ふと、現実から離れていく自分の心を、現実につなぎとめる楔としてしばしば機能した。

人形を作る理由は、可愛いからだろうか。癒されるからだろうか。
恐らくどれも一部は正解だが、全て正解とはいかない。
人間が生きるためにやむを得ず作らざるを得なかったものであると私は考えている。そうした衝動が人にはあるように思う。

生きようにも生きていると言えないような日々はあったが、何かを生み出す時心は蘇る。人には自分を再生させる力が本来備わっているものと私は考えている。



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