公明党の「参院選総括」について思うこと:創価学会は新教学捨て、新たな弘教拡大の大波を

(主に創価学会員の皆さんを対象にした文章です)


24年衆院選(比例区)と比較して約75万票の大幅減

2025年9月13日付『公明新聞』に「第27回参院選 党総括」(以下、党総括)なる文章が掲載されました。
2025年7月に行われた参院選で公明党の獲得議席は選挙区4、比例区4の合計8議席にとどまりました。
「公明党として、この選挙結果は『敗北』であり、痛恨の極みであると認識しています」(党総括)と敗北を認め、その原因を追求し、今後、どのように党再生を図っていくかを示したものです。

党総括自体は非常に前向きな労作だとは思いますが、現象面での根本的な原因が活動家の減少である以上、党単独で総括しても隔靴掻痒(かっかそうよう)の感があります。
問題は創価学会にあるからです。

活動家の減少は獲得票に直結します。

今回、比例区で獲得した521万569票は、22年参院選(比例区)と比較して約97万票、24年衆院選(比例区)と比較して約75万票の大幅減となりました。(党総括)

個人的には3年で100万票近く減少したのにショックを受けました。
ただ、考えてみれば、活動家の中核は創価学会が躍進していた昭和30年代、40年代に入会した皆さんで、そうした方々は最年少でも70歳前後。
多くが70~90代ですから、亡くなられたり、病気をされたり、思うように体が動かなくなったりして活動量が減っていくのは当然のことです(もっとも、これほど急速に減少していくとは思ってもみませんでした)。

歓喜がないと仏法対話も、なかなか進まない

活動家の中核が高齢層ですから、頼む相手も活動家と同世代の方々が多くなります。
党総括にも「特に40代、50代といった現役世代、また10代から30代の若年層においても、党の支持が伸び悩んでいる」とあり、活動家の中核が高齢層であることを裏付けています。

活動家の減少は今後も続きますから、票数・議席の減少も避けられません。
だれしもがわかっていますが、退潮傾向に終止符を打つためには活動家を増やす以外にない。
今一度、弘教拡大の大波を起こし、その中で活動家を育て、新たな人材を獲得していく必要があります。

(ここからが肝心な話です)
ただし、今は新教学という邪義を奉じているゆえに創価学会自体に福運がないし、勢いがない。
組織(法)に約せば、状況に適応した判断ができず、ピントの外れた手しか打てません。

会員(人)に約せば、会員が弘教拡大に立ち上がったとしても、功徳が得られない可能性が高い。
功徳がないと歓喜がわかない。歓喜がないと相手の心に響かないので、仏法対話も、なかなか進みません。

 仏法対話→功徳→歓喜→仏法対話

というサイクルが回っていかないのです。

功徳の体験こそが拡大の起爆剤

池田先生は若き日の蒲田支部の「二月闘争」について次のように語られました。

当時は、草創期であり、学会員が仏法対話に訪れると、無理解や偏見から、罵声を浴びせられたり、塩や水をまかれたりすることさえありました。それでも、もう一軒、もう一軒と、同志は不撓不屈の闘志で折伏に歩き抜きました。困難であればあるほど、信心の炎を燃え上がらせたのです。(中略)
経済苦や病苦などの宿命と悪戦苦闘しながらも、同志は絶対に負けなかった。労苦の中で信心の体験をつかみ、それを生き生きと語っていった。その姿には「負けじ魂」が輝いていた。広布史に輝く金字塔は、目覚めた庶民が打ち立てた不滅の闘争の結晶なのです。(『わが愛する青年に贈る』聖教新聞社、31ページ)

ポイントは「労苦の中で信心の体験をつかみ、それを生き生きと語っていった」です。
功徳の体験こそが拡大の起爆剤になる。功徳の体験、信心の喜びが咲き香る組織でなければ拡大の最前線を担えません。

多年にわたる「危機のマネジメント」で現場は疲れ切っている

ただでさえ、現場の第一線は多年にわたる「危機のマネジメント」で疲れ切っている。
選挙戦での敗北は勝利の何倍も疲労感が残るものです。しかも衆院選、都議選、参院選と続けて負けている。
単なる号令では会員は動かないでしょうし、動いたとしても草創期のような爆発的な拡大は望めません。

しかも謗法そのものの創価学会新教学を抱えている。
会員・組織は新教学に、やる気もモチベーションも、功徳も歓喜も吸い取られています。
「始めは事なきやうにて終にほろびざるは候はず」(1190ページ)ですから、最初は何の影響も感じられないでしょうが、そのうちに会員も組織も何をやってもうまくいかなくなり、しまいには「滅びの道」をたどることになります。

新教学を採用して10年。
いまや「事なきの段階」は過ぎて「何をやってもうまくいかなくなる段階」に入りつつあります。
ひとつの証拠が選挙戦ですが、組織活動に加え、創価学会の誤った選択が会員個人の人生を左右するようになる。
組織を再生させる第一歩が創価学会新教学を捨て去ることです。

富士山の如く、巍々堂々とした創価教学の新しい体系を

私たちの目には日寛教学が天空にそびえる超高層建築だとしたら、創価学会新教学は、そこらへんに捨てられていたゴミと廃材でつくった掘っ立て小屋にしか見えない。
新教学には「不撓不屈の闘志」もないし、「信心の炎」もないし、「負けじ魂」も感じられません。
ゴミでつくった掘っ立て小屋と同様、悪臭を放ち、マイナスの機能を大いに発揮しています。

『報恩抄』には次のようにあります。

糞(ふん)を集めて栴檀(せんだん)となせども焼く時は但糞の香なり、大妄語を集めて仏と・がうすとも但無間大城なり(311ページ)

糞を集めて栴檀と見せかけても、焼いたら糞の臭いしかしない。大ウソを集めて創価学会新教学をつくり、仏(創価学会仏)であると称しても、まもなく正体が露見し、無間大城に堕ちてしまう、と述べられています。
今の創価学会そのものです。

こんな代物(創価学会新教学)は、さっさと捨てて、富士山の如く、巍々堂々(ぎぎどうどう)とした「創価教学」の新しい体系をつくっていきましょう(創価学会新教学に代わる、創価学会の新しい教学体系を「創価教学」と呼ぶことにしました)。
老齢ではありますが、その一翼を担いたい。
日寛教学は何一つ(「富士戒壇論」ですら)捨てる必要はありません。


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