カルヴァン『キリスト教綱要』を読む・第1篇第3章

サブタイトル:神についての知識は、人間の精神の内に生来入れられている。

カルヴァンは、「人間の精神の内に、自然的衝動ともいうべき神的なものへの感覚が具わっていることを、我々は議論の余地なきものとして確認する」という。どうして、人間の精神の内に神的なものへの感覚が具わっているとわかるのか? 筆者はこう説明する。神ご自身が自らの神々しさについてのある悟りを、万人の内に生じさせ、その記憶を絶えることなく更新すべく、繰り返して新たな滴をしたたらせたもうたからだ、と。あまり証明になっていないような気がするが、まあ、そういうこととして読み進めていこう。たぶん、アダムとイヴがまだ神に従っていた時代に、人類はみな神を受け入れ、尊崇していて、それが、アダムが禁断の果実をかじったことによって、人類が楽園から追放されて、人類は堕落して地に落ちてしまったが、それでも、神は人類が神の偉大さを忘れないように、適宜思い出させるようにしてきたということなのだろうか。そして、神の「滴」というのが、あとのほうを読むと、「良心」なのではないかという気がしてくる。

そして、カルヴァンは、我々の神に対する意識は根強く、逃れたがたい本質をもっているという。だから、それから目をそむけるのではなく、それを追求しようとすることこそが、人間の人生の本質であり意味だという。神について学んでいくことが、被造物として人生を意味あるものにする道だという。


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