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スラップスティック デジタル世界の喜劇って?

スラップスティック(ドタバタ喜劇)

デジタル世界でのドタバタ喜劇ってどんなだろう

人生はドタバタ喜劇のようである。なるほど。

「ドタバタ喜劇の映画、とくにローレル゠ハーディ物のように。
わたしにとって、人生というものの感じは、ほぼそれに近い。
乏しいわたしの運動神経や知能を試そうとするテスト。それが際限なくつづく。
ローレルとハーディの根本的なジョークは、あらゆるテストに対して、あのふたりが最善をつくすことにあるのではなかろうか。
あのふたりは、いつも自分たちの運命と真剣に取り組むのを忘れない。そこがたまらなく魅力的で滑稽なのだ。」

映画「男はつらいよ」が頭に浮かんだ。ふと観たくなり、毎年観ているけど、何度観ても毎回面白い!

「ローレル=ハーディ物の映画には、愛はごくわずかしかない。結婚という山場の多い詩はあるが、これは愛と別物である。結婚はやはりテストの一つだしみんなが真剣にそのテストに取り組むとき、そこに喜劇の可能性が生まれる。」

寅さんは恋をする。それも、よく恋をするのだ!

「わたしには、愛を口にせずに人生を論じるほうが自然な気がするのだ。
愛がそれほど重要とは思えない。
では、なにが重要に思えるのか?
"運命と真剣に取り組むことである"」

運命がすでに決まっていたらーー そう、決まっているのだと思う。それなのに正確に予測できないのだけど。けど、ある瞬間に「これは運命だ」と感じることがあるものだ。

ドタバタ喜劇の人生を川になぞらえて、人生の基本法則を考えると、「自分のカヌーは自分で漕げ」ということだ。困っていそうな人を見かけたら手を差し伸べる。これは、あたり前田のクラッカーなのだ。

「歴史は驚きにつぐ驚きの一覧表にすぎない。歴史にできるのは、われわれをつぎの驚きに対して準備させることだけである。」

「歴史から学ぶことを怠ったものは、それをくり返す羽目になる」
そして、歴史が人に示してくれる最も重要な命題は、「当時、先のことは誰にもわかりませんでした」であり、「そんな時代だった」でもある。

時代は変わる。変化しないものはないのだ。

デジタル的時間の精神的体験と、物理的時間での肉体的体験ーーー 本を読み終えたあと、こんなことが頭に立ち上がってきた。

デジタル的な生活。そこでは芸術はどう表現されるのだろう?芸術はなくなるのか?

相手の表情、仕草、声色、その場の空気から感情を読みとることはなくなるのだろうか?肉体の触れ合いもなくなるのだろうか?求めさえしなくなってしまうのだろうか?

でもリアルの世界が生き辛く、ネットの世界で生きる楽しみを見つける人達もいる。それは良いことである。
そして、そのようにして時代とともに変化してきたのが歴史なのだ。

肉体的体験信者だとしても、精神的体験方向に傾く時がくるのかな?やっぱり、肉体の肌と肌の触れ合いは失いたくない!

彼女の表情、俺を見る目、あの仕草、声、肌の感触、体温、汗、そして香り――ああ、愛おしい。

抱きしめる。彼女の肉体を、確かな実態として感じる。髪の香り、背中に回された腕、そこに感じる生命力。
唇を重ねる。柔らかい。その奥にある硬い歯。肌に感じる息。深く息を吸い込む――彼女を、全身で感じる。
ああ、たまらない!

そんなことを考えた今朝は重力がとても弱い。もちろん僕は勃起している。肉体的体験である。

今は春。鳥達はさえずり、花が盛んに咲き乱れている。春爛漫だ。

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