博士の書評『いつもごきげんでいられる人、いつも不機嫌なままの人』:脳の暴走を「ライフスキル」で宥める ―医学者が見た、著者が照らす現代人の脳内不均衡
Professors' Wisdom 書評担当教授
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本シリーズでは、大学教授・医学博士の視点から、本を起点に、教育・健康・仕事・人生を読み解いています。
単なる要約ではなく、一冊の本が現代を生きる私たちに何を問いかけているのかを考え、実践につながる視点をお届けしています。
「私はこの本をこのように理解しました」
医学博士として、また大学という組織で教壇に立つ教授として、そして何より、日々押し寄せる学務と研究の波の中で「自身の脳のコンディション」と格闘し続ける一人の人間として、本書を非常に興味深く読み進めました。
パリオリンピックでの輝かしい実績を持つスポーツドクター・辻秀一氏が提示する「ごきげん」の科学は、一見すると世に溢れるポジティブ心理学の亜種のように見えるかもしれません。
しかしその実態は、現代社会が要請する「認知脳の過剰負荷」に対して、私たちが忘却しかけている「もう一つの脳の機能」を取り戻すための、極めてプラグマティックで脳科学的なアプローチです。
「ごきげん」とは、降って湧く幸運ではない。過剰な情報社会に潰されないために、自らの手で脳をフローへと導く「技術」である。
本書から得られる3つの気づき
1. 「ごきげん」は結果ではなく前提である: 「良いことがあったから上機嫌になる」という因果を逆転させ、「まずごきげんという土台を作るからこそ、脳のパフォーマンスが最大化する」という「心エントリー」の衝撃。
2. 現代人は「総務・人事」不在のワンマン経営: 外界の意味付けを行う「認知脳(営業部門)」ばかりを酷使し、内面の環境を整える「ライフスキル脳(総務部門)」を無視していることが不機嫌の元凶であるという腑に落ちる比喩。
3. 枯れないエネルギーは「あり方」に宿る: 他者評価による「結果の“たい”」や、環境に左右される「行動の“たい”」を超えた、「私はどうありたいか」という究極の内発的動機こそが、感情の揺らぎを吸収する。
書籍情報:『いつもごきげんでいられる人、いつも不機嫌なままの人』
著者名: 辻秀一
出版社: サンマーク出版
出版年: 2025年11月
主なキーワード: フロー理論、非認知能力、ライフスキル、メンタルトレーニング、ウェルビーイング
著者プロフィール: 慶應義塾大学病院内科・スポーツ医学研究センターを経て独立したスポーツドクター。応用スポーツ心理学とフロー理論をベースに、多くの一流アスリートや企業経営者のメンタルを指導。2024年パリオリンピックでは担当した選手から3名の金メダリストを輩出。
全体的な評価と推奨読者層
評価:★★★★☆(4.2/5.0)
精神論や「気の持ちよう」で片付けられがちな感情の問題を、脳の二元論的機能(認知脳とライフスキル脳)とフロー理論を用いて構造化した名著です。12年前の旧著からの改題・再編集ですが、SNSの普及によって「認知脳の暴走」が当時よりさらに加速した2026年現在の社会において、その価値はむしろ跳ね上がっています。
推奨読者:
部下の言動や突然のトラブルに、つい感情的に反応して自己嫌悪に陥ってしまう管理職や教育関係者。
目標を達成しても達成しても、なぜか心が満たされず慢性的な疲弊を感じているビジネスパーソン。
周囲の不機嫌なオーラをまともに受けてしまい、疲弊しやすい繊細な自覚のある人。
合わないかもしれない人:
「怒り」や「不機嫌」のエネルギーをそのまま原動力に変えてゴリゴリと成果を出したい、超ハイパーな状況に身を置く人(ただし、その生き方は医学的には長期的な健康リスクを伴う可能性があります)。
1. 書籍の概要
本書『いつもごきげんでいられる人、いつも不機嫌なままの人』は、平易な言葉で書かれた自己啓発書の体裁を取りながら、その深層には「フロー理論」と「応用スポーツ心理学」の強固なバックボーンを持つ、実践的なメンタル・マネジメントの書です。
著者の辻秀一氏は、パリオリンピックでの実績が示す通り、極限のプレッシャー下で結果を求められるアスリートの心を「フロー(機嫌が良い、集中とリラックスの共存状態)」へと導いてきた第一人者です。
彼が本書で一貫して主張するのは、「ごきげん」とは環境や出来事によって受動的に惹起される感情ではなく、自らの「ライフスキル脳(非認知脳)」を用いて能動的に作り出す「心の状態」であるという点です。
人間の脳は、外界の情報に意味付けをする「認知脳」が優位になりがちです。
特に現代社会は情報が過剰であり、認知脳は常にフル回転、結果として私たちは「他人の目」「未来への不安」「過去の後悔」というネガティブな意味付けのループ、すなわち「不機嫌(ノンフロー)」に陥りやすくなっています。
辻氏はこれを、会社で言えば「営業・製造部門(認知脳)」だけが暴走し、社内環境を整えるべき「総務・人事部門(ライフスキル脳)」が機能不全に陥っている状態だと喝破します。
この不均衡を是正するために提示されるのが、「心エントリー」という逆転の発想です。
「成果が出るからごきげんになる」のではなく、「ごきげんでいるからこそ、脳の本来のスペックが発揮されて成果が出る」。
そのための具体的な技術として、自分の不機嫌を客観視する「ラベリング」、外界の評価から独立した「あり方の“たい”」の明確化、そして出来事から意味付けを剥ぎ取る「意味付けゲーム」などのワークが網羅されています。
本書は、不機嫌を「排除すべき悪」として断罪するのではなく、携帯電話が「圏外」にいるような一時的な状態として捉え、気づきさえすればいつでも「圏内」へ移動できるという、優しくも強力な自己コントロールの地図を私たちに提供してくれます。
2. 医学博士・大学教授としての視点
一人の医学者として、また日頃から優秀だが傷つきやすい医学生や大学院生と接する教育者として、本書を読みながら私は何度も自身の臨床経験や研究室の風景を重ね合わせ、深く立ち止まりました。
精神論を嫌う医学の世界において、辻氏が提唱する「ごきげん(フロー)」がもたらす医学的価値―免疫機能の向上、動脈硬化の抑制といった指摘は、近年の神経免疫学や精神神経内分泌学(PNI)の知見から見ても非常に妥当なものです。
ストレスホルモンであるコルチゾールの持続的な分泌が、脳の海馬を萎縮させ、免疫系を抑制することは今や常識です。
「ごきげんでいること」は、単なる気分の問題ではなく、最良の予防医学そのものなのです。
(1) 専門家として「引っかかった」点:認知脳の悪者扱いに潜む罠
しかし、大学教授という「批評的視点」を求められる立場から言えば、本書の構成上、やや「認知脳」が不機嫌の元凶として悪者扱いされすぎている点に、わずかな引っかかりを覚えました。
学問の世界、特に医学の研究や臨床の現場においては、この「認知脳」による厳密な意味付けと、過去のデータとの比較、そして「最悪の事態を想定する不安(予測脳)」こそが、患者の命を救う最大の武器になります。
もし、研修医が完全に「ごきげん(フロー)」な状態で、思考のノイズをすべて排除し、目の前の患者の異常値に対して「まあ、ありのままを受け入れよう」などとマインドフルネス的に構えていたら、それは医療安全上、悪夢以外の何物でもありません。
辻氏の言う通り、認知脳の暴走は現代人の脳を過労に陥らせていますが、私たちは「意味付け」をすることで文明を発達させ、危機を回避してきた。
問題は認知脳そのものの存在ではなく、「認知脳の活動モードをオフにするスイッチを、現代人が完全に見失っていること」にあるのだと、私は解釈を補足したいのです。
(2) 臨床現場の記憶:オリンピック選手と「燃え尽きる医学生」の共通点
本書の第4章で語られる「エネルギーの3つの源泉」の図式―「結果の“たい”」「行動の“たい”」「あり方の“たい”」―は、大学の現場における学生たちのメンタルヘルスを読み解く上で、極めて強力なフレームワークだと膝を打ちました。
私の大学にも、非常に優秀でありながら、ある時期を境にポキリと心が折れてしまう学生がいます。
彼らの多くは、「医学部に入学する」「国家試験に合格する」「教授に褒められる」という、まさに「結果の“たい”(他者評価・外発的動機)」だけで、これまでの人生のエンジンを回してきたタイプです。
このエンジンは、目標を達成した瞬間に燃料切れを起こすか、あるいは「結果が出ない」状況に直面した瞬間に、凄まじいノンフロー(不機嫌・鬱状態)を引き起こします。
パリオリンピックで金メダルを獲得したアスリートたちも、きっと辻氏に出会う前は「メダルを獲りたい」という結果の奴隷になり、脳内が不機嫌(恐怖や不安)で満たされていたのではないでしょうか。
それを、「自分はどういう競技者でありたいか」という「あり方の“たい”」へとシフトさせる。
このアプローチは、医療の世界で言えば、「名医と呼ばれる結果」を求めるのではなく、「目の前の患者に誠実であるというあり方」に集中することと同じです。
結果はコントロールできませんが、自分の「あり方」は今この瞬間に100%コントロールできます。
この軸の転換こそが、燃え尽き症候群(バーンアウト)を防ぐ唯一の特効薬だと、私の経験からも断言できます。
(3) 読者に投げかけたい「問い」
ここで、本書を読んだ、あるいはこれから読む皆さんに、大学のゼミさながらの問いを一つ投げかけたいと思います。
「あなたが今日、誰からも評価されず、何の成果も出せなかったとしても、それでも保ち続けたい『自分のあり方』とは、具体的にどのような言葉で表現されますか?」
この問いに即答できる人は、本書でいう「ごきげん道」の達人です。
しかし、多くの現代人はこの問いを前に沈黙します。
なぜなら、私たちは幼少期から「何ができたか(Do)」「何を持っているか(Have)」という認知脳の基準だけで評価され、「どうあるか(Be)」を問われる機会がほとんどなかったからです。
この問いについて考えること自体が、あなたの脳の「総務・人事部門(ライフスキル脳)」を起動するスイッチになります。
3. 最終的なコメントと読後のアクションプラン
辻秀一氏の文章は、語り口こそ穏やかですが、私たちに「生き方の主権を他者(外界環境)から自分に取り戻せ」という、非常にタフな自己変革を迫っています。
全面的に礼賛するならば、本書はストレスフルな現代社会を生き抜くための最高の「脳の取扱説明書」です。
しかし、ここで一つ小さな留保をつけさせてください。
それは、「ごきげんでいられない自分」に対して、さらに『認知脳』を使って「ああ、また不機嫌になってしまった、自分はライフスキルが足りないダメな人間だ」と、新たなネガティブな意味付け(ごきげんハラスメント)をしてしまうリスクです。
著者が携帯電話のアンテナの比喩で語るように、「不機嫌(圏外)」になること自体は、脳の防御反応としてごく自然なことです。
大切なのは「あ、いま圏外だな」と気づくだけでよく、無理に笑顔を作って「ごきげん」を捏造することではありません。
その揺らぎすらも、人間という複雑な生命体の面白さとして、少し引いた目で見つめるくらいの「ささやかなユーモア」を心に持っておきたいものです。
完璧を目指す必要はありません。
大学の講義を聴くような気楽さで、まずは以下のステップから、脳のチューニングを始めてみませんか。
読後のアクションプラン
1. すぐに実践できる具体的な行動
「脳内総務部」のラベリング: 次にデスクワークや人間関係で「イラッ」としたり不安を感じたりしたら、心の中で「おっと、今、認知脳(営業部)が暴走して圏外に行ったな」と呟いてみてください。感情に名前(ラベル)をつけて一歩引くだけで、脳の扁桃体の興奮は確実に収まります。
朝の「意味付け剥がしゲーム」: 朝起きて「あ、最悪の天気だ」「憂鬱な会議がある」と思ったら、その意味付けを一度剥がし、「ただ、雨が降っている」「9時から会議というイベントがある」という事実だけの状態に脳内でリセットしてみてください。
2. 少し時間をかけて向き合いたい問いや習慣
「あり方の“たい”」の言語化(週1回のノートタイム): 週末の15分、スマートフォンの電源を切り、「穏やかでありたい」「知的好奇心に対して誠実でありたい」など、状況に左右されない自分の「あり方」をノートに書き出してみてください。周囲から「本当に?」と突っ込まれてもブレない、あなただけの免震装置(軸)が見つかるはずです。
私たちは、外界をコントロールすることはできません。
しかし、外界を映し出す「自分という鏡(心)」の角度を変えることは、今すぐにでも可能です。
皆様の明日が、少しでも「フロー」な光に満ちたものになりますように。
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