村上春樹は、まだ暗闇に降りていく
NY Times インタビューで語られた、77歳の作家の現在地
ニューヨーク・タイムズ に、村上春樹 のプロフィール記事 “Haruki Murakami Isn’t Afraid of the Dark” が掲載されていました。
Haruki Murakami Isn’t Afraid of the Dark - Feb. 15, 2026
The author, who brought Japanese literature into the global mainstream, grapples with aging and his place in the world of letters.
https://www.nytimes.com/2026/02/08/books/haruki-murakami-profile.html
読んでいて印象に残ったのは、77歳になった村上春樹が、いまだに「自分でも何が起きるかわからない場所」に降りていく作家なのだ、ということです。
ニューヨーク、マンハッタンのミッドタウン。
朝の10時。
ホテルの地下にある薄暗いカクテルラウンジに、村上春樹は座っていた。
広い空間に客はいない。壁に幾何学模様の光が揺れている。
77歳の作家は、フード付きのスウェットシャツとスニーカー姿で、ほぼ動かずに座っていた。
ニューヨーク・タイムズ記者との、珍しい公のインタビュー。
その場所が、まるで村上春樹の小説から抜け出たような空間だったことは、偶然ではないかもしれません。
この記事では、村上春樹の現在地がかなり丁寧に描かれています。
生涯功労賞の受賞。
日本文学のグローバル化への貢献。
病からの回復。
そして、現在執筆を終えた新作について。
ただ、この記事の面白さは、単なる近況紹介ではありません。(もちろん、ミステリアスな作家、村上春樹の近況を知れるのはそれだけで興味深いですが…)
むしろ、村上春樹自身が「小説を書くとはどういうことか」を、今この歳になり、再度自分の言葉で語っているところにあります。
ではインタビューを紐解いていきましょう。
村上春樹は、計画して書かない
まず驚くのは、村上春樹が小説を書くとき、あらかじめ何が起きるかを知らない、ということです。
記事の中で彼は、小説を書くときに計画はなく、ただ書いているのだと語っています。そして、書いているうちに、奇妙なことが自然に、自動的に起きるのだと。
これは、世界的な作家の言葉として、とても面白い。
40冊以上の本を書き、世界中で読まれ、何十年も作家として活動してきた人が、それでもなお「自分でも何が起きるかわからない」と言っているんですよね。
普通なら、ここまで書いてきた作家には、自分なりの設計図や勝ちパターンがあると思ってしまいます。
でも村上春樹の場合、少なくとも本人の語りでは、小説は設計図から生まれるものではない。
書いているうちに、別の世界が開いてくる。
そこで見たものを、現実の世界に戻って書き留める。
そういう感覚に近いようです。
「別の世界」へ降りていく
村上春樹は、フィクションを書くたびに「別の世界」に入る、と語っています。
それは、無意識と呼んでもいい場所かもしれません。
そこでは、何でも起こりうる。
彼はそこで多くのものを見て、こちら側の世界に戻り、それを書き留める。
記事の中での村上春樹の自己認識は、かなり独特です。
彼は、自分を天才とも、偉大な芸術家とも語りません。
むしろ、自分は普通の人間だと述べています。天才でもないし、特別に知的でもない。
しかし、自分には「あの世界」に降りていくことができる。
この言い方が、いかにも村上春樹らしいと思いました。
村上文学には、井戸、地下道、洞窟、壁、もう一つの世界が繰り返し出てきます。
それらは単なる小説上のモチーフではなく、村上春樹の創作方法そのものとつながっているのかもしれません。
彼は、地上で物語を組み立てているというより、地下に降りて、そこで見たものを持ち帰っている。
そう考えると、村上作品の不思議なリアリティが少しわかる気がします。
村上春樹は、自分を「普通の人間」として語る
この記事で印象的なのは、村上春樹が自分のことを過剰に飾らないところです。
自分は芸術家というより、普通の人間だ。
天才ではない。
特別に知的でもない。
ただし、自分にはできることがある。
別の世界へ降りていき、そこから戻ってくることができる。
この自己認識は、かなり重要だと思います。
村上春樹ほど世界的に読まれている作家であれば、いくらでも「巨匠」として振る舞うことができます。
実際、アメリカだけでも彼の作品は大きく売れ、ノーベル文学賞の候補として毎年のように名前が挙がります。
それでも、本人の語りはかなり静か。
大きな理念を語るというより、書くという作業の不思議さを、今もそのまま受け入れている。
ここに、村上春樹の作家としての強さがあるように感じます。
かつては日本文壇の「黒い羊」だった
記事では、村上春樹がかつて日本の文壇でかなり異端視されていたことにも触れられています。
今では、日本でも世界でも大きな存在です。
しかし初期の頃、彼は日本文学の主流から外れた存在と見なされていました。
西洋文学の影響が強い。
アメリカ文化の匂いがする。
文体が簡潔すぎる。
幻想的な筋立てが幼稚に見える。
日本文学の「本道」にいない。
そうした見方をされていたようです。
村上春樹自身も、自分は「黒い羊*」のような存在だったと語っています。
(*英語の慣用句で、集団(家族や組織)の中で「浮いている人」「厄介者」「はみ出し者」を意味する)
批評家たちが自分について肯定的に語れないような空気があった、とも述べています。
これは興味深いです。
今の村上春樹だけを見ると、世界的に成功した日本文学の代表者に見えます。しかし、出発点ではむしろ「本流ではない人」だった。
そして、おそらくその本流からのズレこそが、世界に届く力になった。
日本文学の内部では異端に見えたものが、海外では新しい日本文学として受け取られた。
ここには、創作を考えるうえで重要な示唆があると思います。
つまり、本流から外れていることは、必ずしも弱点ではない。
むしろ、そのズレが、その人だけの入口になることがある。
ということですね。
英語で書いて、日本語に戻した
村上春樹の文体についても、記事では重要なエピソードが紹介されています。
これは広く知られた話ですが、最初の小説『風の歌を聴け』を書いたとき、村上春樹は日本語でうまく書けなかった。
そこで、まず英語で書き、それを日本語に戻したそう。
英語で書くことで、思考の渦が抑えられ、簡潔で飾り気のない文体が生まれた。
これは、村上春樹の文体を考えるうえでとても大きい話ですよね。
村上春樹の文章は、しばしば「軽い」と言われます。
しかし、その軽さは単なる浅さではないと思います。
日本語の文学的な湿度や過剰な修辞を、一度英語というフィルターを通すことで削ぎ落とした。
その結果、乾いた、透明な、翻訳可能性の高い日本語が生まれた。
だから村上春樹の文章は、どこか日本語でありながら、日本語だけに閉じていない。
ここも、彼が世界で読まれた理由の一つなのだと思います。
音楽が文体を作った
村上春樹は、文学だけでなく、音楽から多くを学んだとも語っています。
彼は若い頃、ミュージシャンになりたかった。
しかし練習ができず、その道には進まなかった。
その後、東京でジャズ喫茶「ピーター・キャット」を開きます。
記事では、彼が音楽からリズム、メロディ、ハーモニー、そしてジャズの即興性を学んだと語っていることが紹介されています。
これは村上春樹の小説を読むと、よくわかりますよね。
彼の作品には、独特のリズムがあります。
朝起きる。
コーヒーを飲む。
料理をする。
音楽を聴く。
誰かから電話が来る。
日常が少しずつずれていく。
大きな事件が起きる前に、文章のリズムが読者を運んでいく。
村上春樹の小説は、筋だけで読むものではない。
むしろ、音楽のように流れに乗って読むものでもある。
ここに、彼の文体の強さがあると思います。
翻訳は「別の脳」を使う仕事
村上春樹は、自分の小説を書くだけでなく、英語文学を日本語に翻訳し続けてきた作家でもあります。
レイモンド・チャンドラー、J・D・サリンジャー、レイモンド・カーヴァーなど、多くの作家を訳してきました。
記事では、村上春樹が翻訳について、自分の文章に飽きたときに別の脳を使うようなものだと語っています。
他人の靴を履くような経験だ、とも説明しています。
この言葉も面白いです。
翻訳は単なる言葉の置き換えではない。
別の作家の呼吸、リズム、視点に入ること。
村上春樹にとって翻訳は、創作の副業ではなく、作家としての感覚を保つための訓練でもあるのでしょう。
他人の文体に入り、また自分の文体に戻ってくる。
これもまた、彼の「別の世界へ行き、戻ってくる」能力とつながっているように感じます。
病からの回復と、新作
今回の記事で特に重かったのは、村上春樹が最近、深刻な病気を経験していたという部分。
詳細は明かしていませんが、1か月入院し、体重も大きく落ちたそうです。普段は毎日1時間走る人が、歩くのにも苦労した。
その間、書きたいという気持ちは消えていた。
作家にとって、これはかなり怖いことだと思います。
村上春樹をしてここまで落ち込ませる病。
体力を失うだけではない。
書きたいという衝動そのものが消えてしまう。
それは、自分の中心が失われるような経験だったのではないでしょうか。
しかし、回復後、村上春樹は再び小説を書き始めます。
そして新作を書き上げた。
彼はそれを、ある種の「復活」のように語っています。
ここに、今回の記事の大きな重心があります。
村上春樹は、老いてなお書いている。
病を経験してなお書いている。
そして、ただ過去の型を繰り返しているわけではない。
新作は、若い女性の視点から書かれている
記事によれば、村上春樹の新作は、彼にとって初めて、主に若い女性の視点から書かれた長編だそうです。
主人公はカホという若い女性。
アーティストであり、児童書のイラストレーター。
村上春樹は彼女について、特別に美人でも賢くもない普通の女性だが、彼女の周囲で奇妙なことが起こる、と説明しています。
これはかなり重要な挑戦だと思います。
村上春樹はこれまで、女性キャラクターの描き方について批判されることもありました。
女性が一面的に見える、男性主人公のための存在に見える、性的に描かれすぎている、という批判です。
その村上春樹が、77歳になって、若い女性の視点から長編を書く。
これは安全な選択ではありませんよね。
むしろ、批判される可能性もある。
しかし、それでも彼はその視点に入っていく。記事の中で、彼はその女性になった、という趣旨のことを語っています。
この一言は、とても村上春樹らしくもあり、同時に危うくもあります。
けれど、作家とは本来、そういう危うい越境をする存在でもあるのだと思います。
ここから私が受け取ったこと
ここからは、記事の紹介ではなく、私自身が受け取ったことです。
今回の記事を読んで、私が一番強く感じたのは、村上春樹は「完成された巨匠」として安全地帯にいるのではなく、いまだに暗闇へ降りていく作家なのだ、ということでした。
世界的な名声がある。
過去作は読み継がれている。
ノーベル文学賞の候補として毎年話題になる。
アメリカだけでも大きな読者層を持っている。
日本文学を世界に広げた功績も大きい。
現代日本文学の海外受容を語るうえで、村上春樹を避けることはできません。
普通なら、どう考えても、もう自分の型を守ってもよい立場です。
しかし、この記事の村上春樹はそうではありませんでした。
病を経験し、老いを意識し、それでも新しい小説を書く。
しかも、自分がこれまで批判されてきた領域にも踏み込んでいく。
ここに、作家としての強さを感じます。
作家とは、暗闇を怖がらない人のこと、ということなんだと思います。
彼は、暗闇に降りていくことをやめない。
自分の中にある、まだわからない場所に何度でも降りていく。
「年を重ねても、まだ探れる場所がある」
無意識の暗闇。
記憶の暗闇。
老いの暗闇。
病の暗闇。
批判されるかもしれない新しい視点の暗闇。
そこに、まだ入っていく。
しかも、大げさな顔をせずに。
自分を天才とも言わずに。
普通の人間として、淡々と。
そこで見たものを、こちら側に持ち帰ること。
そして、それをできるだけ正確に書くこと。
村上春樹は、77歳になっても、それを続けている。◾️
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