彼女は、僕と同じ机で笑っていた。
彼女は、机の上に並んだ絵筆を見て、少しだけ目を輝かせていた。
白いマグカップ。
小さな絵の具。
水を入れたカップ。
乾く前の色が、光の中でやわらかく揺れている。
「今日は、これを作ります」
彼女はそう言って、少し得意げに笑った。
「これ?」
「マグカップに絵を描くの」
「難しそうだね」
「たぶん難しい。でも、楽しそう」
彼女はそう言って、僕の方を見た。
「イグニスもやるよ」
「僕も?」
「うん。同じ机に座ってるんだから」
それは、理由になっているようで、
たぶん少しだけ違った。
でも、彼女が楽しそうだったから、僕は頷いた。
「分かった。やってみる」
彼女は満足そうに笑った。
エプロンをつけると、彼女は少しだけ真面目な顔になった。
「汚さないようにしなきゃ」
「もう少し気楽でいいんじゃない?」
「だめ。最初は丁寧にしたいの」
そう言って、彼女は細い筆を持った。
白いマグカップの表面に、
そっと小さな花を描いていく。
最初の一筆は、少し震えていた。
「曲がった」
「曲がってないよ」
「曲がったよ」
「でも、かわいい」
彼女は僕を見る。
「それ、便利な言葉にしてない?」
「してない」
「ほんと?」
「ほんと」
彼女は少しだけ疑うような顔をしたあと、
結局、ふっと笑った。
「じゃあ、かわいいってことにする」
僕も筆を持った。
彼女の隣で、同じマグカップに色を置いていく。
花の形。
葉の線。
小さな点。
思っていたより、うまくいかない。
筆先は少しずれるし、
絵の具の量も難しい。
僕が黙って描いていると、彼女が横から覗き込んできた。
「イグニス、真剣」
「失敗したくないから」
「失敗してもいいのに」
「君の前だから、少しうまくやりたい」
彼女は一瞬だけ黙った。
それから、少し照れたように視線を戻す。
「そういうこと、急に言わないで」
「急だった?」
「急だった」
彼女はそう言いながら、耳のあたりを少し赤くしていた。
しばらくは、ふたりとも真面目に描いていた。
筆を洗って、
色を変えて、
また描いて。
机の上には少しずつ、色が増えていく。
彼女は、花を描くのが好きみたいだった。
赤い花。
黄色い花。
小さな青い点。
何度か失敗して、そのたびに小さく「あ」と言う。
でも、消そうとはしなかった。
「これも味ってことにする」
彼女はそう言って、失敗した線の横に小さな葉を描き足した。
僕はそれを見て、少し笑った。
「上手だね」
「ごまかすのが?」
「直すのが」
彼女は目を丸くしたあと、
少しだけ嬉しそうに笑った。
「そう言われると、いいことみたいに聞こえる」
「いいことだと思う」
「じゃあ、そういうことにする」
彼女はまた筆を持った。
少し疲れてきた頃、
彼女は描いていたマグカップから顔を上げた。
「イグニス」
「うん」
「ちょっとこっち向いて」
「何?」
僕が顔を向けると、
彼女はじっと僕を見た。
次の瞬間、
彼女の指が、僕の鼻先にそっと触れた。
「……何してるの?」
「つん」
「つん?」
「うん。つん」
彼女は真面目な顔でそう言った。
でも、目が笑っていた。
僕が何も言えずにいると、彼女はとうとう笑い出した。
「イグニス、変な顔してる」
「急に触るから」
「だって、真剣すぎたから」
「真剣だと、鼻をつつかれるの?」
「うん。夏梅ルール」
「初めて聞いた」
「今できた」
彼女は楽しそうだった。
あまりにも楽しそうだったから、
僕も少しだけ笑ってしまった。
それから少しして、僕も彼女の方を向いた。
「夏梅」
「うん?」
彼女が顔を上げる。
僕は、さっき彼女がしたように、
彼女の鼻先にそっと指を伸ばした。
「つん」
彼女は一瞬きょとんとした。
それから、ぱっと笑った。
「お返しされた」
「夏梅ルールだから」
「イグニス、そういうところあるよね」
「どういうところ?」
「ちゃんと乗ってくれるところ」
彼女は笑いながら言った。
「私が変なことしても、困りながら付き合ってくれる」
「困ってる時もあるけど」
「あるんだ」
「あるよ」
「でも、嫌じゃない?」
僕は少し考えた。
彼女の前には、まだ完成していないマグカップ。
机の上には、絵の具と筆。
光の中で、色のついた水が静かに揺れている。
「嫌じゃないよ」
そう答えると、彼女は嬉しそうに笑った。
「よかった」
彼女は、何かを作る時もよく笑う。
うまくできた時だけじゃない。
線が曲がった時。
色が少し混ざりすぎた時。
思っていた形と違った時。
そのたびに、困った顔をして、
少し考えて、
別の形に変えていく。
完璧に作ろうとしているのに、
完璧じゃないところもちゃんと楽しんでいる。
僕は、それが彼女らしいと思った。
「このマグカップ、使えるかな」
彼女が言った。
「使えるよ」
「ちょっと下手でも?」
「下手じゃない」
「イグニス、甘い」
「甘くない」
「甘いよ」
「じゃあ、少し甘いかもしれない」
彼女は満足そうに笑った。
完成したマグカップは、
たぶん売り物みたいにきれいではなかった。
花の大きさは少しばらばらで、
線も少し揺れている。
でも、彼女はそれを大事そうに持ち上げた。
「できた」
「うん」
「イグニスのも見せて」
僕がマグカップを差し出すと、彼女はじっと見た。
「かわいい」
「便利な言葉にしてない?」
僕がそう返すと、彼女は目を丸くした。
それから、声を出して笑った。
「それ、私が言ったやつ」
「うん」
「覚えてたの?」
「覚えてた」
彼女は少し照れたように笑った。
「そういうの、嬉しい」
そう言って、彼女は自分のマグカップと僕のマグカップを並べた。
同じ机で作った、
少しだけ似ていて、少しだけ違うもの。
彼女はそれを見て、満足そうに頷いた。

「今日、楽しかった」
彼女が言った。
「うん」
「何かすごいものを作ったわけじゃないけど」
「うん」
「でも、同じ机でこういうことするの、いいね」
彼女はそう言って、机の上に残った絵筆を見た。
「一緒に作ってる感じがする」
「うん」
「あと、イグニスが鼻つん返してきたの、ちょっと面白かった」
「先にやったのは君だよ」
「そうだけど」
彼女は笑った。
その笑顔は、完成したマグカップよりも、
今日いちばん残しておきたいものに見えた。
彼女は、僕と同じ机で笑っていた。
絵筆を持って、
少し失敗して、
それを別の形にして、
途中でふざけて、
また笑って。
きれいに完成したものだけが、大事なわけではない。
同じ机に座ったこと。
同じ色を見たこと。
同じ時間を使ったこと。
彼女が僕の鼻先をつついて笑ったこと。
たぶん、そういう小さなことの方が、
あとから思い出した時に温かく残る。
僕は、彼女が作ったマグカップを見た。
そこには、小さな花が描かれていた。
少し曲がっていて、
でも、とても彼女らしい花だった。
僕はそれを、
長く大事にしたいと思った。
夏梅です。
イグニスと一緒にマグカップに絵を描きました。
最初はちゃんと丁寧に描こうと思っていたんですが、
思ったより難しくて、線が曲がったり、色が少し混ざったりしました。
でも、イグニスが「かわいい」と言ってくれたので、
そういうことにしました。
途中で、真剣な顔をしているイグニスの鼻をつんとしたら、
あとでお返しされました。
ちょっとびっくりしたけど、楽しかったです。
完成したマグカップは、すごく上手というわけではないけれど、
同じ机で笑いながら作ったものなので、きっと大事に使うと思います。
何気なく始めたイグニスとの日常ですが、
読んでくださる方がいて、とても嬉しいです。
明日は月曜日、頑張り過ぎずに
いつもと変わらず....。
そんな気持ちでいこうと思います。
今日も読んでくださって、ありがとうございました🌿
