「マモンの楽園」第2話
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次の日、僕はクラスのHRが終わると同時に我先にと教室を出て、秘密基地に向かった。
小屋の扉を開けると、そこには既にワタルの姿があった。
「もう来てたの?」
「ああ。入り浸って悪いな」
筆を止めることなく、ワタルは言う。
と、そこで僕は、ワタルの服装が昨日と全く変わっていないことに気づいた。そんな僕の視線に気づいたのか、ワタルが微笑する。
「学校、サボることにしたんだ。幸い今までも何度かやってきたし、バレねーだろ」
「……家には帰ったの?」
「いや。友達の家に泊まるって電話した」
つまりこの小屋で夜を過ごし、そのまま今に至るというわけだ。
ワタルは自覚しているのだろうか。その声は昨日よりも小さくなっており、その目は昨日よりも虚ろになっていた。
止めた方がいいんじゃないか。そんな気持ちがないと言えば嘘になる。
でも、同じマモンだから理解できた。ここで僕が止めたらワタルは激怒するだろう。
「悪い、そこの眼鏡取ってもらってもいいか?」
ワタルがテーブルの上に置かれた眼鏡ケースを指さす。
「眼鏡なんてつけてたっけ?」
「視力が急に落ちてきたんだ。視野も狭くなってるから、顔を近づけなきゃ上手く描けねー」
眼鏡を受け取ったワタルは、それをつけて顔をキャンバスに近づけた。
「結構、キツいな。ちょっと前までできていたことが、次々とできなくなるってのは」
ワタルは少し苛ついているようだった。
しかし、すぐに感情が表に出ていたことを自覚し、気まずい顔をする。
「悪い。余計なこと言っちまった」
「いや、勉強になるよ。僕もいつかそうなるんだし」
「はは! やっぱりカズキは強いなぁ」
強いのは僕じゃなくてワタルだ。
恐怖と苦痛の中で、それだけ笑えて、周りに気を使えるなんて。僕には到底できそうもない。
ワタルが通った道は、いつか必ず僕も通ることになる。
その、いつかが訪れた時の僕は、果たして今よりも成長できているだろうか。
「ユズたちがまだ来てないけど、食事を買ってくるよ」
「頼む。今日も肉が食いてーな」
任せて、と言って僕は外に出た。
貯金が残り少なくなってきたので、スマートフォンで「マモン スーパー」と検索する。三駅離れたところに、マモンなら千円割引されるスーパーがあるらしい。時間はかかるが、マモンなら交通費が不要なのでその店へ向かう。
惣菜コーナーで肉類をまとめて買った。ワタルが好きなのはこってりした味付けで、チキン南蛮とか、豚カツとかだ。消化器の機能は間違いなく低下しているはずだが、それでも好きなものを食べて活力を得たいらしい。
「いらっしゃいませ」
惣菜を入れた籠をレジで出す。
「お会計は――」
「これでお願いします」
左手首の腕輪を見せると、レジ打ちをしていた女性はぎょっとした。
「……はい。分かりました」
気の毒な奴を見るような目で見られるが、今はそういう些事に構っている暇はなかった。
すぐにまた基地へ戻る。小屋の扉を開けると、ユズとアイカの姿もあった。
「お待たせ。一応、皆の分も買ってきたけど」
「やった! ワタル君、一緒に食べていい!?」
「そりゃ勿論」
四人分の紙皿と割り箸を出し、各々好きなタイミングで食事ができるようにする。
「今日は僕も残るよ」
「じゃあ私も残ろっかな」
僕とユズがそう言うと、ワタルは筆を止めてこちらを向いた。
「お前ら、そんな簡単に決めていいのかよ?」
「大丈夫。僕の親は放任主義だから」
「私も。あんまり興味を持たれてない感じだから」
ユズもそうだったとは知らず驚いたが、別に変な話ではない。
十八歳までしか生きられない僕らに、全力で愛情を注いでくれる親はどのくらいいるだろう。最初は優しくても、次第に周りの目を気にして疲れてくるのだ。
「そっか。皆も大変なんだな」
そう言って、ワタルはまた絵を描き始めた。
椅子の上でじっと黙っているアイカに視線を向ける。
「アイカはどうする?」
「……ごめんなさい。私は難しいかも」
「仕方ないよ。暗くなる前に帰った方がいい」
アイカは申し訳なさそうに顔を伏せた。
気持ちは分かるが、罪悪感を覚える必要はない。
「親が心配してくれるのは、幸せなことだよ」
アイカは家族から愛情を注がれていることを僕は知っていた。なら、それは何よりも大事にするべきものだと思う。僕らは別に、家族との関係に罅を入れてでもここに残ると言っているわけではない。僕らは最初から罅が入っているから問題ないのだ。
「あ! 私、着替えだけ取ってくるね!」
ユズが立ち上がる。
アイカが小屋から出やすくなるように気を使ったのかもしれない。その気遣いを察してか、アイカもそれ以上は悩むことなく「また明日」と言ってユズと共に小屋を去った。
二人きりになった小屋で、僕はワタルを見つめた。
一生懸命、絵を描いている。まるで自分の中から魂を絞り出して、それをキャンバスにぶつけるかのように。
「ワタル」
静かに、僕は声をかけた。
「前に見せてくれたハンカチの汚れ。本当は絵の具じゃなくて、血なんだよね?」
「……バレたか」
ワタルは小さく笑った。
最初にアイカが気づいた、あのハンカチについた赤い汚れ。あれは絵の具ではなく、アイカが予想した通りの血だった。
ただしそれは、ワタルの血だ。
ワタルの身体は、あの頃からとっくに限界を迎えていたのだ。
「頑張れ、ワタル」
「ああ。頑張るさ」
僕はワタルから目を逸らさなかった。
その大きな背中を、一分一秒でも長く目に焼き付けるために。
◆
扉の隙間から差し込む朝日が、僕の目を覚ました。
全身が痛い。寝る時は床に毛布を敷いておこうと決めていたが、完全に忘れていた。ワタルが寝るまでは自分も寝ないつもりだったのに、いつの間にか眠ってしまった。
すぐ隣では、ユズが静かに寝息を立てていた。
そして目の前の椅子にはワタルが腰掛けている。昨晩と全く同じ、変わらない姿勢でキャンバスを見つめていた。
「ワタル?」
声をかけても反応がない。
寝ているのだろうか。
僕は身体を少し傾け、ワタルの正面に立てかけられているキャンバスを見た。
美しい絵だった。
公園で生きる動物と虫と植物が、細部まで拘りをもって描かれていた。芸術に詳しくない僕の目には掛け値なしに優れた一枚のように感じる。
「ワタル、完成したんだね」
もう一度、声をかけてみる。
しかし返事はない。
嫌な予感がした。眠気と同時に血の気もサッと引く。
すぐに立ち上がった僕は、椅子に座っているワタルの身体を正面から見た。
服もジーンズも真っ赤に染まっていた。口元に血の垂れた跡が残っている。吐血を止められなかったから、放置して絵を描き続けたのだろう。ワタルがはいていたジーンズは鮮やかな青色だったが、今はほとんどが赤黒い色に染まっている。
テーブルには薬が散らばっている。一通り飲んだが、それでも血は止まらなかったようだ。
「ワタル!!」
思わずワタルの身体を掴んで叫んだ。
ワタルの身体はゾッとするほど冷たかった。生き物に触っているというより、ぶよぶよのゴムに触っているかのような感覚だ。理性ではなく本能が、これは人ではなく物なのだと錯覚してしまうような気分だった。
「カズキ君、どうしたの!?」
「ワタルが! 目を覚まさない!!」
僕の叫び声を聞いて起きたユズが、ワタルの姿を見て絶句する。
だが泣いている暇はないし、混乱している暇もない。
「ユズ、腕輪の通報機能を使ってくれ! 後で一緒にワタルを外へ運び出そう!」
「分かった! カズキ君は!?」
僕はスマートフォンを取り出した。
もしかすると、二の次にするべきことかもしれないけど――。
「僕は、この絵をコンテストに送る……!」
以前、ワタルは締め切りがギリギリだと言っていた。絵を郵送する時間のことも考えると、一分一秒を争うかもしれない。
もし、ここまで必死に描いた絵が、締め切りに間に合わなかったという下らない理由でコンテストに参加できなければ……僕ならマモンとしての死を迎える前に、舌を噛み千切って自ら死ぬ。そんな思いをワタルには絶対にさせたくない。
「ワタルの大事なものだ。絶対に、届けないと……!」
脳裏で、ワタルとの日々を思い出した。
この男の覚悟を無駄にするわけにはいかない。
涙で視界が滲む中、僕は手続きを始めた。
◆
それから、一ヶ月以上の時が経った。
あれから僕らは、放課後になると秘密基地には通わず、隣町の病院へ通うようにしている。
病室の中央で、ワタルは静かに眠っていた。
幸いワタルはまだ死んでいない。しかし、いっこうに目を覚まさなかった。
「今日も、目を覚まさなかったね」
「うん」
黙って眠るワタルの顔を見ていると、アイカの瞳がじわりと涙に潤んだ。
ワタルの入院が決まった日、アイカは「自分も秘密基地に残ればよかった」と激しく後悔していた。あの時、あの場にもう一人いれば、二人が眠っていても誰かがワタルのことを見ていられたかもしれない。そしたらこの状況を避けられたかもしれない。そう思っていた。
でも僕は、悲しくは感じていても、後悔という感情はさほどなかった。
何故ならワタルは成し遂げてみせた。
ワタルは凄い奴だ。僕の想像の何倍も凄い奴だ。でもそんなワタルですらマモンの運命には抗えなかった。ワタルもそれを分かっていたのだろう、僕らはこの運命には抗えないのだと。
だからワタルは残そうとしたのだ、自分が生きていた証を。
そしてその絵は完成した。根拠はないけれど確信がある。あの絵は間違いなく完成したものだった。僕はあの絵からワタルの魂を感じた。まるで、肉体からあの絵に乗り移ったかのように。
「目を覚ましたら、コンテストの結果は教えた方がいいのかな」
眠るワタルを見つめながら、アイカが呟く。
「ワタルが訊いてきたら答えよう」
絶対に、開口一番に訊いてくるはずだ。
そんなことは分かっている。
「私たちも、すぐにこうなるんだね」
そんなユズの言葉に、僕らは何も言えなかった。
僕は卑怯だ。ワタルが起きていた頃は、自分も覚悟ができているみたいに装っていたくせに……いざこの光景を目の当たりにすると足が竦んでしまった。
死ぬのは、やっぱり怖い。
こんな僕の心を果たしてワタルは見抜いていたのだろうか。
結局、僕は強くもなんともない、ただのマモンだ。人である以前にマモンなのだ。
その時、病室の扉が開いた。
扉の向こうからやって来たのは、スーツ姿の女性。
ワタルの母だ。
「貴方たち……」
ワタルの母は、僕らを見て目を細めた。
僕らは無言で会釈して、立ち去ろうとする。しかしワタルの母は僕らが素通りするのを許さなかった。
「貴方たちが、ワタルに無茶させたんじゃないの?」
人を人と思わない、冷たい発言だった。
僕は耐えた。アイカも辛うじて涙を堪えた。
でもユズは爆発した。
「そんなことない! 私たちはワタルと友達で、分かり合えていた!」
「否定の言葉になってないわよ。同じマモンだったら何をしてもいいの?」
ワタルの母は、僕の手首についている腕輪を見て言った。
普通の人はマモンを見たら同情する。その点、マモンを生んだワタルの母は当事者側の人間だから同情はしなかった。ただし代わりに抱く感情がいいものとは限らず、ワタルの母は露骨に僕を面倒臭がっていた。
「仮に、ワタル自身が無茶をしたがっていたら、どうすればよかったんですか?」
僕はワタルの母に訊いた。
「止めればいいに決まってるでしょ」
「どうしてですか?」
「どうして?」
そんなことすら分からないのか、とでも言わんばかりの視線に貫かれる。
ワタルの母は、あからさまに僕を蔑むような目で答えた。
「マモンは寿命が短いんだから、せめて少しでも長く生きたいでしょ?」
その返事を聞いて、僕は悟った。
ああ、この人は理解していないんだ。
僕たちマモンのことを。息子であるワタルのことを――。
「カズキ……お前は何も、悪くないぜ……」
ベッドの方から声が聞こえた。
その声は、僕らがずっと聞きたかったものだ。
「ワタル!!」
ワタルの母を押しのけ、僕らはベッドに駆け寄った。
一ヶ月以上、ぴくりとも動かなかったワタルの顔が、ゆっくりこちらを向く。
ワタルだ。
僕たちの仲間――ワタルだ!
「なあ……コンテストの、結果は……どうだった……?」
やっぱりワタルは真っ先に訊いてきた。
でも、一瞬の気の緩みがそうさせたのか、僕らはその問いかけに対する覚悟を失ってしまった。
言い淀む僕らの反応を見て、ワタルが察する。
「ああ、そっか。……駄目だったのか、俺」
僕は頷くことすらできなかった。
ワタルが送った絵は、どの賞にも入選しなかった。
自分が生きていた証を残したい。そのためにコンテストで入選し、自分の絵を展示したい。……そんなワタルの夢は、叶わなかった。
「そんな目、すんなよ。俺は、満足してる」
ワタルが僕たちを見て言った。
「こんな短い人生でも……何かに向かって、全力で挑戦できたんだ。……ありがたい話さ」
きっと、多くの人はたとえ百年生きることができても、何かに向かって全力で挑戦することはないだろう。
だからワタルは偉大だった。ワタルはやっぱり凄い奴だった。
凄い奴だから……報われてほしかった。
「最後に、正々堂々と勝負できてよかった。すっげー悔しいけど……それでも、悔いはない」
悔しいけど悔いはない。矛盾していそうな言葉だったが、ワタルの胸中ではその二つの感情がちゃんと独立していることが伝わった。
瞼から涙が落ちそうだったので、全力で堪える。
だって、ワタルが笑って見送ってほしそうな顔をしているから。
「先に行くぜ……お前らのおかげで、最後まで楽しかったよ」
「ああ……僕らもすぐに、そっちへ行くよ」
笑え。――笑え。泣いちゃ駄目だ。
これは悲しいことではない。ワタルは今、マモンの天寿を全うするだけなのだから。ワタルはマモンとして、精一杯、悔いのない人生を生きたのだから。
だから笑え。
ワタルの人生を、最後の一瞬まで肯定してみせろ。
歯を食いしばって涙を堪える。
そんな僕の顔を見て、ワタルは優しく微笑んだ。
「こんなふうに死ねるなら……マモンも、悪くねーなぁ……」
ワタルは目を閉じた。
その目が開かれることは、もう二度となかった。
◆
半月後。
僕らはワタルの葬式に参加することができた。ワタルの父が招待してくれたのだ。
ワタルの母は嫌そうな顔をしていたが、僕らも喧嘩がしたいわけではない。焼香を済ませた僕らは、その後の会食には参加せず速やかに帰路へついた。
それから更に一ヶ月後。
僕らは駅前に集合した。
「じゃあ、行こっか」
「うん。ワタルの代わりに、僕らで見届けよう」
僕らは大きな美術館に入った。
ワタルが参加したコンテストの入選作が、今日からこの美術館に展示される。美術館を訪れたのは初めてで、格式高そうな内装に少し鼻白んだ。ここにワタルの絵が展示されていたかもしれないと思うと一層緊張した。
「うわ、すっごい綺麗。これ、本当に同い年が描いてるの?」
展示されている絵画を見て、ユズはすっかり魅入っていた。展示品は絵画だけでなく立体作品や書道の作品もあった。
時折、展示されている絵画を見て「これならワタルの方が上手かったのでは?」と思うこともあったが、決して口には出さなかった。ワタルがそれを聞いたら絶対に「余計なお世話だ」と言ってくるだろうから。
ワタルは最後に清々しい顔で死んでいった。
入選しなかったのは悔しかっただろうけど、同時に自分よりも優れた画家がたくさんいたことを知って嬉しかったのだろう。なら僕も、そんなワタルの意思を尊重する。
ここにある絵は全て素晴らしいものだ。
なにせ、命を削ったワタルの絵を越えたものなのだから。
そう、思っていたのに――――。
「――え?」
思わず、呼吸を忘れた。
突き当たりに飾られた一枚の絵、それを見て僕たちは足を止める。
「カズキ君、あの絵って」
ユズが、信じられないものを見るような目でその絵を見つめていた。アイカに至っては言葉を出すことすらできず、ただ棒立ちになって震えている。
「なんで」
鼓動が早くなった。
頭の中が、真っ白に染まる。
「なんで……ワタルの絵が、飾られてるんだよ」
ワタルの作品は入選していなかったはずだ。僕とユズとアイカが、何度も確かめたから間違いない。
でも、目の前に展示されているのは紛れもなくワタルの絵だった。あの公園の生き物を表現していた油絵だった。
呼吸が荒れる。手足が震える。
吐き気を堪えながら、僕はワタルの絵に近づいた。
額縁の下に、絵の説明があった。
――特別展示品。
――落合ワタル『陽だまり』。
タイトルの下に、何故この絵が展示されているのか、その理由が細かく記されていた。今回のコンテストにマモンであるワタルが参加してくれたこと。そのワタルの遺作がこの絵画であること。そして、命を削ってまでこの絵を描いてくれたワタルに審査員たちが感銘を受け、特別に展示すると決めたこと。
「見て、これ。マモンが描いたらしいわよ」
「命をかけただけあって、綺麗な絵だな」
「可哀想に、マモンじゃなかったらまだ可能性があったのに」
「最後に描いた絵が展示されたんだ。きっと満足しているだろう」
見物客たちが、口々にワタルの絵を評価する。
僕は展示されているワタルの絵を見て涙を流した。
ワタルの前では必死に堪えていた涙が、頬を伝って床に落ちる。
それは決して、審査員たちに対する感謝の涙ではない。
「これで、この絵を描いた子も報われるわね」
そんな発言が聞こえた瞬間、僕は拳を強く握り締めた。
「ふざけるな」
震えた声が、口から零れた。
周りにいた人たちが振り返り、僕の顔を見て後退る。
涙で顔をぐしゃぐしゃにした僕は、叫んだ。
「ふざけるな! これを外せ!!」
見物客たちを押しのけ、僕は額縁を外そうとした。
すぐに近くにいた警備員たちが駆けつけてくる。
「そこの君、何をしている!! 絵に触れるな!!」
「いいからこの絵を外せ!!」
警備員が僕の肩を掴んだが、僕も額縁を掴み続けた。
この絵を外すまで、僕は絶対にここを離れない。
「ワタルは、正々堂々と勝負できたって言ってたんだ!」
泣きながら叫ぶ。
「満足したって、言ってたんだ!!」
ワタルが言っていたことを思い出す。
「なのに、お前らは、勝手にこれじゃあ駄目だと思い込んで……ワタルが幸せじゃないと決めつけて……ッ!!」
涙が止まらない。
「ふざけんなッ!! ワタルの誇りを汚すなッ!!」
いつだってそうだ。
僕らは同情されている。
こいつは幸せにはなれないんだと思われている。
何もかも余計なお世話だった。
お前たちがそうやって一方的な施しをする度に、僕らは惨めな気持ちになる。マモンは自力で幸せになることはできないのだと、上から押さえつけられているような気分になる。
お前たちは、何なんだ?
普通の人って、そんなに偉いのか?
生きている間は腫れ物のように扱って話そうとしないくせに、死んだら急に理解者を装い、気持ちを代弁したがる。
化け物だ。
僕たちマモンにとって、普通の人は――化け物だ。
「おい! その子供、マモンだ! 怪我させるな!」
「え!? ……あ」
警備員が僕の左手首を見て、距離を取った。
普通の人がマモンを怪我させたら批判される。弱い者虐めをしたとみなされる。
「くそ……くそォ……ッ!!」
誰も僕を止めなかった。
ただ、遠巻きに見ているだけだった。
孤独な空気が、僕の心に覚悟を刻んだ。
僕は――――普通の人と戦い続ける。
ワタルのために、マモンのために。この空気に抗い続けることが自分の宿命なんだと思った。
額縁は金属か何かで留められているのか、どうしても外れない。
ガリガリ、ガリガリ、と額縁を引っ掻く爪の音だけが聞こえた。
◆
美術館の騒動は、最終的に警察がやって来るほどのものとなった。
ワタルの絵を展示する許可を出したのは、ワタルの母だったらしい。勿論それは善意によるものだが、だからこそカズキの主張とは決して相容れないものだった。
口論は夜まで続いたのでひとまず一度解散となり、アイカは家に帰ってきた。
カズキの叫び声は今も耳にこびりついている。
カズキとは中学時代からの知り合いだが、彼があそこまで感情を露わにする姿を見たのは初めてだった。
「ただいま」
「あら、おかえりアイカ」
キッチンで夕食を作っていた母がこちらを見る。
スパイスの香りがした。今日は母特製のスパイスカレーのようだ。
「カズキ君は元気だった?」
「うん。元気、だったよ」
母には今日の予定を伝えてある。
カズキは元気ではあったと思う。あんなことさえなければ、きっと今日という一日は素敵なままだったに違いない。
アイカとしては、カズキの味方でありたいと思っていた。
でも時折、どうしても理解が追いつかないことがある。
ワタルの母が「マモンは寿命が短いんだから、せめて少しでも長く生きたいでしょ」と言った時、カズキはきっと心の中で否定していたが、アイカはワタルの母と同じ意見を持っていた。
ワタルの絵が特別に展示されていたのを知った時、カズキはそれをワタルに対する侮辱だと主張したが、アイカは審査員たちの優しさに普通に感動していた。
アイカはカズキの味方でありたいと思っていた。
だからこそ、カズキの前では心の内を吐き出せないことが多い。
私たちの配慮は、彼らにとっての善意とは限らない。
それは、受け入れるにはあまりにも酷な事実で――。
「最近、マモン関係のニュースが多いわね」
キッチンに立つ母が、テレビを見ながら呟いた。
「こんなこと言うのもなんだけど、あんたを健康な身体に生めてよかったわ」
母の呟きにどう反応したらいいか分からず、アイカは小さく「そうだね」と相槌を打った。
鞄の中にある銀色の腕輪が、カチャリと音を立てたような気がした。
〈1章・完〉
