格闘マンガの修羅道化もしくはヴァルハラ化
死んでも死なない世界
これもう豊満ビデオだろ
刃牙らへん最新巻を読んで改めて思ったのはこれはキャラクターにとっての彼岸だということだ。花山とジャックが相手の技を堪能し合い、褒め合う濃厚な慰撫合戦がねっとりと描かれていた。まるで熟年ホモセだよ。
この、「どっちもどうせ死なないやろなぁ……」という「まったりとした死闘」が象徴するように、キャラクターが読者や作者、そして登場人物同士も友達化した結果、おいそれと死なせることが出来なくったことで不死ながら死闘を演じるという矛盾した状況は長期連載(トンチキ)格闘漫画の宿命である。仮にこれをヴァルハラ現象と名付けたい。



戦士達の楽園
ちなみにヴァルハラとは北欧神話における死後の世界。ベッドでの死ではなく戦いの中で果てた戦士の魂エインヘリャル達が住む主神オーディンの館のことで、昼は命を懸けて闘い、夜は傷ついた肉体を癒す宴会をするという脳筋パラダイス。かたや修羅道というのは競争心や嫉妬心に駆られたアシュラたちが無限の争いを繰り広げる一種の苦界であり、前者とやってることは同じだがそれを苦しみと捉えているのが仏教由来らしくて面白い。

減衰し続ける死の匂い
刃牙にしてもタフにしても初期においては闘いの中でどうしても避けられない「死」や「身体障碍」そして「老い」について真剣にとらえていてそれが作品に深みを与えていた。花山薫の故障はもはや回復不能で、愚地独歩はみずからのピークを見据えていた。(タフにおいてはもっと地に足のついた故障者の介護という問題にまで踏み込んでいた。)
この濃厚な死の匂いがヒリヒリとした緊張感を読者に与える。ところが巻数が進むごとにメインキャラクターとして成長し、人気が出るにつれおいそれと退場させられない存在になってしまう。骨折くらいはすぐに治ってしまい、さすがに死ぬだろという傷を負っても数巻後にはケロリとしている。人気キャラは神の加護によって守られるのだ。
徳川みっちゃんの姉ちゃんって占いババだよね
それはおそらく作者(ここでは板垣先生を想定しています)も自覚していて、闘いにおいて得た傷跡は律儀に描き続けたり、最近のシリーズではメインキャラクターの身体を欠損させたり、死亡させたりと死の匂いを取り戻そうとしている。しかしそれは成功しているとはいいがたく、皮肉にも死の重さの減衰を加速させてしまった感がある。そもそも武蔵を死の世界から復活させた時点でドラゴンボール並に死の意味が軽くなってしまったし、烈は(スピンオフではありますが)異世界で活躍している。欠損に関しては「競技的な意味でいいハンデ」として描写されるに至る。


私は人間と世界に飽き果ててしまったので
長期連載の弊害として否定的なトーンになってしまったが自分としてはむしろこれを楽しみたくてこの種のトンチキ格闘マンガを嗜好してるところがある。奇怪な人物によって繰り出される異様な技で人体が破壊されていく地獄であり楽園でもある世界が観たい!このようなアンモラルな欲望を満たしてくれるのが格闘漫画の本質なのだ。そして絶対的な法則に支配されている不可逆で無慈悲な現実というものに対する抗議として物語は存在している。不死の戦士と友達になり別世界を感じることが苦しみに満ちいつか終わるつまらぬこの世に対するささやかな抵抗となるのだ。
