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博士の視点:脳という「臓器」の悲鳴を聴く ―医学者が立ち止まった、菅原洋平『多忙感』が暴く現代人の自家中毒


Professors' Wisdom 書評担当教授
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本シリーズでは、大学教授・医学博士の視点から、本を起点に、教育・健康・仕事・人生を読み解いています。

単なる要約ではなく、一冊の本が現代を生きる私たちに何を問いかけているのかを考え、実践につながる視点をお届けしています。

本好き大学教授の本の隠れ家 -The Bookish Professor’s Book Nook-
「私はこの本をこのように理解しました」


一人の医学研究者として、また教壇で若い学生たちの熱気と焦燥に触れる大学教授として、そして何より、気がつけば手帳の余白をデジタルタスクで埋め尽くしてしまう一人の現代人として、本書を非常に生々しい手触りで読み進めました。

私たちは「やることが多い」のではなく、ただ「脳を無駄に興奮させている」だけかもしれない。

そんな冷徹で、かつ救いに満ちた診断書のような一冊です。


「本当に、そんなにやることがありますか?」タスクの量ではなく、あなたの脳の扱い方にこそ、その息苦しさの正体がある。

本書から得られる3つの気づき

  • 1. 「忙しさ」の主権を取り戻すカギは行為主体感にある: 外部からの割り込みに反応する「受動感覚」の奴隷から脱し、小さくても自分の意志で動く「能動感覚」へシフトすることの決定的な意味。

  • 2. 脳は「胃」と同じただの臓器であるという視点: 食べすぎた胃を休めるように、情報過多の脳にも「何も入れない、何も処理させない」物理的な休息が必要であるという厳然たる事実。

  • 3. 効率化ツールの罠と回復のパラドックス: スキマ時間にスマホを見る行為は「脳の残業」を増やすだけ。脳を本当に休ませるには、あえて「手を動かす単純作業」という身体的アプローチが効く。





書籍情報:『多忙感』

  • 著者名: 菅原洋平

  • 出版社: サンマーク出版

  • 出版年: 2025年11月

  • キーワード: 多忙感、行為主体感、脳疲労、作業療法士、時間感覚

  • 著者紹介: 国際医療福祉大学卒業の作業療法士。ユークロニア株式会社代表。脳科学の知見をビジネスや臨床の現場に応用し、数々のベストセラーを手掛ける。



全体的な評価と推奨読者層

評価:★★★★☆(4.2/5.0)

  • 作業療法士としての確かな臨床感覚と、脳科学・神経科学の知見が非常に分かりやすくブレンドされています。小難しい理論に終始せず、現代人が日常で犯しがちな「脳の誤用」をズバリと指摘する筆致は見事。一部、学術的な厳密さよりも実践的な分かりやすさを優先した表現も見られますが、実用書としての完成度は極めて高いと言えます。

推奨読者:

  • 「毎日パソコンとスマホに向き合っているだけで、大した成果もないのに夕方にはクタクタになっている」ビジネスパーソン。

  • タスク管理アプリを駆使しているのに、なぜか常に時間に追われている感覚(ムービング・タイム)が消えない人。

  • 「忙しくしていないと自分の価値が揺らぐ」ような、構造的な不安を抱えている人。

合わないかもしれない人:

  • すでに完全に自分のペースを確立し、デジタルデトックスが完璧にできている隠者。

  • 分刻みのスケジュールをこなすこと自体に、脳内麻薬的な快感を覚え、それを全く問題視していない超人。



1. 書籍の概要


本書『多忙感』の出発点は、非常にシンプルでありながら、現代のタイムマネジメント思想を根本から揺るがす一文に集約されます。

それは「『多忙(客観的な作業量)』と『多忙感(主観的な脳の疲弊感)』は、全くの別物である」という指摘です。

著者の菅原洋平氏は、私たち現代人が抱える「忙しくて死にそうだ」という感覚のほとんどは、実際に処理しているタスクの量によるものではなく、脳という臓器がバグを起こした結果生じる「偽物のサイン」であると断言します。

構成は、この「多忙感」が生まれる神経科学的なメカニズムの解説から始まります。

私たちの脳は、1秒間に約10億ビットもの情報を受け取りながら、意識できるのはわずか10ビット程度という、極端なフィルター機能を持っています。

しかし、スマートフォンの通知やマルチタスクによる「外乱」が、この繊細なフィルターを破壊し、脳のエネルギーを急激に枯渇させていくプロセスが描かれます。

さらに、多忙感が深刻化するプロセスを「ソワソワ」「イライラ」「ぐったり」の3つのステージで整理。後半では、その解決策として、脳科学における「行為主体感(自分が物事をコントロールしているという感覚)」の回復を提案します。

スマホを視界から消す、メールの返信時間を固定する、疲れたときこそ食器を洗うといった、作業療法士らしい具体的かつ身体的なアプローチを通して、外部の刺激に「リアクション」し続ける生き方から、自ら「アクション」を起こす生き方への転換を優しくナビゲートする構成となっています。



2. 医学博士・大学教授としての視点


一人の医学研究者、そして大学という組織で多くのタスクを抱える教授としての視点から本書を読んだとき、私は何度か自分の胸に手を当て、あるいは研究室のデスクを見回して、深くため息をつかざるを得ませんでした。

著者が言う「脳を胃と同じ臓器として考えよう」という比喩は、生理学的に極めて真っ当であり、だからこそ現代人にとって強力な一撃となります。
私たちは胃がもたれていれば、自然と次の食事を抜いたり、消化の良いものを選んだりします。
しかし、脳が情報過多で「もたれて」いるとき、私たちはあろうことか、さらに刺激の強いショート動画やSNSのタイムラインという「ジャンクフード」を詰め込もうとします。
この自家中毒的な振る舞いに対する著者の警告は、医学的にも非常に理にかなっています。


(1) 「ミクログリアの暴走」が示す、現代の脳疲労という病態


特に私が専門家の立場として立ち止まり、かつ深く納得したのは、第2章で語られる「ステージ3:ぐったり」の段階における、脳内免疫細胞「ミクログリア」の暴走に関する記述です。

本来、ミクログリアは脳内のゴミを掃除し、神経ネットワークを維持するための重要な味方です。
しかし、慢性的なストレスや、脳疲労によって分泌され続けるホルモン(グルココルチコイドなど)に曝露されると、ミクログリアは文字通り「暴走」し、正常な神経細胞やシナプスまで攻撃し始めてしまいます。
これが、意欲の減退や、いわゆる「ブレインフォグ(脳の霧)」、さらにはうつ状態へとつながるメカニズムです。

大学の試験前、あるいは重要な研究プロジェクトの締め切り直前に、学生や若い研究者たちが「頭が真っ白になって、何をすればいいか分からない」と訴える瞬間を、私は何度も目撃してきました。彼らは怠けているわけでも、能力が足りないわけでもない。
マルチタスクと時間的なプレッシャー、そしてデジタルな外乱によって、脳内のミクログリアが戦時体制に入り、自らの脳を傷つけてしまっていたのです。
本書がこのプロセスを精神論ではなく、生物学的な危機として描いた点に、私は一人の医学者として快い拍手を送りたいと思います。


(2) 専門家として「引っかかった」点:ノルアドレナリンの二面性と、個別性の看過


一方で、大学教授という「教育・研究の場」に身を置く者として、少しだけ慎重に吟味したい、あるいは「引っかかり」を覚えた部分もあります。
それは、著者が「眠気を気合で乗り切ろうとするときのノルアドレナリン分泌」を、悪循環の元凶としてやや悪者扱いにしている点です。

確かに、慢性的なノルアドレナリンの過剰分泌は、脳と身体を疲弊させ、さらなる刺激(外乱)を求める依存的な状態を作ります。
しかし、医学的に見れば、ノルアドレナリンは「危機への適応」や「短期的な集中力の爆発」に不可欠なリソースでもあります。

研究の世界では、時にこの「ノルアドレナリンの波」に乗り、寝食を忘れてデータと格闘する時間(いわゆるゾーンに入る状態)が、ブレイクスルーを生むことも事実です。
問題は、その分泌が「受動的(締め切りに追われて仕方なく)」なのか、「能動的(知的好奇心に突き動かされて)」なのか、という文脈の差にあります。

本書のトーンは、すべての読者を一律に「過労死寸前の脳」として扱い、一律のブレーキをかけようとする傾向がありますが、人間には個体差があります。
ストレス耐性や、ワーキングメモリのキャパシティには遺伝的・環境的なバグや個性が存在するため、「どの程度のアクションが適切か」は、一概にステップ通りにはいかないかもしれない、という小さな留保はつけておきたいところです。


(3) 別の解釈の余地:「行為主体感」と組織の不条理


第3章の核心である「行為主体感(sense of agency)」の導入は、精神医学や認知科学のアプローチとしても極めて強力です。
「やらなきゃ」を「どうやってやろう」に言い換えるだけで、脳の側坐核(報酬系に関わる部位)の働きが変わり、疲労感が軽減されるというのは、臨床的にも正しい。

しかし、ここで私は、現代の労働環境が持つ「構造的な不条理」について、別解釈の余地を差し挟みたくなります。

例えば、医療現場における看護師や、大学の若手事務職員の業務を思い浮かべてみてください。
彼らの仕事の多くは、本質的に「リアクション(患者のナースコール、突発的な書類提出要求)」で構成されています。
これを個人のマインドセットや、言葉の言い換えだけで「能動的アクション」に昇華させることには、ある種の限界(あるいは、個人の責任に帰結させてしまう危険性)があります。

行為主体感の回復は、単なる個人の脳内ライフハックにとどまるべきではなく、組織が「いかに割り込み(外乱)を減らすシステムを作るか」という、マクロな環境設計の議論とセットでなければならないはずです。
著者の菅原氏も作業療法士としてその重要性を熟知しているはずですが、本書が個人向けの実践書であるがゆえに、この「環境側の罪」がやや過小評価されているように感じられました。


(4) 読者に投げかけたい、ひとつの問い


ここで、本書を手に取る皆さんに、大学のゼミナールのようにひとつの問いを投げかけたいと思います。

「あなたが『忙しい、忙しい』と周囲に語るとき、あなたの心は本当にその忙しさを嫌がっていますか? それとも、忙しさに守られている感覚が、どこかにありませんか?」

終章で著者が触れている「忙しくないと不安」という心理は、現代社会が抱える最も深い病理のひとつです。
私たちは、予定が真っ白なカレンダーを見ることに、一種の「恐怖」を覚えるように条件づけられています。
なぜなら、忙しさは「自分は社会に必要とされている」という安易な証明書(エビデンス)になってくれるからです。

医学部でも、常に何かの作業に追われている学生ほど、自己省察(自分を深く見つめ直すこと)を避ける傾向があります。
多忙感とは、実は「本当に大切な、しかし答えの出ない問い(自分は何のために生きるのか、このままでいいのか)」から逃避するための、脳が作り出した最高のエクスキューズ(言い訳)なのかもしれない。
本書を単なる「タスク処理を楽にする本」として読むのではなく、自分の「不安の正体」をあぶり出す鏡として使ってほしいのです。



3. 最終的なコメントと読後のアクションプラン


菅原洋平氏の『多忙感』は、時間管理の本を読み漁っては挫折してきたすべての人に対する、科学的で、かつ非常に温かい「免罪符」です。

あなたが怠惰だから仕事が終わらないのではない。

あなたの脳が、現代のデジタル環境という「異常な外乱」に対して、あまりにも素直に、そして不器用に応答してしまっているだけなのです。

全面的にこのアプローチを支持する一方で、私から小さな留保を付け加えるとするなら、それは「『行為主体感』の完璧主義に陥らないこと」です。

「今日もまた通知にすぐ反応してしまった、自分は受動感覚の奴隷だ」などと、新たなチェックリストを作って自分を責めては、それこそミクログリアの思うツボです。

脳のバグを面白がり、「おや、また脳がソワソワのステージ1に入ったぞ」と、一歩引いて観察するくらいの、ささやかなユーモアを持つことが、長期的な脳の健康には不可欠です。

未来のあなたの脳を守るために、今日からできる緩やかなプランを提示します。


読後のアクションプラン


1. すぐに実践できる具体的な行動

  • スマホの「モノクロ化」と「物理的隔離」: 作業を始める前の30分間だけで構いません。スマホの画面設定を白黒(モノクローム)に変え、カバンの奥底か、別の部屋に置いてください。視界にデジタル画面がないというだけで、脳のワーキングメモリにかかる無駄なトラフィック(通信量)は劇的に減少します。

  • 「15分間の戦略的シングルタスク」: 1日のうち、どこでも良いので「タイマーを15分セットし、その間は絶対に他のブラウザを開かない、メールを見ない、ひとつの書類だけを書く」という聖域を作ってください。16分に1回訪れるという脳のマインドワンダリング(迷走)が始まる前に、仕事を一つ、自らの手で「アクション」として終わらせる快感を脳に味わせるのです。


2. 少し時間をかけて向き合いたい問いや習慣

  • 「疲れたときこそ、手を動かす」ことの習慣化: 頭がぐったりしたと感じたとき、ソファに転がってスマホをスクロールする手を止め、あえて「シンクに溜まった数枚の皿を洗う」「デスクの上のペン立てを整理する」といった、単純な身体運動を行ってみてください。運動感覚が思考の暴走を抑えるという「競合の原理」を、自分の身体で実験・検証していく習慣を育てるのです。

  • 「カレンダーに『何もしない時間』を予約する」: 週に一度、スケジュール帳に「予定:なし(脳の臓器休止)」という枠を1時間だけ、先に書き込んでみてください。その時間は、ゴシップを読むためでも、勉強するためでもなく、ただ脳というデリケートな臓器を「アイドリング状態」に戻すための投資です。忙しさの依存症から、少しずつ自分を解毒していきましょう。


私たちの生命は、心臓の鼓動も、細胞の代謝も、すべて絶妙な「余白」と「リズム」で成り立っています。
あなたの脳という美しい臓器に、そろそろ、息をつくための正当な権利を返してあげてはいかがでしょうか。





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