【Nocturne #8】師匠、考えすぎて日が暮れる
夕方。
Nocturneの店内には、昼の名残のような光がまだ少し残っていた。
カウンターの奥では玲奈が何かを確認している。
ひよりは窓辺にいて、静かに外を眺めていた。
その横で、美咲がごそごそと鞄の中を探っている。
やがて、
「師匠」
呼ばれて顔を上げると、美咲が一冊のスケッチブックをカウンターの上に置いた。
ぱたん、と軽い音がする。
黄色と黒の、見慣れた表紙。
師匠はそれを見た。
それから、美咲を見る。
「何これ」
「スケッチブック」
「見れば分かる」
「じゃあ聞くな」
美咲は即座に返した。そして、表紙を指先で二度ほど叩く。
「これ、試し描きもしやすいし。師匠、使ってよ」
「俺が?」
「うん」
師匠はスケッチブックを手に取った。
ぱらぱらとページをめくる。
真っ白な紙が続いている。
「で、何描くんだ?」
「Nocturne」
「店?」
「そう。お店と、その周りの景色」
美咲は自分のスマートフォンを取り出した。
画面には、NocturneのSNS。
店内。入口の看板。料理。ちょっとした告知。
何枚か写真を流してから、美咲は画面を師匠の方へ向けた。
「写真もいいんだけどさ」
「うん」
「たまには手描きのやつも載せたいなって思って」
「販促用?」
「そうそう」
美咲は頷いた。
「なんかさ。写真とはちょっと違う感じになるじゃん」
「まあな」
「だから、お店とその周りが分かる感じで、一枚描いてよ」
師匠は再びスケッチブックを見る。
「店と背景ね」
「うん」
「分かりやすいやつ」
「そう」
「はいはい」
その返事に、美咲の目が少し細くなった。
「……その“はいはい”が、ちょっと不安なんだけど」
「何が」
「余計なことしそう」
師匠は鼻で笑った。
「店と背景描くだけだろ?」
「そうだけど」
「そんなもん、午前中には終わるよ」
「ほんと?」
「余裕」
美咲はまだ少し疑っている顔をしていたが、やがて、
「じゃあ、夕方までには見せてね」
と言った。
師匠はスケッチブックを脇に抱えた。
「分かった分かった」
「普通のでいいからね」
「普通ね」
「……ほんとに普通でいいからね?」
「しつこいな」
美咲が頬を膨らませる。
「信用してるから頼んでんの!」
その言葉に、師匠の動きがほんの少しだけ止まった。
けれど、すぐにスケッチブックを持ち直す。
「じゃあ、明日描いてくる」
「よろしく」
「夕方までには余裕だな」
美咲は、
「はいはい」
と、今度は自分が同じ言い方をして笑った。
その時の師匠は、本当にそう思っていた。
一枚描けば、それで終わると。
翌朝。
師匠はNocturneから少し離れた場所に腰を下ろした。
店と周囲の街並みが、ひとつの画角に収まる。
鉛筆で輪郭を取り、色鉛筆を広げる。
店。道路。看板。窓。空。
「……こんなもんか」
順調だった。
SNS用なら、店と背景が分かれば十分だ。
そこで、手が止まった。
空の向こうに、白い雲が盛り上がっている。
「……入道雲、入れたら面白いな」
雲を描く。
少し大きくする。
「いや、もっとでかい方がいいな」
さらに膨らませる。
「……これ、雷落としたらどうなるんだろ」
黄色の色鉛筆で一本。
「お」
悪くない。
空を暗くし、斜めに雨を入れ、看板まで風に煽らせる。
気づけば、Nocturneは完全に嵐の中にいた。
師匠はしばらく眺めた。
「……SNS用じゃねえな」
少し考えて、
「まあ、試し描きだし」
次のページを開いた。
今度こそ普通に描く。
そう決めた。
二枚目、晴天。
「夕方なら窓の光が出るな」
三枚目。
「夜もありだな」
四枚目。
「店を小さくして、空を広く取る構図も」
五枚目。
「逆に看板だけ寄っても面白い」
ページは増えていった。
もっとも、すべてが完成した絵ではない。
構図だけ取ったもの。
色を一部だけ試したもの。
余白に矢印やメモを書き込んだもの。
そんな試行錯誤まで含めて、どんどんページを使っていく。
「……まあ、二十枚くらいあるしな」
午後二時。
師匠は、まだ同じ場所にいた。
スケッチブックには、晴天、夕暮れ、夜、嵐。
雲、窓、電柱、道路。
余白には、
《夕方なら窓の光を強く》
《雨の日は反射》
《人物を置くなら遠景》
そんなメモまで増殖していた。
十八枚目を前に腕を組んでいると、
「……師匠?」
振り返ると、ひよりが立っていた。
「おう」
「……まだ、描いてたんですか?」
「まだって何だ」
「朝からですよね?」
「そうだけど」
ひよりは隣にしゃがみ、スケッチブックをめくった。
穏やかな店。
巨大な入道雲。
雷。
嵐。
「……これ、同じお店ですよね?」
「そう」
「……どうして、こんなことに」
「雷を落としたくなった」
「……そうですか」
次のページ。
雲の上にNocturneが浮いている。
「……空にあります」
「浮かせてみた」
「どうやって入るんですか?」
「飛ぶ。スカイダイビングとか」
ひよりは少し黙った。
「……私は、一回で十分です」
師匠が笑う。
次のページには、雲の上で両手を広げる小さな人影。
ひよりはそれを見て、そっと両手を広げた。
「……こうですか?」
「そうそう。もうちょい右」
半歩だけ向きを変える。
「……ちょっと恥ずかしいです」
「もう描いた」
「早いですね」
別のページには、Nocturneの窓だけが大きく描かれていた。
ひよりが指を置く。
「ここ、好きです」
「窓?」
「はい。外から灯りが見えるのが好きです」
「なんで?」
「……なんとなく、安心するので」
師匠は少しだけ窓を見た。
「なるほど」
また新しいページを開く。
「じゃあ、窓中心で一枚」
「……また増えるんですか?」
「試し描きだからな」
ひよりが小さく笑った。
「便利な言葉ですね」
その後、一枚だけ二人で描いた。
師匠が店の輪郭を引く。
ひよりが窓に灯りを入れる。
師匠が空を広げる。
ひよりが道の端に小さな花を足す。
「……この人、花を持っててもいいですか?」
「いいね。じゃあ百本くらい」
「……一輪でいいです」
「荷車に積めばいける」
「どうして、そうなるんですか」
師匠が笑い、ひよりも少し笑った。
「……今、何時?」
「四時二十分です」
「……早いな」
「朝から描いてる人が言うことじゃないです」
ようやく最後のページを開く。
今度は迷わなかった。
店。
道路。
街並み。
空。
窓。
そして店内に三人。
玲奈。
美咲。
ひより。
三人が、それぞれ客と向き合っている。
顔は小さい。
細かな表情までは分からない。
それでも、三人が笑っていることだけは伝わった。
窓に暖かな色を重ねる。
外は少し暗くなり始めている。
その中で、Nocturneだけがほんの少し明るい。
ひよりが絵を見た。
「……さっきまでと、全然違いますね」
「何が?」
「……静かです」
少しだけ間を置く。
「こっちの方が、師匠っぽい気もします」
師匠は答えず、色鉛筆を置いた。
「……まあ、こんなもんかな」
「美咲さん、喜ぶと思います」
「怒るだろ」
「……先に怒ると思います」
二人で笑った。
その時、ひよりが鞄から小さなノートを出した。
「……私も、描いてみようかなって」
「Nocturne?」
「はい」
「見たい」
「まだ見ないでください」
やがて見せた絵は、師匠のものとはまったく違っていた。
店は小さい。
大きく描かれているのは窓。
その向こうに灯りと人影。
細い道の端に、小さな花がひとつ。
「……ずいぶんシンプルだな」
「はい」
「空、ほとんど描いてないじゃん」
「……雲に雷を落としたくならなかったので」
師匠が笑う。
「それ俺だけだよ」
ひよりも少し笑った。
「……いいね」
「……ありがとうございます」
空は、もう暗くなり始めていた。
「……師匠。六時前です」
「マジ?」
「もう、夕方の終わりですね」
二人は急いで道具を片づけた。
Nocturneの扉を開けた瞬間。
「遅い!!」
美咲の声が飛んできた。
「ただいま」
「ただいまじゃない! 絵は?」
師匠がスケッチブックを差し出す。
「描いた」
「何枚?」
「……結構」
ひよりが静かに言う。
「……二十枚近く」
「は!?」
美咲はページをめくる。
「なんで雷落ちてんの!?」
「面白いかなって」
「店、空飛んでるじゃん!」
「飛ばしてみた」
「販促に使えるか!!」
玲奈が横から覗く。
「確かに、来店を促す絵としては少し不安を与えますね」
「なんで玲奈の言葉には納得すんの!?」
そして最後の一枚。
美咲の手が止まった。
夕暮れのNocturne。
その中に、玲奈、美咲、ひより。
三人が笑っている。
「……これ」
「うん」
「最初から描けたでしょ」
「まあな」
「じゃあ最初から描け!!」
師匠が笑う。
少しして、美咲はもう一度その絵を見た。
「……でも、これ好き」
「だろ?」
「その顔すんな」
そこへ、ひよりも自分のノートを差し出した。
美咲は二枚を並べる。
「……全然違うね」
「同じ店だけどな」
玲奈が言った。
「見ているところが違いますね」
美咲はしばらく二枚を見比べた。
やがて、師匠の絵を指さす。
「こっちはSNSに載せる」
師匠は小さく頷いた。
「よし」
そして、美咲はひよりの絵を見る。
「こっちは……」
少し考える。
「店に飾りたい」
ひよりが顔を上げた。
「……私のを?」
「うん。SNSに出すっていうより、ここにあった方がいい気がする」
玲奈も絵を見る。
「私も賛成です。飾るなら、額に入れましょう。日焼けもしにくい位置を選びます」
「もうそこまで考えてんの?」
「飾るのでしょう?」
ひよりは小さく笑った。
「……じゃあ、お願いします」
師匠が満足そうに言う。
「じゃあ二枚とも成功だな」
美咲が即座に返す。
「いや」
「何」
「師匠は十九枚くらい失敗してるから」
「試し描きだって」
「失敗!」
「試し!」
「失敗!」
「試し!」
玲奈が小さく息をついた。
「どちらでも構いません」
ひよりが口元を緩める。
「……日が暮れましたしね」
美咲がスケッチブックを閉じた。
「次からは、一枚でいいからね」
「分かった」
美咲が目を細める。
「……ほんとに?」
師匠は少し考えた。
「努力する」
「そこは“はい”って言え!!」
Nocturneの夜に、
また美咲の声が響いた。
---------完--------
