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命のバトンを渡した日 〜18年前、私は姉のドナーになった〜


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【あらすじ】

18年前、私は病に倒れた姉のドナーとなり、自らの身体の一部を分け与える「命のバトン」を渡した。しかし、手術の成功はゴールではなく、本当の闘いの始まりに過ぎなかった。骨髄移植前、姉を待ち受けていたのは、致死量の抗がん剤や放射線の凄絶な前段階の処置。そして術後「いつ起きるか分からない拒絶反応」への終わりのない恐怖。同じ病室の仲間が亡くなっていく現実を前に、生き残ることへの葛藤や羨望の視線に晒される姉の姿があった。ドナーとなった私自身の身体のしんどさ。けれど、命が定着するかを祈る2週間おきの検診、感染症の恐怖と闘う姉の苦しみに比べれば、私の痛みなど微々たるものだった。3ヶ月、半年、そして1年半。一歩ずつ、絶望の淵から這い上がるようにして、姉はついに「寛解」を告げられる。これは、綺麗事では決して片付けられない「命のやり取り」の生々しいリアルと、それを乗り越えて共に生きる姉妹の、18年前の真実の記録である。





ドナーになるまで、2008・12月15日の出来事。

冬のある日、姉は風邪を引き仕事を休んでいた。なかなか微熱が下がらないようで隣に住む私の家からは姉の車が見えた。
"今日も休んでるんだな…年末も近いし看護師やし病院忙しかったのかな"くらいにしかこの時は思っていなかった。

翌日、私は仕事に行っていつも通りレジでお客様をさばく
休憩時間にスマホを見ると母からの着信が何回かあり、折り返し電話をすると母が震える声で

「お姉ちゃん……白血病やって………」

奥からテレビの音がその時だけはやけに大きく感じた。

今、なんて?
思考が止まった『は……けつ……びょう?』
職場の食堂で他の人の笑い声で戻され

咄嗟に出たのは「今、姉貴は?」


母「大学病院に即入院や」

私「そっか………」

なんだかわからない安堵感
私の周りだけは空気が重たかった。

とりあえず仕事はこなして帰り、改めて詳細を聞くことにした。
母から聞いた姉の様子は、
私が思っていたよりずっと深刻だった。

微熱は続いていたらしい。

それでも姉は、
「長く休めないから」と仕事へ向かった。

けれど、
その日は身体がいつもと違った。

勤務先近くの従業員駐車場から、
病院まで数メートル。

その距離すら、
ひとりで歩けなかったという。

同僚に支えてもらいながら、
なんとか院長へ相談し、
血液検査を受けた。

そのまま、
大きい病院へ。

そして即入院になったことを聞いてから
母は震える声で、姉が荷物を取りに来た時の様子を話してくれた。姉は泣きながら、こう叫んだという。

「なんで私がこんな目に遭うんや! 私じゃなくて、老い先短いばあちゃんがなれば良かったんや!」

驚いた。
姉は現役の看護師で、婦長も務めている。患者に寄り添うのが仕事の人間だ。そんな姉が、実の祖母に向かって、絶対に言ってはいけないタブーを吐き出した。

私は「はぁ………そんなこと言ったんか………で、ばあちゃんはどうしてる今」とリビングに入る。テレビを見てる祖母はいつもと変わらずに椅子に座りながら私の視線に気づき

「おかえり」

いつもと変わらない"おかえり"が
なんだか祖母の目が少し寂しそうだった。

祖母は朗らかな人であまり人の愚痴は言わない大正生まれの人。母子家庭の我が家を3つ仕事をしながら支える肝っ玉ばあちゃん。(当時87歳仕事はもうしていない)
私には愚痴こぼしまくりだけど笑

2008年12月15日の出来事だった
その日、我が家は少し重たい空気のまま翌日を迎えた。

それからは___

私が仕事を母の仕事の休みに合わせて(母とは同じ職場)
なるべく姉の見舞いに行く日々
それが3ヶ月続き私は姉が早く治るように祈るしか出来なかった。
姉(当時39歳)には幼い男の子2人いる身。
姉の子どもたちは、当時長男が小学5年、次男は保育園児だった。母親が命の危機にあるのは、あまりに酷だ。
"だから私の寿命削っても良いから姉を助けて"と必死に祈った。

3月のある日、
姉の担当医から呼ばれた。

化学療法には限界がある。

つまり、
抗がん剤の効きが、
あまり良くないという話だった。

そして、生存率は決して高くないが、やらないよりは望みがあるとして骨髄移植を提案された。

きょうだいでも型が一致する確率は高くない。

当時、姉のような難治性急性白血病の場合、5年生存率は25〜35%ほどだと説明された。

私と弟、姉の旦那さんで話し合った。
姉旦那さん「俺ではまず型が合わんやろ」
私 「うーん、私と弟ですね……」
弟 「確率低いんやろ?2人ともして合わないってなるとお金がもったいないげ」
私 「ドナー見つかるまで待つのは時間ないやろ?いつ容態が変わるか分からんし」
弟 「手術しても五年生存率が25〜35%やろ?その中に入れば良いぞ?入らなかったら……」
私 「私が検査する!」なんかピンと来た。

HLA検査(白血球の型を調べる検査)は費用も高い。そもそも血の繋がらない夫婦間で型が一致する確率は、何万分の1という奇跡に近い数字だ。そのため、まずは姉の旦那さんは論外(対象外)となり、4分の1の確率で型が一致する可能性がある、私と弟のどちらかが検査を受けることになった。



2週間後――。

結果を聞きに行くと、担当医が驚いた声をあげた。


「こんな奇跡はめったにないよ、完全一致なんてお姉さん運が良いね!」


先生がそこまで驚くほど、凄いことだったのだ。飛び上がって喜ぶというよりは、じわじわと、誇らしさと驚きが胸の奥に噛み締めるように広がっていった。この奇跡を聞いた姉や母や弟、姉の旦那さんはどう思うだろう?
次々とみんなの顔が思い浮かび、何よりも心が叫んでいた。




『神様ありがとう!』



担当医の話が終わり母と弟にそのことを伝えると母は涙を流し「良かった………良かった…」と安心していた。
弟は逆に何とも言えない顔をしていたどんなリアクションしていいかわからないのかもしれない。
その後2人は姉のところへ行くと私と別行動。

とにかく私は窓際のとこでひたすら神様に涙ぐみながら感謝していた。
窓の景色を見ながら何かが動き出したような気がした
それまで見えなかった希望が、
ほんの少しだけ形を持った瞬間だった。

そこから移植手術へのタスクが始まる。

私は職場のレジチーフ(上司)事情を話し、長期休みの申請を出した。ただ、ここで問題がある。
スーパーのレジは慢性的な人員不足で長期休みはなかなか取りづらいのが現状、その時の上司はまだ理解がある人でも休みの間の人員確保が難しいと良い返事はもらえなかった。それに加えて正社員は数年に一度異動がある。ちょうど上司も異動で長期休みのことは後任に話して欲しいと言われてしまった。
その後任の上司はあまり良い噂は聞かない人。

最悪だ……。

異動前に挨拶に来た後任上司に話してみたところ、やはりこんな言葉が返ってきた「ええー!そんな長期は困るわ〜」と。
なので自身の体のことは私が最大限譲歩して1週間だけ休みをもらった。
この時、後任上司の理解の無さにはがっかりしたし悔しくもあった。けれど、姉のことを思えばそんなことを気にしている暇はなかった。万全の体調で臨みたいからだ
それまでは仕事をしながら、ドナーとして骨髄移植手術までのスケジュールをこなす日々だった。

姉を見舞いながら全身麻酔のこと、それに伴うリスクなどの説明を聞き、体重、肺活量、身長、精密検査などを大学病院で済ませておき、当日の赤十字病院での骨髄移植に備える。
自己血はだいたい1ヶ月から2ヶ月前に400cc採血した。かなり急ぎだった。

移植手術は七月末に決まった。
抗がん剤の効果に限界が見え始めていたこと、
そして当時は移植適応年齢にも制約があったことから、
医師たちは一刻も早く移植を進めようとしていた。
(補足)※ ①

私もリスクを承知でドナーの覚悟をした。ただ姉を助けたいという想いだけ

骨髄移植手術をするという話を聞いた職場のバイトの子が、

「好きな漫画あれば貸しますよ。全巻ありますから」

と、休み中に退屈しないよう漫画を貸してくれた。

パートさんたちも、

「お姉さんそんな病気やったの……」

「ドナーって手術やろ?大変やね」

と声を掛けてくれた。

あの頃の私は、

姉を助けたい一心で走り続けていた。

だからこそ、

何気ない優しさが心に沁みた。

そんなこんなであっという間に当日前夜を迎え入院
不安が全くないことはない、なんせ初めての全身麻酔でドキドキもんで家から持ってきたDSゲーム・借りた漫画で不安を打ち消すしかなくなかなか眠れずにいたのだ。

そして、食事を運ぶ看護師さんの姿が目に入る。

昼食の匂いまで美味しそうに感じた。

「終わるまで食べられんなぁ……」

そう思うと、急にお腹が鳴りそうになった。

午後からいよいよだと考える

時間が来た
看護師さんが車椅子を持ってきて「さあ、行きますか」
車椅子に乗り手術室へ向かう

看護師さん「良く眠れましたか?」

私 「あまり眠れませんでした…」
看護師さん「大丈夫ですよ、手術も寝てる間に終わりますし、3時間くらいですかね」

そんなことを話しながら手術室の前まで来てオペ看に引き継がれる

「ここからは私たちが」と交代する。

手術室に入ると麻酔科の人が

「点滴増やしますね、あとはこれだけです」

もう一本管が増やされ両腕に一本ずつなんだか仰々しく感じ不安を煽る。

麻酔科の人「緊張してますか?大丈夫ですよ、リラックスしてくださいね〜今から私が10数えますからゆっくり深呼吸してくださいね〜はい、1……2……3……」

そこから先は覚えていない。

前夜ほとんど眠れなかったせいか、
意識はあっという間に闇へ沈んだ。

数時間後____


だんだん意識が浮上する。

少しずつカチャカチャと音が微かに聞こえ意識がはっきりしてくると近く感じるように
耳元で人の声が「○○さん終わりましたよ、今から病室に向かいますからね」とベッドが移動していく
目だけキョロキョロし薄らとした視界がはっきりしてベッドの周りには4人看護師がベッドを動かしている、廊下を歩いてるのが分かりエレベーターの前まで来て
看護師さんが「手術上手くいって今頃はお姉さんのところに骨髄液が運ばれてる頃ですよ、後はゆっくり休んでくださいね」
私の仕事は終わった、あとは姉の闘いが今から始まるんだと移動しながら思った。
病室に着くと母、弟、姉の旦那さんがいて「ありがとう」と母が手を握ってきた、姉の旦那さんも涙ぐみながらしきりに感謝を言ってきて
ふと「今、姉貴も手術やろ?」と母に聞くと母が「手術というより点滴でなんやったかな…濾過?して必要な成分にわけて点滴で注入するんやって」

"点滴⁉︎"想像外の単語が出てきて驚くというか拍子抜けというか
「そんな簡単なんや?」と聞き返すと母が「らしいよ、今から私ら見に行くけど」
"そうなんや……私は見に行けんのか"と考えてると
弟が「じゃ、オレら行くわ」と3人は病室から出て行った。

『まあ、私のそばにいてもすることないもんな』

それにしても足がキッチキチに包帯か何かで巻かれて痛いし、喉が渇く、呼び出しブザーを鳴らし看護師さんに「喉が渇いたのでお水飲みたいんですけど良いですか?」
と聞くと看護師さんは「手術終わってまだ時間が経ってないので…そうですね……30〜1時間あとなら飲めますよ?それまでは我慢するか口に水を含んで潤す程度ですね」

私 「それで構いません」

すると受け皿と水を持ってきてくれて介助してくれた。
とりあえずの潤い…なんだか天国だと感じる瞬間だった
麻酔が切れてきたのか骨盤辺りがじわじわ痛み出す
しばらくするとまた母が病室に来て「お姉ちゃんも無事終わって今、無菌室に入ってるよ」
そう聞いて安堵した。
見に行きたいけど私も体が思うように動かない、正確には動けはするけどフラフラで歩けないからというのが本当の理由。
夕飯の時間も近いので母たちは家に帰っていった
病院食は味が薄くてあまり食が進まない、わりと好きなものはあったけど疲れすぎてるのもあってか食べれなかった。
食事の後看護師さんが入院期間の確認をしに来た。
「○○さん入院期間4週間いただきたいのですが、本当に一泊2日でいいんですか?体にはかなり負担がかかりますよ?」と心配してくれた。
私も色々調べて知っているけど姉の家計のことを考えると高額医療や、生命保険があるにしても治療にはかなり費用がかかるから負担かけたくなくて「家で療養しますから大丈夫ですよ」
本当は1週間しか休みをもらえなかった仕事をし出すとどうなるかはわからない、上司も上司だから不安がないわけではない。
翌日退院して家に帰り、自室でゆっくり寝ることにした。歩くと息が上がるからだ
リビングのテーブルまで行き椅子に座る、こうしてるだけで早く寝転がりたくなる予想以上のしんどさ、ここで後悔が出る"なんで一泊2日って言っちゃったんだろ……もう1日入院しても良くない?"なんて今更言えないなと思いながら夕食を食べる
話題は姉の骨髄移植について
母「ドナー見つからなかったらどれだけ待たなあかんかったやろ」
弟  「すぐには見つからんやろ、見つかっても完全一致はほとんどないから一項目か二項目合えば良い方でそれでも拒絶反応で助からなかったりするからな」
私 「担当医さんの言った通り、本当に奇跡やね」
母  「あんたがえんかったらお姉ちゃん助からんかったかもやざ」
私  「まだ分からんが、拒絶反応出ないとも限らんよ」
弟  「まあ、そうやな」

良かったから拒絶反応という第二関門の言葉で一気に沈む

私の家族は私の体のことについては取り立てて気を使うことはない。
少なくとも私に対しては昔から我が家はそうだった。

今回も例外ではなかった。
そう、今も変わらない。

ドナー手術を終え、体が思うように動かない時ですら、母と祖母の通院の足になることや買い物など、私が担っていた役割は変わらなかった。

だから私は、せめてゆっくり休もうと思い、6日間は必要最低限のこと以外は寝て過ごした。

手術後の傷ガーゼの取り替え患部に塗り薬は母にしてもらう頼めばしてくれる。そんな家族。
患部は骨盤の真ん中少し上を4箇所にボールペンの先くらいの注射針を刺し骨髄液を抜くらしいが母と弟から聞くと金槌と穴を開けるための道具でカンカン打ちまるで工事してるみたいな手術だったという話に
全然記憶のない私は他人事みたいに聞こえた。
痛みはすっごく痛いというよりじわじわ火傷みたいな痛みくらい
でも、姉を救えた証の痛みではあるが何か実感がない。
臓器を少し渡したとかじゃないからか?
あるのは気だるさと貧血のかなり酷いフラフラ感と歩くと息切れと鈍痛だけ。
そして休みの最終日、やはり買い物に行かないといけないから運転して自分の職場であるスーパーへ母と行く。店に着きカートを押すも重く感じる、なんとか押してえいこらえいこら歩き
すれ違うバイトの子「大丈夫ですか?顔色悪いですよ」
パートのおばさん「休んでなくて良いの?」と言葉をかけてくれる。そんな中後任上司に見つかり「あれ?休みなのに買い物来て大丈夫なの?そんなに元気なら私の代わりに今から出勤してや、もう私腰が痛くて早退したいんや」と言ってきた、さすがの私もこの上司の言葉には人としてどうなんだとカチンときて「すみませんが、買い物連れてくの私しかいないので母も一緒ですし、体もしんどいので無理です、本日まで休みですから」と断った。

翌日から仕事に出て普通にはやれないなと思いつつ働いた
途中、何度も帰りたいと思った。

それでもレジの仕事は多岐にわたる。

案内所とレジを担当しながら、他の人の仕事を割り振る。

レジが混めば自分も入り、ひたすらさばく。

ただ、ドナーの後はかなりきついカートを押すもやっとだからお客様の使って放置したままのを一個ずつ片付け入り口に戻す、カゴも集めて入り口へ戻すのもこの時ばかりは大仕事みたくなる。常連のお客様から「あんた、大丈夫か?フラフラやよ」と声を掛けられる。
私は化粧をするのがめんどいので簡単に口紅と眉墨だけしてるもんだから顔色を誤魔化せない、だから心配させてしまう。お客様はそんな私に気を使いセルフでやってくれたりするようになり凄く助かった。
4週間そんな感じで乗り切りなんとか仕事をこなし徐々に体も回復していった。姉の見舞いもしつつ、姉の体の中で私から渡した骨髄が少しずつ定着し始めてると担当医から聞いた

この時に初めて『命のバトン』が繋がったと実感した瞬間だった。
そして学んだのは看護師も1人の人間、ほんとに命の危機が自分の身に振りかかると言ってはいけない言葉も言ってしまう。母親という立場ならなおさらかもしれない。
看護師も一人の人間だった。

母親も。

上司も。

私も。

余裕がなくなると、

人は誰かの痛みを見落としてしまう。

あの夏、

私はそれを嫌というほど知った。




ここからが姉の闘いの本番が始まる。
第二関門=拒絶反応


(補足)※②

無菌室に家族が入るのも人数が限られている。
母と交代で入るか母メインで入るかしていた。感染症防止の観点から。
姉のリクエストで甘いものや食べたい食事を持っていく、口内炎が出来てなかなか食べれないからゼリーが良いとかポカリスエットなどできる限り。
ただ、姉の子供とは親子面会が叶わないと聞くと切ない気持ちになる。一年近く会ってないから
テレビ電話で話すくらいだと姉から聞いた。姉も会いたいだろうに。
だから辛い過酷な治療にも耐えられたんだなと思う。母は強し。
無菌室に入って3ヶ月すぎた頃、血液が作り出してると朗報が

一般病棟へ移動も近いと姉も喜んでたのも束の間、高熱が2日続いてると見舞いに行ったら看護師に言われて会うのを断念。
冬も近い時期油断はできない
こんな時、何も出来ないのがもどかしくて仕方なかった。
数日後見舞いに行くと熱も下がり安定してると看護師から聞き
母も姉と短い時間だけの面会。
その後も経過観察のため無菌室での生活は続いた。
結局、一般病棟へ移れたのは移植から5ヶ月後だった。
私もまた検診を受けていた。ドナーもまた術後に何か異変がないか調べるためである。

(補足)※③

幸い私は特に異常はなく、軽い貧血くらいのみ。

それから順調に回復していく姉。

骨髄移植から一年経つ頃姉は病院で同じ病の人を何人か見送っていたらしい。
同じ移植手術を受けても拒絶反応で旅立つ人、感染症にかかってしまい旅立つ人、ドナーが見つからず……姉のようなケースは珍しいから羨望の眼差しで見られることも。
でも、患者同士の絆は強く励ましあっていたとか。「自分がもしダメだったらその分生きて」とも言われたりするそうです。

そして退院の日を迎えやっと姉は我が家へ帰ることが出来たわけで、それでも通院は付き物。
1週間に一度検診を受けにいくのが数ヶ月続き
問題なければ2週間に一度になっていった。
姉は「薬の量なんとかならんかなぁ……胃袋水でちゃぷんちゃぷんやから」と冗談混じりに言う

最低一年は拒絶反応を抑制する薬やら何種類かの薬を飲んでると
「薬飲むの飽きる」とかボヤいたり、まあボヤくだけ元気と言うことかもしれない。

だんだん姉の検診の間隔が空き始めて一年が過ぎる頃、やっと「寛解です」と担当医から言われたと姉から母に電話があった。

またまた聞き慣れない言葉『寛解』てなんだい?

ググって見る

【寛解(かんかい)とは、がん(白血病など)の症状や検査データが良くなり、体の中から病気が「見えなくなった状態」のことです】

てことは完治ではないと………
だから再発する可能性もあるんだと初めて知りました。

でも、とりあえずは良くなったということかと本当の意味で姉の勝利を喜んだ。

その日の夕飯は、

我が家にしては少し豪華だった。

誰も大げさには喜ばなかった。

けれど、

母も、

祖母も

姉も、

姉の旦那さんも、

私も、

弟も、

どこかホッとした顔をしていた。

十八ヶ月ぶりに、

家族全員が同じ方向を向いて笑えた夜だった。







【医療補足】

(補足)※ ①骨髄移植を受ける側の年齢基準について
18年前に「40歳までがギリギリ」と言われたのは、姉の病気が特別に難治性だったからではなく、当時の医学界全体の「骨髄移植の年齢制限(適応基準)」が一般的に40歳〜50歳前後とされていたためです。当時の医療技術において、安全に移植を行える限界の年齢がそのあたりでした。

(補足)※②骨髄移植後について
骨髄移植後も無菌室で完全一致の移植であっても必ず行われる「移植後」の点滴プログラムがある。移植直後の1日目、3日目、6日目(場合によっては11日目も)に「メトトレキサート」という抗がん剤を投与します。これは「数週間空けて」ではなく「数日空けて」投与するものですが、投与するたびに姉は強い口内炎やだるさに襲われます。私の骨髄(血液細胞)が姉の体内で無事に増え始める(生着する)までには最低でも3〜4週間かかりますが、完全一致であっても重い合併症が出たり、血液の立ち上がりが遅かったりすると、安全のために3ヶ月近く無菌室に入っていた。

(補足)※③骨髄ドナーについて

骨髄を採取する手術はドナーの体にとっても大きな負担がかかるため、安全を最優先に考えて以下のようなアフターケアが行われるのが一般的です。退院直後の検診(術後1〜2週間)骨髄を採取した腰の傷口のチェック(抜糸など)や、全身麻酔からの回復具合、貧血が改善しているかなどを確認するために、まずは退院後間もなく外来を受診します。定期的な健康チェック(半年〜1年後など)ドナーの体調に長期的な問題が出ていないかを確認するため、半年後や1年後といった節目に、血液検査や問診を行う医療機関が多いです。日本骨髄バンクなどの長期フォロー(※バンク経由の場合)
もし骨髄バンクを介したドナーだった場合は、採取後数年間にわたって〜健康状態のアンケートや確認の連絡が入るシステムが整っています。

※本作中の医療描写は当時(2008〜2010年前後)の体験と記憶をもとに執筆しています。

※記憶を補完するため、現在公開されている医療情報を参考に確認を行っています。

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翔雲 感じた想いを少し分けてもらえたら、 次のしずくを紡ぐ力になります。