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国家という発明の終わり方

 国とは、いったい何でしょうか?

 僕たちは当たり前のように「日本人」、「アメリカ人」、「〇〇国民」と名乗り、生まれた場所やパスポートの色で、自分自身の輪郭を定義してきました。
 ですが、冷静に考えてみれば、国とは物理的な存在ではありません。地図に線が引いてあるわけでもなく、空から見ても国境は見えません。

 国とは、ほとんどの場合「人々のあいだの約束事」でしかありません。

 この約束事のもとで、僕たちは税金を払い、法律を守り、時に命を懸けて戦います。
 しかし、それはよく考えてみると、実に不思議なことです。
 なぜ見えない線に従うのか。なぜ、その線のために争うのか。

 実のところ、国家はよくできた「発明」だったのだと思います。

 それは、単なる境界線ではありません。
 秩序を生み、役割を分け、責任と権利を定義し、大勢の他人を「同じ側」にまとめる仕組みだったわけです。
 その効果は絶大で、人類は国家という単位によって、安全を守り、経済を発展させ、文化を育て、科学技術を進めてきました。

 国家は、ある意味で「人類最大級のソーシャルシステム」でした。

 しかし、一方で、それは衝突も生んでいます。
 国と国の間には、見える、見えないに関わらず必ず線があり、線のこちらと向こうで、正義やルール、価値観が分かれます。
 片方の正義は、もう片方の悪になる。
 国家とは「内側の平和」と引き換えに、「外側との緊張」を生む仕組みでもあったわけです。

 今、僕たちはその仕組みの限界が見え始めた時代に生きているような気がします。

 インターネットは国境を簡単に飛び越え、ビジネスは国に縛られず、友人や仲間は世界中に散らばっています。
 誰かと深くつながるのに、必ずしも同じ国にいる必要はなくなりました。
 むしろ「同じ国」よりも「同じ関心」、「同じ価値観」、「同じ問題意識」で人が集まるようになってきています。

 このとき、ふと疑問が浮かびます。

国家は、これからも必要なのだろうか?

 もちろん、いきなり消えることはありません。
 国家は今もなお、法律を作り、インフラを整え、治安を守り、災害から人々を救っていて、その役割は、極めて現実的で重要です。

 しかし同時に、その機能の多くは、国家以外の場所へも移り始めている。

経済は企業が動かし、
医療は国境なき組織が支え、
教育はインターネットが広げ、
通貨はデジタル空間へと移動している。

 かつて国家が一手に引き受けていた機能が、分散し、分解され、別の仕組みによって代替されつつあります。
 国という「大きな入れ物」が担っていた役割が、少しずつ外に流れ出しているように見えます。

 もし国家が「機能の集合体」だとするならば、その機能が外に移動してしまったとき、後に残った「国」は何なのだろうか?

 ひとつの可能性は、国家が消えるのではなく、「役割を終える」というかたちです。昔の発明品のように。

 例えば、タイプライターは消えたのではなく、役割を終えました。
 馬車は消えたのではなく、役割を終えました。
 そして、それらの役割は、より効率的な新しい仕組みに引き継がれていっています。

 もしかすると国家も、そういう「発明」の一つなのかもしれません。

 人類がまだ幼く、情報も移動手段も限られていた時代には、国家という単位が必要でした。
 しかし、世界がつながり、技術が進み、人類が成熟していくなかで、「国家」という枠組みは、だんだんと役割を終えていくのではないか…?

 それは突然ではなく、ゆっくりと、静かに進む。

 国という言葉は残っていても、その意味は変わっていく。
 支配ではなく、管理ではなく、アイデンティティでもなく、
 ただの「行政単位」や「歴史的枠組み」になっていく。

 あるいは、もっとラディカルな未来もあるかもしれない。

 人はもう国籍ではなく、「どんな思想を持つか」「何を大切にして生きるか」、「どんな未来を望むか」で結びつくようになる。そこには線も、旗も、国歌もない。ただ、選び取った価値があるだけなのかもしれません。
(ジョン・レノンのイマジンみたいですね…w)

 それは少し怖くもあり、同時に、とても自由でもあります。

国家の終わりは、必ずしも「崩壊」ではなく、むしろ「卒業」に近いのかもしれない

 そんなことがふと頭に浮かびます。

 人類が、かつて必要とした杖を手放し、自分の足で立ち始めるような、そんな、静かな終わり方なのかもしれません。

 そしてもしかすると、僕たちは今、まさにその入口に立っているのかもしれません。

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