「うまい」を考える
テレビをつけると、たいてい誰かが食べています。
芸人が一口食べて、「うまーーーーい!」と叫びます。のけぞって、白目になって、スタジオが笑い声で満たされます。背後を向いて、山や森に向かって叫びます。画面の端には「激うま!」とテロップが出ます。
ここまでが一連の流れで、もはや番組の進行手順の一つになっているように見えます。料理の説明よりも、リアクションの速さと派手さが優先されているのです。
その「うまい」という言葉を聞いても、僕の中には何も残りません。誰が作った料理で、どんな味なのかも伝わってきません。ただ、いつも通りの段取りが遂行されたという現場の安心感だけが伝わります。
バラエティ番組の中では、食べることも一つの見せ場であり、味そのものは二の次になっているように感じます。
口に入れた瞬間にのけぞるというのは、ほとんど反射的な演技です。普通、食べ物の味が分かるのは数秒後です。咀嚼して、香りが広がり、舌が温度に慣れるまでに時間がかかります。
けれど番組では、その余裕を与えません。一口目で反応を取らなければテンポが悪くなるからです。だから芸人は、「味が分かる前にうまいと言う」ようになります。
感想ではなく、合図です。
「うまい」という言葉が、味覚ではなく段取りを示すサインに変わっているのです。
スタッフの笑い声が入ります。画面には「(笑)」や「爆笑」の文字が出ます。しかし、あれは誰の笑いなのかよく分かりません。
現場の空気というより、雰囲気音のように聞こえます。食べる、驚く、笑う。この三点セットがあれば番組は成立します。
そこにどれだけの実感があるかは、もはや問題にされていません。音と動作でできた疑似的な「盛り上がり」だけが流れていきます。
僕はときどき思います。
あの「うまい」という言葉に、どれほどの意味が残っているのでしょうか。たぶん誰も本気で味を伝えようとはしていません。「うまいです」ではなく、「ここでうまいと言うことになっている」。
リアクションが感想を上書きしてしまっているのです。それを何度も見せられているうちに、言葉そのものが空気のように軽くなっていきます。
食べるという行為には、もともともっと静かな時間があります。香りを確かめ、噛み、飲み込み、余韻を味わう。その一連の流れの中に、「おいしい」という感情が生まれるはずです。
しかし、テレビの中ではその過程が省略されます。噛むことも、考えることもカットされて、リアクションだけが残ります。
食べ物は、味を楽しむ対象ではなく、うまいを引き出すためのトリガーになっています。食材も料理人も背景も、その一瞬のための小道具に見えてしまいます。
僕は別に、芸人の演技を責めるつもりはありません。彼らは決められた役割をこなしているだけです。
ですが、あの「うまい」という叫びの中には、何の味も残っていません。
番組はテンポよく進みます。
「次はこちらの名物料理です!」
芸人がまた食べて、叫んで、笑い声がかぶります。この流れを、何十年も見続けてきました。
たぶんこれからも変わらないでしょう。それが「テレビ的なうまさ」だからです。視聴者はもう、味を期待していません。リアクションのパターンを期待しているのです。
うまいは感情ではなく、構成の部品として消費されています。
僕は、たぶんそこに飽きています。食べることを見せるなら、もっと静かで、もっと具体的でいいはずです。「うまい」一言で片づけられないほど、食べ物には複雑な情報が詰まっています。
にもかかわらず、テレビはそれを削り、残ったのは反射的な叫びだけです。
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