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「冷やしトマト」を考える

僕は冷やしトマトを少し馬鹿にしています。ずっと前からそうなのです。誰かと居酒屋に行って、メニューを開いて、さあ何を頼もうかというときに、「冷やしトマト、ひとつ」と言われると、心の中に小さな波紋が広がります。言葉にはしません。いいねえと言います。顔にも出さないようにします。でも確かに、ざわっと、何かがささくれるのです。

もちろん、トマトそのものが嫌いなわけではありません。むしろ好きなほうです。冷えていればなおさら嬉しい。家ではよく冷やしたトマトを食べます。薄く切って、塩をふり、気分によってはオリーブオイルをたらしたりもします。冷えた果肉の舌触りはなんとも心地よく、酸味も甘味も疲れた体にはちょうどいいものです。夏の夜など、最高だと感じます。

けれど、居酒屋では少し話が変わります。あの場における冷やしトマトだけは、なぜか素直に受け入れられないのです。たいして手のかかっていない食材に、三百円、四百円、時には五百円を支払う行為に、心のどこかで引っかかってしまうのです。

トマト一個は、百円前後で買えることが多いです。今どきのスーパーなら、もっと安く手に入ることもあるでしょう。少し大きめのものを買ってきて、冷蔵庫で冷やせば、それで済みます。切るのに包丁とまな板は必要ですが、それだって料理というほどの手間ではありません。それなのに、居酒屋ではそれが三倍もの値段で、しかも堂々と一皿として提供されてくるのです。輪切りにされた赤い果実が、何も語らず、ただ冷えているだけで、僕はなぜか居心地の悪さを感じてしまいます。

「冷やしトマト、ひとつ」。そのひと言には、悪意も、狙いもありません。頼んだ本人は、おそらくごく自然に、なんとなく口にしたのでしょう。さっぱりしたものが食べたかったのかもしれませんし、飲み過ぎないようにセーブしたかったのかもしれません。でも僕には、それがどこか、自分の美意識のようなものを突きつけられたような感覚になるのです。

居酒屋で口にしたいものには、それなりの「らしさ」があると思っています。油の香りが漂うもの、塩気がしっかりと効いたもの、炭火の焼き目がついたもの、あるいは丁寧に仕込まれた小鉢。そういう料理に囲まれてこそ、酒が進む気がするのです。そんな空間の中で、冷やしトマトが無言のまま、ただ冷たく、そこに置かれている。その姿が、どうしても僕には引っかかってしまうのです。

きっと、羨ましいのでしょう。そうやって、自然に冷やしトマトを頼める人が。僕はそれができません。ためらってしまいます。心のどこかで「それはコストに見合わない」とか「それくらい家で食べればいいのに」とか、余計な言葉が浮かんでしまって、結局ほかのメニューに逃げてしまいます。唐揚げ、ポテトサラダ、厚焼き玉子。そういう「納得できる」選択肢を選んでしまうのです。

でも、それこそが、僕のさもしさなのだと思います。価格と価値をいちいち天秤にかけて、納得できるかどうかを計算してしまう自分。気づけば、誰かの「何気ない選択」にまで、評価を貼りつけてしまっている。冷やしトマトを頼んだその人に対する違和感は、きっとその人自身への感情ではありません。自分にはできないことを、自然にやられてしまったことへの、ちいさな劣等感なのです。

そのことに気づくたびに、なんとも言えない情けなさが湧いてきます。だから僕は、それを「馬鹿にする」というかたちで処理しているのかもしれません。あんなものをわざわざ頼むなんて、と思いながら、心のどこかで優位な気持ちになろうとしているのです。実際には、何ひとつ優位なことなどないのに。

ややこしいのは、家で食べる冷やしトマトは、やっぱり格別に美味しいということです。そこには偽りがありません。冷やして、切って、塩とオリーブオイル。ときどき醤油にしてみたり、大葉を添えてみたりもします。どれもとても美味しい。安価で、手間も少なく、体にもやさしい。完璧な一皿です。

この「家では美味しい」という事実が、さらに僕をねじれさせます。同じものが、店で出てきた瞬間に、急に受け入れがたくなる。つまり僕は、状況によって評価を変えているのです。しかも、それを自覚している。なのに、どうしても気持ちが追いついてこないのです。

外食とは何なのか、僕はときどき考えます。自分では作れないものを食べる行為。手間を買う行為。あるいは空間や時間を買う行為。頭では理解しています。そういう意味では、冷やしトマトにもちゃんとした正当性があります。でも、それでもやはり「冷やしトマトか……」と思ってしまう。これはもう、理屈ではない何かが働いているのだと思います。

それは、おそらく自分自身の中にある貧しさなのです。他人の自由な注文を、心のどこかで咎めてしまうような、不寛容。冷やしトマトは、その不寛容さを、まっすぐ突きつけてくるのです。シンプルで、静かで、正しいだけの存在が、僕の中の歪みを静かに映し出します。

今日も誰かが言います。「冷やしトマト、ひとつ」。僕はまた、黙ります。何も言いません。「別にいいんだ」と思おうとします。でも、やっぱり少しだけ、ざわざわしている。それはきっと、これからも続くのでしょう。

それでも僕は、冷蔵庫にトマトを冷やしています。赤くて、丸くて、今夜のために。あれが冷えていると、どこか安心します。飲む前に切って、小さな皿に盛りつけて、ひとりで静かに口に運びます。「美味しいな」と思います。そして、思います。「あんなに馬鹿にしていたくせに、結局こうして食べている」と。

冷やしトマトは、きっと答えではありません。問いなのです。僕にとってはずっと、そういう存在であり続けているのです。

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皮肉屋ジョー🎭世の中まぜるな危険 牛乳を買います