ヨガを教えていて、ケガをさせてしまったら?
――「あのとき私がアジャストしなければ」と、自分を責め続けたインストラクターの話
ここでご紹介するエピソードは、複数の方からのお話をもとに、
個人が特定されないよう再構成したものです。
「パキッ」という音が、今も耳に残っている
ヨガを教えている方なら、一度は想像したことがあるのではないでしょうか。
「もし自分のクラスで、生徒さんがケガをしたら――」
あるインストラクターの方が、レッスン後にぽつりと話してくれました。
「三角のポーズで、少しだけ背中を押したんです。いつもやっている、ほんの軽いアジャストでした。そしたら生徒さんが『あっ』と声を上げて……翌日、『腰が痛くて動けない』と連絡が来ました」
その方は、それからしばらくアジャストができなくなったそうです。
生徒さんに触れるのが怖い。
ポーズを深めてあげたいのに、手が出せない。
「もう教える資格がないんじゃないか」と、何度も思ったと言います。
自分を責め続ける指導者たち
この方だけではありません。
「首を痛めた生徒さんがいて、それ以来、肩立ちのポーズをクラスから外しました」
「膝が悪い方に無理をさせてしまった気がして、ずっと気になっている」
「ケガじゃないけれど、きつい言い方をして泣かせてしまったことがある」
ヨガを教えている方は、基本的にまじめで、誠実な方が多いです。
だからこそ、生徒さんに何かあったとき、自分を激しく責めてしまう。
「あのとき、もっと確認していれば」
「私の知識が足りなかったんだ」
「ポーズを教えることしかできない自分が情けない」
こうした言葉を、私はこれまで何度も聞いてきました。
心理師として見る「自責のループ」
公認心理師として、少しだけ別の角度からお話しさせてください。
ケガをさせてしまったときに自分を責める気持ち、それ自体はとても自然な反応です。相手を大切に思っているからこそ生まれる感情です。
ただ、自責が長く続くと、ある特有のパターンにはまっていきます。
「自分はダメだ」→「でも教え続けなきゃ」→「また何か起きたらどうしよう」→「怖い」→「やっぱり自分はダメだ」
このループは、心理学では「反すう思考」と呼ばれるものに近い状態です。
過去の出来事を何度も頭の中で繰り返し、そのたびに自分を傷つけてしまう。
大事なのは、自分を責めることと、起きたことから学ぶことは、まったく別のプロセスだということです。
自分を責めているあいだ、私たちは実は何も学んでいません。
感情のなかでぐるぐる回っているだけで、次にどうすればいいかという「具体的な行動」にはたどり着けないのです。
ヨーガ療法士として、もう一段深く考えること
ここからは、少し根本的な話をさせてください。
「もっとアジャストの技術を磨けばよかった」「解剖学をもっと勉強しなければ」——ケガのあと、そう思った方は多いと思います。もちろん、それは大切なことです。
でも私は、そこだけで終わってほしくないと思っています。
なぜなら、「ポーズをより正確に直すこと」を目指し続ける限り、不安はなくならないからです。
ヨーガ・スートラが教える「ヨガとは何か」
ヨーガの根本経典、ヨーガ・スートラの冒頭近くに、こんな言葉があります。
योगश्चित्तवृत्तिनिरोधः
Yogaś citta-vṛtti-nirodhaḥ(第1章2節)
「ヨーガとは、心の素の働き(チッタ・ヴリッティ)を止めて滅することである」
ヨガとは何か、という定義そのものです。そして、ここにポーズの話は出てきません。
同じスートラの第2章46節にはこうあります。
स्थिरसुखमासनम्
Sthira-sukham-āsanam(第2章46節)
「アーサナは、安定していて、快適なものでなければならない」
きれいに見えるポーズでも、無理をして作ったポーズはヨガではない。そうスートラは言っています。アーサナ(ポーズ)はヨーガの大切な実践のひとつですが、あくまで心を整えるための「手段のひとつ」です。
ヒマラヤの行者は、きれいなポーズを取らない
私の師匠は、伝統的なヨガを本場ヒマラヤで修行した方です。
その師匠がよく話してくれました。
「ヒマラヤの行者たちは、誰も見ていないから、きれいなポーズを取ろうとはしない。彼らにとってヨガは、険しい山道を師を求めて歩き続けるための、心と体の鍛錬だった」
そう聞いたとき、私は何かがすとんと落ちた気がしました。
ヨガは、ポーズを完成させることが目的ではない。ポーズは、自分の今の心と体に気づくための「窓」なのだ、と。
だから、80歳でも90歳でもヨガはできる
「先生、私、もうこのポーズができないんです」
そう言う生徒さんに、私はよくこう答えます。
「それでいいんです。今の体で、今できることをやるのがヨガですから」
ケガをしても、病気になっても、年を重ねても——ヨガは続けられます。なぜなら、ヨガの本質はポーズの完成度にないからです。
逆に言えば、「ポーズをきれいに直すこと」だけがヨガだとしたら、年を重ねるほどヨガから遠ざかってしまう。80歳・90歳になっても続けられないヨガは、何かが違う。私はそう思っています。
ポーズを直せなかった不安の、本当の正体
あのインストラクターの方が抱えていた不安——「アジャストを失敗した」「ポーズを教えることしかできない自分が情けない」
その不安の根っこには、もしかしたらこんな前提があったかもしれません。
「ヨガとは、正しいポーズを習得させることだ」
でも、スートラが教えていること、ヒマラヤの行者たちが体現していることは、その反対です。
ポーズは手段。目的は、目の前の人が自分の心と体に気づき、より軽やかに生きていくこと。
その視点を持つと、「アジャストの失敗」への向き合い方が変わってきます。技術を磨くことは大切。でも同時に、「そもそも自分はこの人に何を届けたかったのか」という問いを持てるようになる。
それが、ヨーガ療法の入口だと私は思っています。
「ポーズを教える人」から「人に関わる人」へ
RYT200を取得して、ポーズの指導はできるようになった。シークエンスも組める。解剖学も一通り学んだ。
でも、目の前の生徒さんが涙を流したとき、どうすればいいかわからない。「先生、最近つらいんです」と言われたとき、何を返せばいいかわからない。
そういう「わからない」に気づけたこと自体が、指導者として大きな一歩だと私は思っています。
ヨーガ療法は、ポーズの指導だけではありません。目の前の人の身体と心の状態を見立て、対話し、その人の「今」に合った関わり方を考える。
「ケガをさせてしまった」という経験は、つらいものです。でもその経験が、ヨガの本質に気づくきっかけになることがある。
ヨガを教えているのに自信がない。ポーズ以外に、何を学べばいいかわからない。そんなふうに感じているなら、それは「ここから先」に進む準備ができているサインなのかもしれません。
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