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はじめに

この度は拙著のご購入、誠に有難うございました。「はしがき」「あとがき」に予告しましたとおり、なにぶん本書はまだ史書ではなく、現在進行中の現実が相手ですので、当面の期間、このサイトを本書の訂正・増補のための特設サイトとし、愛読者サービスとして、こちらで本書の内容を随時補ってゆきます。ログインも不要な無償でのご提供とさせていただき、本書の改訂版が出るさいに、その本文に反映させる予定でいます。いうなれば、デジタル空間上で「成長する本」という趣向であります。
更新は不定期となりますが、本書を最初に読了されるまでの間、またその後も気になられたさいに、ときどきチェックしていただけましたら幸いです。


今回、比較的入念に刊行間際まで校正作業を行いましたので、今のところ訂正は僅少ですが、添付のように見落としもいくつかありました。
読者諸氏からも、お気づきの点がありましたら本ページの一番下のフキダシのコメント欄からご連絡いただくか、メールアドレスも本書巻末の奥付に掲載していますので、メールをご希望の方はそちらからお寄せください。併せて簡単なご感想もお寄せいただけましたら、次回作執筆の励みになりますので幸いです。

今回加筆内容

以下は本書の事実関係ならびに、それに関連する分析のパートの続編に当たる内容です。
当面は当初のSP1の内容を引き継ぐ形で書き足してゆく予定でいます。そろそろ長くなってきましたので、次のSP2辺りからは、既存のSP 1以降を新規にnoteに書き出すなど、工夫したく思います。

なお以下の加筆パートで、㉓等の途中から始まっている数字は、本書の続きとしての通し番号になっています(この場合であれば紙の本の第4章の年表は㉒で終わっており、その続きとしての㉓という意味)。

〔 第4章第1節の続編 〕
㉓ 5月30日から3日間の日程で、シンガポールにおいて英国際戦略研究所の主催によって定例開催されたアジア安全保障会議(シャングリラ会合)で、中国が2019年以来送り込んでいた国防相が欠席した。
㉔ 6月2日に亡くなった空軍出身の許其亮 元中央軍事委員会副主席の葬儀が8日に行われたが、軍の指導部の出席は一切なかった。
㉕ 6月27日、全国人民代表大会常務委員会は中央軍事委員会の苗華委員の代表(議員)の解任を決めた。解任理由はあきらかにされていない。
㉖ 7月21日、中央軍事委員会は軍内での「悪影響を全面的に排除する規定」を公表した
㉗ 7月23日、『解放軍報』は第1面で、軍に対する党の統一的な指導と集団的な指導を強化する必要があるとする論評を掲載した。

〔 第4章第2節の続編 〕
㉓について、今回代わりに出席したのは、人民解放軍国防大学の胡鋼鋒副校長(海軍少将)という軽量の軍人でした。このことは米側から例年どおりヘグセス国防長官が出席したことと好対照をなしています。
さてこれをどう解釈するかですが、そもそも本書に記したように、現国防相が事実上は失脚していて拘束されており、海外に出すに出せないというのが一つの明白な理由です(本書p.30ならびにp.46のそれぞれ⑫参照)。これに関して6月9日付け日経署名記事 *1)は、5月30日に中国側がシャングリラ会合にぶつける形で、親中諸国32ヶ国を集めて、独自の「国際調停院」(香港)開設に向けた署名式を開いた事実を指摘している点は妥当としても、中国国内で2024年7月以降も相次ぐ軍幹部の粛清が、軍内の習派高官を対象とするものへと変質しているにも関わらず、その点を見ようとせずに、依然として軍内の粛清が習近平中央軍事委員会主席主導で行われているという仮定に立っている点で、根本的なところで誤っています。

なおこの「中国版の国際司法裁判所」とでも呼ぶべき新機関については、本書の第10章の増補内容となるべきものですが、ここにその端緒を記しておきます。
これは米国が第二次世界大戦後半から構想して戦後に本格的に樹立し、その後も維持してきた戦後秩序(国際連合と各種国連機関をはじめとする主要な国際機関)に代わる体系的な独自の国際機関のセットを中国が用意し始めたということで、中国による「デュアル・システム」としての新世界秩序の創始であり、ついに中国の対外進出が従来とは質的に異なる段階に踏み出したことを意味しています
いうまでもなく、この種の試みの端緒は、2015年12月に発足したアジアインフラ投資銀行(AIIB)でした。こちらもまた、日米主導のアジア開発銀行(ADB)の向こうを張った組織ですが、ADBの設立に国連アジア太平洋経済社会委員会(ESCAP)が関与しているにしても、ADBは国連機関でもありませんし、AIIBにしても地域的な開発金融機関であって、新世界秩序の構築を目指すというには役不足です。
中国としては、みずからの意に従おうとしない西側諸国とは別に、昔日の中華の帝国の朝貢圏に類するものを独自にグローバルに再構築して、その世界の秩序の中心にみずからが収まりたいのです。それは「サウス」とも、「BRICS」とも言い換えられないわけでもありませんが、ポイントはウクライナ戦争で追い込まれたロシアはともかく、インドやブラジルはこんな正真正銘の「中華」(世界の中央に位置する華)主義の企てには乗ってこないことです。
この点では、上記日経記事の見地は適切です。もっとも、前著(下記第4章参照)に述べたように、今日の中国の世界的なプレゼンスは1990年代初めの日本がそうであったように「バブルの下駄を履いた巨人」なのですから、この構想を支えきるだけの資金力が中国自身にもはやなく、この構想は中途で萎む宿命にあります。

㉔については、火葬のさいに政治局常務委員7名の出席が報じられたものの、最近まで健在を示していた軍の元最高指導者の葬儀としては異例に簡略で、中央軍事委員会からの声明も告別式・追悼式といった式典もありませんでした。その背景についてですが、空軍から異例の厚遇を受けた許に対して、そもそも張又侠以下の主流派の陸軍の系譜の軍幹部は快く思っておらず、軍として盛大に追悼するつもりはさらさらなくて、後述するように習自身の権力が失われた状況の下では、この程度の扱いにしかならなかったということです。
なおこの葬儀について香港紙『星島日報』は、CCTVのニュース動画を克明に調べることにより、24人の共産党政治局委員の中で一人だけ何衛東 現中央軍事委員会副主席が花輪を出していなかったことをあきらかにし、3ヶ月前からその動静の伝えられていなかった制服組No.2の何副主席の失脚が確定したと報じています。

㉕について中国国防省は前年11月末の時点で、苗が重大な規律違反の疑いで調査を受けていると発表していました(本書p.31参照)。こちらについては来るべきものが来たというだけで、解任は既定の路線でしたから、何の驚きもありません。
もっとも、習近平が軍の政治将校から制服組のナンバー2にまで引き上げて、軍の人事権を委ねていた何衛東の4月末の失脚に続いて、その2ヶ月後には軍内の習のお目付け役で、腐敗摘発の責任者であった苗華までもが失脚したことで、習派は完全に軍権を失ったことになり、実権を失った中央軍事委員会主席という立場でお飾りの軍のトップに留まっているにすぎないことの持つ意味は重大です
もう一つ注目すべき点は同じ日に海軍の李漢軍 参謀長もまた全人代代表の資格を停止されていることです。理由は明らかにされていません。李は海軍の福建基地の司令官を務めたことがあり、福建省出身で福建の第31集団軍(p.45参照)勤務の長かった苗華もまた、陸軍出身でありながら、習近平政権が発足してまもなく海軍に転籍して政治委員として習のお目付け役を務めていました。習は2002年に浙江省に転ずるまでの17年以上もの間、福建省で勤務していましたから、同じ海軍出身の董軍国防相 *2)の取り調べに続いて(p.46)、この同じ日に海軍内の習派の福建閥がまとめて失脚させられたということなのです

㉖について、規定の原題は「关于大力弘扬优良传统、全面肃清流毒影响重塑政治干部形象威信的若干规定」という長いもので、後半は「政治幹部のイメージと威信」を再構築する若干の規定ですから、あきらかにこれは特定勢力を念頭に置いたものです。いうまでもなく、この間に相次いで失脚した、軍の上層部における習近平の手足としての、何衛東(上述の㉔ならびに後述する第6章⑧参照)や苗華(上述の㉕)が軍内部に流した害毒、ひいては習近平個人独裁の悪弊を指すものと考えられます。これによって傷ついた威信を回復しなければならないというのです。1970年代半ばの「四人組」の失脚時を想起させるような表現です。この間に、何らかの勢力が排除されていることは疑いありません。
原題の前半については、優れた伝統を積極的に継承し、悪(毒を流すような)影響を徹底的に排除するというもので、これが修飾語句として先述の後半部にかかっています。
㉗も㉖を承けたもので、同じ媒体が伝えているのでセットで扱うことにしますが、統一的な指導と集団的な指導を併記するとともに、民主集中制を強調しています。習体制全盛の時期には、この統一の前にさらに集中という字句が付いていて、「集中的で統一的な指導」という形で習主席の権力が強調されていました。「核心」的地位という常套句と同工異曲です。昨年来、主席への権限の集中が後退し、この種の字句は使われなくなっています。
民主集中制という伝統的な言葉も、「民主」に力点を置くのか「集中」に力点を置いて用いるのかで、印象は相当異なってきます。「核心」が後退した「民主集中」とは、メンバーの意見を汲み上げたうえで全体としての意思決定を行うという意味合いになって、集団指導のプロセスを述べているのと大差ありません。

〔 第5章第1節の続編 〕
4月8日から3日間の日程で、中央周辺工作会議と外国駐在使節工作会議が開催された。23年末に開催されて以来の開催となったが、前者で前回強調されていた「習近平外交思想」が今回は完全に姿を消し、また後者でも前回と異なって、習主席は出席者の大使らと面会しなかった
4月8日から17日にかけ、中国人民政治協商会議の胡春華副主席代表団を率いてナイジェリア・コートジボワール・セネガルのアフリカ3ヶ国を歴訪し、各国の政府・議会の指導者と会談した新華社は、席上で胡が習近平国家主席の言葉を伝えたことにふれるが、各国首脳が習主席に宜しくと述べたといった定型的な文言について報道しなかった
⑪ 4月30日、先に商務省の国際貿易交渉代表を退任していた王受文が、中華全国工商業連合会(党の指導する経済団体)の指導部に転じていたことが公表された。
6月2日、中国外務省は李強首相が習近平国家主席の代理として、同月5日から8日にBRICSの首脳会議に出席するためにブラジルのリオデジャネイロを訪問すると発表した。習が重視してきたBRICS首脳会議を欠席するのは、2013年に国家主席に就任して以降、初めてとなった。
6月4日、ベラルーシのルカシェンコ大統領が3月以来となる訪中をし、習近平と中南海で会見が行われたが、会見場は南海(紫禁城西側の池)中央にある通常の総書記の執務する庁舎ではなく、南海の北にある毛沢東の晩年の旧居であった
⑭ 6月23日、北京では国家安全法施行10周年を記念する座談会が開かれた。同日夜、中央電視台(CCTV)がこれを報じたが、座談会で演説した李鴻忠政治局委員(全人代常務委員会の副委員長を兼ねる)の名前は報じられず、映像で大写しにされることもなかった。また国家安全政策を担当する国家安全相である陳一新の出席も報じられなかった。

〔 第5章第2節の続編 〕
⑨については、中央周辺工作会議は近隣諸国との外交に関するもので、これに合わせて開催されている外国駐在使節工作会議の方は、主席が諸外国の大使等に定期的に謁見する場です。
後者で恒例の主席との謁見がなかったことで、この会がきわめてシマリのない会となったことは、もっとも容易に指摘できることです。当然のことながら参加各国の外務省の本省では、さまざまな憶測がなされたはずです。ここでも習主席の指導力の後退と、その積極的な活動に制約がかかるようになっていることはあきらかです。

⑩について、胡春華が外遊を行うこと自体は、近年ときどき見られるのですが、たとえば23年12月に行われた同じアフリカのマダガスカル訪問のさいには、同様に習主席の言葉が報道されたのみならず、マダガスカル側が、習主席にくれぐれも宜しくお伝えくださいと述べたと新華社は報じていました。今回、アフリカ有数の大国であるナイジェリアを含めた中国の友好国の歴訪にも関わらず、国営の新華社が定型的な先方のメッセージを一切報道していないことに関しては、深読みすればナイジェリア以下の国々は中国の何らかの内情に通じているということであり、また新華社の報道にも何らかの意図があるということになります。

⑪の国際貿易交渉代表は米国のUSTRの代表に相当するポストとして設けられているもので、閣僚級です。王は失脚した秦前外相(本書p.81参照)らと同様、戦狼外交で鳴らした対外強硬派でしたが、米側との関税戦争がいちだんと激化する中で、邪魔になったのでしょう、一線を外れたリタイア前のポストを充てがわれた形です。この人事については左遷とされています。

⑫は、儀礼的でない実質的な討議が必要な外交舞台はもはや、習近平には任されていないことを意味しています。6月16日から開催された第2回「中国・中央アジア首脳会議」には習の出席が認められているのです(ただし習の参加が公表されたのは、開催の3日前のことだった)。

⑬が今回の加筆の白眉となります。⑬の事実はこの点だけを切り取って読めばどうということはない首脳外交の1場面ですが、習は前後してチベット仏教の指導者ともこの部屋で引見しているのです。そしてベラルーシ側は中国側が秘していた会見場をあきらかにした(建物の名称の銘板を含めた画像を公開した)ばかりか、席上で習自身が自分は現在この隣の部屋(ベラルーシ側の英文の報道の表現で「next door」)に居住していると発言したことまで伝えたことから *3)、習近平はこの建物に軟禁状態にあって監視下にあるのではないかということで、一部で大騒ぎになりました。友好国の限られる独裁国家のベラルーシ側はこの部屋の位置づけが理解できず、ルカシェンコと習が親密であることを強調したかっただけなのですが。
この建物に関する中国史的な文脈については、ベラルーシ人のような非漢字文化圏の国民には理解が困難です。下図に示すように、人民共和国の成立後に要人が住まって、執務も行っている中南海とは、明代の紫禁城の「西苑」の南半分であり、人口の湖が南北に3つ並んでいます。「中南海」とはそのうちの南側の2つ(中海と南海)の意なのです。今日でいう中海と南海の間には陸峡(海峡の陸と海を入れ替えた状態の細い陸地)が渡されていて、明代には図に示されているようにシンプルな配置でしたが、のちに空いているスペースに建物が増えてゆきます。

図1 明末の紫禁城
https://culture.qianggen.net/2010/1228/16167.html

図1の南半分を拡大した体裁の、現代の様子が図2で、間に数百年が経過していることから、湖の形状等には変化があります。

図2 今日の中南海
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%8D%97%E6%B5%B7

ベラルーシとの首脳会談が開かれた部屋は図2の中海と南海の間の陸峡にある「西八所」の西隣の建物の南半分に当たる敷地「豊澤園」(丰泽园と表記)の中にあります(図3)。そして、本来の党総書記の執務室(図4)は、南海の真ん中に浮かぶ人口の島「瀛台」(えいだい)にある、中国共産党の中枢機構、中央委員会办公庁(中共中央弁公庁)の庁舎の中にあるのです。

病気療養等により、人の出入りで騒々しい党中央の本部ビルを避けて静謐な環境にいるという解釈も可能ですが、下記の第6章新規加筆の⑦に見るように、党中央の月例の政治局会議がついに開催できなくなっているという現在の異常な情勢の下では、党中央の操り人形と化した習近平が党中央のビルから追い出され、余計な動きをしないように別棟に隔離されて軟禁下にあり、儀礼的な外交上必要な接見の時だけに監視下で駆り出されていると観た方が自然でしょう。しかもこの会見に先立つ2週間の間(5/21-6/4)またしても習に関する公式の報道は途絶えていたのです。この間に、何らかの治療を受けていたにせよ、秘密開催の拡大政治局会議で吊し上げられていたにせよ、すでに実権を喪失していた習に対する扱いが格下げされた可能性があります。
付言すれば、ベラルーシ側は習の夫人のみならず、アメリカにいるはずの娘までがルカシェンコ大統領との会食の場(晩餐会が格下げされて上記の建物内で取り行われたものと考えられる)に同席していたと伝えており、このことから習近平本人のみならず一家が逃亡を警戒され、上記の建物に集められてふだんは監視下で暮らしているのではないかとも観測されています。

図3 今回の会談場(習は隣室が居室であると言明)
出所は脚注3に同じ
図4 本来の総書記の執務室に居た当時の習 出所はCCTV(https://news.cntv.cn/2015/01/01/ARTI1420116624075248.shtml)

⑬は、⑫での展開を追認する事実であり、もはや説明は不要なほどです。習近平が今日の党の実質的な指導部から外交に関する権限をすでに取り上げられており、勝手に振る舞わないように儀礼的な外交行事以外での外遊を認められていないということを意味しています

⑭で翌日の人民日報は2面でこれを李鴻忠の名前入りで報じましたが、見出しの扱いから2面でも4番めの大きさの記事としてでしたから、扱いとしてはCCTVと同様に小さいものです。この扱いの程度と担当大臣の欠席の理由についてですが、この座談会が企画された何ヶ月か前に比べて、この6月頃から習近平の権勢がとみに衰えていること(本稿末尾の「むすびに代えて」参照)によって、すべては説明がつきます。
習主席肝煎りの国家安全を担っていた担当相の陳一新も,習が浙江省党委書記の任にあったさいに省党委副秘書長であったことから(当時上席の秘書長が現首相の李強)、単なる欠席に留まらず、重大な規律違反により取り調べ中で、失脚の手前にある可能性が大です。

〔 第6章第1節の続編 〕

⑥ 4月24日、全国党委員会・政府秘書長会議が開催された。こちらも2023年末に開催されて以来の開催となったが、前回には伝達されたと報道されている習主席の「重要指示」が、今回はなかった。
⑦ 5月31日、これまで定例で開催されてきた、月例としては党の最重要の会議である、政治局会議が5月に開かれたという報道がなかったことがあきらかとなる
6月30日、政治局会議が開催されたことが報道される。人民日報1面に掲載された発表文は過去の政治局会議の報道に比べて異様に短く、それに合わせる形で見出しも大きくは取れなかったことから、紙面全体の扱いとしては小さくなった。
新たに「党中央が議事を決定する際の調整機関の設置に関する条例」の制定が発表され、総書記の権限であった政治局会議の議題設定権に明白な制約が課されることになる
⑨ 7月1日、習の側近で新疆ウイグル自治区(かつての新疆省)書記であった政治局委員の馬興瑞の突然の異動が発表され、後任には党中央統一戦線工作部の副部長だった陳小江が起用され

〔 第6章第2節の続編 〕
⑥については、政府秘書長は日本の官庁の場合の官房長に当たる職であることから、最高指導者からの訓示が報道されなかったことはきわめて不自然です。これまた、きわめてシマリのない会であったことは容易に想像できます。

⑦については衝撃の事実であり、もはや党中央が第20期(22年秋に始まる今期の5年間)の本来の形では機能しなくなっていることはあきらかです。不開催は報道されませんので、月末までに開催の報道がなかったことから、不開催を推定するほかありません。
党中央委員会の運営規則である「工作条例」では、政治局会議について、定期開催され、重要な状況であれば随時開催できると定めており、定期開催とは月例開催であることが、これまでの慣行でした。そしてその議題を確定する権限もまた、習近平総書記にあるのです(下記⑧も参照)。
本書で再三述べてきたように、24名からなる政治局委員の中核のメンバーは、7名いる政治局常務委員で、この7名からなる「政治局常務委員会」が日本の組織でいえば役員会のようなもので、通常毎週定例開催されていますが、特別の場合以外は開催が報道されることはありません。うがった見方をすれば、従来は内輪でものごとを決めてきたこの政治局常務委員会(7名中6名は習派からなる)が求心力を失って機能しなくなっており、その結果として日本の組織でいえば評議会に当たる、その拡大版の「政治局会議」もまた、開催できなくなっているということかもしれません。
これに関しては、指導部の顧問格の長老を交えた、さらなる拡大版としての「政治局拡大会議」が5月中に代わりに密かに開催されており、その場で習近平の引退が既定路線となったという観測も数多く出ています。政治局拡大会議については、古くは長征途中の1935年に開かれた遵義会議がそうであり、これまでにも政局の節目節目で開かれてきました。

⑧について、党機関紙『人民日報』の扱いは、この日がちょうど中国共産党創立104年の記念日だったことと好対照をなしました。慣例によってトップ記事ではあるものの、それに続く他の複数の記事と同列の見出しの大きさ、紙面の割き方になっていて、今回の決定の内容にできるだけ注目して欲しくないという意図が透けて見えます。日本の新聞であればデスクの意向ですが、この場合は党中央の広報といいますか日本語でいえば情宣活動の責任者の意向の反映であり、政治局常務委員の蔡奇が以前の権勢を保っているとすれば蔡奇の意図ということになりますが(本書p.48参照)、習が失権している以上、蔡の権限もすでに失われている可能性があります。
また2ヶ月ぶりに開催が報じられた政治局会議の出欠状況から、3月の全人代以来消息が伝えられることのなかった何衛東 中央軍事委員会副主席(p.49, 61 参照、政治局委員兼務)の失脚も確定しました。
新設の党中央の議事決定調整機関は、重要な任務を指導・調整する、他で代替できない役割を担うとされ、これはほかならぬ総書記の権限に大きな制約を課すものです。もはや習近平は地べたにロープで縛り付けられたガリバーの状態で、自身の意思では政治的な身動きは取れなくなっています。
くわえて、権限を逸脱した越権行為をしないことが強調されていることから、実際の会議の席上では習派に対する激しい批判が飛び交っていたことが推測され、これまた実態は単なる政治局会議に留まらず、長老を交えた「拡大政治局会議」であった可能性があります
政権1期めの2013年11月の三中全会で打ち出された「中央全面深化改革指導小組」(18年に格上げされて「中央全面深化改革委員会」)と「中央国家安全委員会」が、これまでの習派主導の政策調整機関でした。この両者の開催は、長いこと報道されていませんから、形骸化していたのでしょう。今から振り返って考えれば、「改革の全面深化」というポスト文革期以降の錦の御旗、そして胡錦濤政権の末期から社会不安が高まる中での「国家安全」というもう一つの錦の御旗を掲げることで、習体制は集権化を図って政権の浮揚力としてきたのですが、本書に強調した2024年7月半ば以降に完全にその揺り戻しが来ています。水面下で長老に後押しされた従来の中間派・非主流派から十字砲火を浴びて、軍や党の要となるポストを一つずつ失ってゆき、ついに今回の新条例というタガまで嵌められて、政治局内部での主導権まで奪われたということにほかなりません

⑨について、この人事は公式には2ヶ月ぶりに開かれたことになっている(5月には密かに拡大政治局会議が開催されていた可能性がある)、後述する6月30日の政治局会議の翌日の出来事でしたから、習派の権勢が決定的に翳るようになった流れを汲んだものです
中国の自治区とはかつての省であり、中央で総理よりも総書記の方が上席であるのと同様に、省のトップは行政府の省長ではなく省の党委員会の書記です。新疆はトルコ系のウイグル族の統治に当たる最前線で、その書記は常に難しい舵取りを迫られる民族政策の象徴的な重要なポストです。
この人事に関して、日経新聞の中沢克二氏は政治局委員ではない陳が起用されたことの驚きを述べていますが*4)、馬自身も、その前任者も新疆の書記に就任してからまもなく政治局委員があとから付いてきていますので、着任時に政治局委員である必要はなく、これまた中沢氏は調べが足りておらず、ズレた指摘です。
なお、地方の書記のポストを失った馬興瑞のその後についてですが、11月下旬の政治局集団学習会、12月中旬の経済工作会議と相次いで欠席したあとで、

馬自身はもともとは大学の研究者で、国有大企業である中国航天科技集団に転じて総経理(社長)となったのちにさらに政界に転じて、15年に広東省深圳市のトップである党委員会書記に抜擢され、ついで17年には広東省ナンバー2である省長、21年からは新疆ウイグル自治区トップの党委員会書記と、習政権の1期めの後半からスピード出世を遂げた人物でした。3期めに入った
22年には自治区の党委員会書記のまま政治局委員に昇格し、中央政界の主要なポストをうかがう位置につけていたところからの旧転落でした。
中国航天は、戦略ミサイル関連の調達疑惑から23年末に始まる国防部(国防省)汚職摘発の震源となったいわくつきの企業です。軍の機構改革絡みで習主席肝煎りのロケット軍新設(15年年末)と並行して取り立てられた馬興瑞でしたが、国防部側から摘発が進んでゆけば、遠からず馬の汚職にまで捜査が及ぶことは避けられませんでした。くわえて政界に転じてからの彼の地盤であった深圳市は、破綻した不動産開発の最大手であった恒大集団の本拠地であり、二番手以下のデベロッパーにも広東省を本拠地とする企業は数多くありましたから、習の側近として権勢を振るっていた馬は、日本風に言えば汚職のデパートと化していたはずです。
26年3月末には広東省長時代の秘書が失脚し、外堀は埋まっていました。4月に入ると馬自身に対しても党中央規律検査委員会が「重大な規律・法律違反」の疑いを調査していると発表され、6月下旬には全人代における代表の職を解任され、同月末には習主席自身が主宰する政治局会議が、公職追放と党籍剥奪を決定します。
反腐敗運動はそもそも、習派を脅かす勢力の力を削ぐための政争の具として始まったものでした。習派は汚職摘発の実務を担う党中央規律検査委員会のポストを押さえていて、自派は摘発されることはありませんでしたから、「聖域はなく、例外は一切ない」(没有禁区、全覆蓋、零容忍)というその方針にしても単なるレトリックにすぎませんでした。ところが本書を通じて強調してきたように、習派の力が24年7月半ばの三中全会を機に決定的に衰えて以降、今日では一定の証拠が揃えば自動的に処分が進行するプロセスとなってしまい、習主席自身も側近を庇いきれなくなって、社会主義国における現代の魔女狩りと化していることは皮肉というほかありません
習政権の異例の長期化によって権力掌握からはや十数年が経過し、この間の反腐敗闘争によって要職の敵対勢力が排除されて代わりに自派を配置することを終えた今となっては、新規に摘発される大物が習派ばかりという様相を呈するに至っていることもまた、大いなる皮肉といえます。これまた習近平以下の現政権にとって、党の長老を始めとする批判勢力から事あるごとに突かれて手痛いところでしょう(26年8月14日追記)。

むすびに代えて

今回の加筆分だけで相当の長さに達しましたので、結語を記しておきます。
河南省洛陽の視察が報じられた5月10日から、上述のルカシェンコとの会談前日の6月3日までの14日間、習近平は公式の場に姿を現しませんでした。この政治的な不在期間が健康問題によるものでないとすれば、この期間に彼の大きな政治的な敗退が生じていたはずです。政治局会議が定例開催されなかった2025年5月末から、はからずも習近平の現在の執務室があきらかとなった6月初め、さらには政治局会議において議題設定の権限が明白に集団指導化されたであろう6月末にかけての1ヶ月間は、三中全会を経てさまざまな軍内の動きが噴き出しはじめた24年7月後半以来の大きな画期といえるでしょう。三中全会からちょうど1年を迎えつつあり、ふたたび大きな変化の起こる頃合いといえます。
第5章の追記⑪、第6章の⑦のような現在の形勢であれば事態の展開は本書執筆時に想定していたよりも早く、来月以降、もうしばらくするとさらに衝撃的な展開がありうるでしょう。それはたとえば、「北戴河会議」(例年8月上旬に長老の意見を聴く集まり)後の10月に開催される四中全会での習近平主席の退陣の表明、あるいはたとえば胡春華委員(本書p.100参照、前期の政治局委員で、今期は政治局常務委員への昇格と首相就任も取り沙汰されていたが、逆に格下げされてヒラの中央委員に留まって、王滬寧の下で政治協商会議副主席を務めている)をはじめとする習以外の人物が、一躍総書記または首相に就任するといった報せです。現政権の筆頭の副総理(副首相)である丁薛祥(ていせつしょう)や、23年に引退した政治協商会議前主席の汪洋(おうよう)といった、統治能力のあるテクノクラートの名も取り沙汰されています。
これにはさまざまなバリエーションがありえます。習が国家主席には留まって引き続き国家元首としての儀礼的な役割を果たし、CEO的に実権を握る総書記の座を他者に移譲することで名実ともに集団指導体制に移行するという形態から、指導部からの完全引退の表明までのスペクトラムの幅を伴っているのです。具体的にはこの間、干されていた本来のエースである胡春華がいきなり総書記となって全権を握るというシナリオから、同じ胡錦濤系(団派、共産主義青年団出身)の汪洋がひとまず総書記に就いてショートリリーフを務めるシナリオ、あるいは習派が巻き返して総書記には丁薛祥が就き、首相に団派の胡春華が就任する(この形は第1期・第2期習政権の構図と同じ)というシナリオまでのバリエーションです。一方、習近平の完全引退の場合には、総書記に加えて国家主席を上述の3名の誰かが兼務することになります。いずれの場合にも、中央軍事委員会主席には当面、張又侠が就くことでしょう。
主席や総書記が権力闘争に敗れて任期半ばで退陣することは、1970年代の華国鋒時代、1980年代の胡耀邦・趙紫陽時代などにもあったことで、現代中国ではべつだん珍しいことではありません。著者の印象としては、現在の中国は1970年代後半に華国鋒が次第に毛沢東の後継者としての権力を失ってゆき、黒子としての鄧小平が権力を奪還していったプロセスによく似た展開に入ってきたように感じています。1980年代末の天安門事件を挟んだ何人かの総書記の交代劇は、実際には鄧小平の指導的地位には揺らぎは生じなかったことから、全体の権力構造自体は安定していました。今日の混沌とした情勢は、権力構造の組み換えは生じているものの、そもそもどこに向かっているのか着地点のはっきりしない漂流状態にあることによるものです
習に先立つ2代の指導者までは、こうした権力闘争の色彩を薄めるために2期10年前後での交代が制度化されており、潔い引退の体裁をとってきたのですが、ほかならぬ習自身が(ないしは2期めに明確な後継者を育てようとしなかった彼の体制が)、憲法を改正してまで、近年では異例の3期め突入という破戒をなし遂げてしまったのですから、仕方ありません。


* 脚注

1) 秋田浩之「中国「パラレル秩序」の衝撃」(『日本経済新聞』2025年6月9日付け)

2) 董軍国防相については、9月18日に北京市内で開幕した国際会議「香山フォーラム」で演説していることから、要所要所での習近平と同様、通常は行動が制約されていて監視下に置かれながら、原稿を読み上げるだけの場面では役目を与えられている可能性がある。董については依然として取り調べが続いている一方で、これ以上頻繁に主要閣僚を交代させることによって、内外に中国の内政が混乱している印象を与えないように、印象を操作するためである。

3) ベラルーシ共和国公式ウェブサイト「Belalus by」による6月4日付けニュース・リリース「Lukashenko, Xi Jinping reaffirm commitment to friendship, agree to enhance relations」

https://www.belarus.by/en/press-center/news/lukashenko-xi-jinping-reaffirm-commitment-to-friendship-agree-to-enhance-relations_i_192052.html

4) https://www.nikkei.com/article/DGXZQOCD141GE0U5A710C2000000/

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