見出し画像

カルヴァン『キリスト教綱要』を読む・第1篇第2章

サブタイトル:神を認識するとはどういうことか。そして神認識はいかなる目的を目指すのか。

(大要)

 神を知るということは、単に神の存在を知覚するということだけではなく、神を知ることが我々に関わっており、それは神の栄光のために役立ち、最終的には我々の益となることをわきまえることである。ここで筆者は、特別な知識、すなわち、堕落した人間が仲保者キリストにおいて神を贖い主(←下記注参照)として把握すること(←要するに、新約聖書的な神の知識)については、まだ触れていないと警句を発する。ただ、初歩的な知識、すなわち、アダムがもし完全なままでとどまっていたとすれば(つまり、禁断の果実をかじっていなければ)、自然の純正な秩序が我々を導いていたはずの知識についていっているのであるとする。(←新約聖書的な神の知識ではなく、旧約聖書的な神認識についていっているといっている。)

 我々の精神は、神に何らかの礼拝を捧げていないと神を理解できない。しかし、ただ漫然と礼拝を続けていてもだめである。我々は、自らの崇める神が一切の善の源泉であり、神以外の者からは何事も求めるべきでないということを同時に確信していなければならない。ここで、筆者の神理解が披露される。すなわち、「神はひとたびこの世界を造り、無限の力でもってこれを支え、知恵をもって治め、慈しみをもって守り、分けても人類を正義と公正によって支配し、憐れみをもってその咎を忍び(つまり、私たちが悪いことをしても一生懸命堪えてくれる)、加護のもとに庇っておられるだけでなく、知恵と光にせよ、義にせよ、力にせよ、公正にせよ、あるいは純正なる真実にせよ、そのただ一ミリといえども、神に由来せず神を原因としないものは何一つ見出せないということである。(ダンテ『神曲』の最後の、「すべての原動であり原因であるところの神」といったところだろう。)

 かくして、我々は、これら一切のものを神から期待し、神に求めることを学び、さらに我々の受けたものを神に帰し、感謝を捧げるのである。なぜならば、神の力についてのこの感覚こそが、我々にとっては「敬虔」の適切な教師であり、その敬虔から宗教は生まれるからである。敬虔とは、神の慈しみについての知識によって成立する、敬いに結びついた神への愛のことである。

 ゆえに神を知る目的は、第一に、神への恐れ敬いを学び、第二に、我々がそれに教え導かれて、すべての善きものを神に求め、受けたものを神に帰するように学ぶことでなければならない。

 神のことを正しく認識していれば、神があらゆる事物を調整していることを知っていることになる。だから、神を自分の保護者、また守護者として信頼し、神の真実に一切を委ねることになる。

 また、神が一切の善の創始者であることを知っていることになるので、悩みが襲い、窮迫が迫るなら、直ちに神からの助けを期待して、神の砦の内に立ち戻るのである。

 また、神の慈しみと憐れみを確信しているのであるから、堅き信頼をもって神のうちに安らぎ、あらゆる逆境中にあっても、常に神の寛容のうちに救いが備えられていることを疑わないのである。

 また、神が主であり父であると知っているのであるから、すべてのことにおいて神の主権を考慮し、その尊厳を敬い、その栄光の増し加わるために心を配り、その戒めを守らずにはいられなくなるのである。

 そして、神が義なる審判者であり、冒瀆者を罰すべき峻厳さを備えているのを見るのであるから、常に神の裁きの座を眼前に置き、神への恐れによって自らを制し、慎み、怒りを招かないようにするのである。

注)
贖い主:贖い主(あがないぬし)という言葉について、ご存知の方もあろうかと思いますが、注というか、私の理解を書き記しておきたいと思います。

「贖う」は、「買い戻す」という意味です。それから、「身代金を払って人質や捕虜を取り戻す」という意味があります。そこから、「イエス・キリストは、自らを犠牲に捧げることによって(つまり、自らを身代金として引き渡す)、原罪によって罪にとらわれていた人類をまた神の世界に取り戻す」という意味になります。だから、イエス・キリストは、贖い主なのですね。


いいなと思ったら応援しよう!