四つの水たまり
私の傘は、折りたたみです。
カバンの外ポケットに、たぶん半年くらい入れっぱなしで、骨が少し曲がっています。使ったあとに干したことがなくて、開くと少し湿った匂いがします。
雨の日は、この傘がちゃんとカバンにあるかどうかを確かめるところから始まります。
それから髪。私の髪はけっこうなくせ毛なので、くるくるです。鏡の前で何回か直して諦めます。
駅までの道で、靴の中に水が入ります。ホームでは、隣の人の傘の先が私のパンツに当たります。会社に着くと、傘の置き場所に迷って、机の脇に立てかけたり、少し水滴がついたままカバンのポケットに突っ込んだりします。
夜、部屋干しの洗濯物は乾きません。
大人になってから、「雨が好き」という人に会ったことがありません。
娘の傘は、四十センチです。
大人用と比較するとかなり小さいです。
透明の窓がひとつついています。近所の駅前のイオンで、娘が自分で選びました。
雨が降りはじめると、娘は「あめ!」と言って、玄関の靴箱の上からその傘を取ってきます。出かける予定がなくても、です。廊下で開いて、そのままドアを出ようとして、つっかえます。
長靴も、玄関にあります。かかとに油性ペンで書いた名前が、少し薄くなりました。けっこうな確率で左右を逆に履いて、私が直そうとすると「じぶんでやる!」と怒ります。
いつもは駅から家まで、歩いて十分です。
でも、雨の日は二十分かかります。
駅前のロータリーを出てから家までのあいだに、大きな水たまりのできる場所がいくつかあります。タクシー乗り場の端、電柱の根元、コンビニの前の段差、マンションの手前の側溝。娘は全部覚えています。
ひとつ目で立ち止まって、片足を入れて、「ふかい」と言います。二つ目で両足を入れます。三つ目で跳びます。跳ねた水が、私の服の裾にかかります。四つ目に着く頃には長靴の中まで水が入っていて、一歩ごとに、くちゅ、くちゅ、と音がします。
手をつなぐと、私の傘と娘の傘がぶつかります。上から見ると、丸い傘と、その下から出ている長靴しか見えません。ときどき、透明の小さな窓から目だけがこっちを向きます。
はじめの頃の私は、この二十分のあいだ、ずっとスマホを見ていました。
時計を見て、「もう行くよ」と言って、炊飯器の予約時間を思い出して、「行くよ」と言って、また時計を見ていました。
ある日、スマホの画面に雨粒が乗って、指が滑って、時間が見られなくなりました。
傘を脇に挟んで、袖で画面を拭こうとして、傘が傾いて、肩が濡れて、諦めました。
そうしたら、傘の音が聞こえました。
ぱたぱた、ぱたぱた。
布一枚の向こうで、ずっと鳴っていたみたいでした。
足元では、くちゅ、くちゅ。
娘は三つ目の水たまりで、片足をゆっくりゆっくり沈めて、長靴の縁ぎりぎりまで水が上がってくるのを、じっと見ていました。
その日、家に着いたのは、いつもより三十分遅かったです。
ごはんは、ちゃんと炊けていました。
それから、雨の予報の日は、炊飯器の予約を少し遅らせるようになりました。
帰ったら玄関で長靴を脱がせて、逆さにして水を出して、雑巾で中をふきます。娘の靴下を絞ります。ひどい雨の日は私の靴下も、だいたい濡れています。
折りたたみ傘は、相変わらず一度も干していません。骨も曲がったままです。
娘の長靴は、このあいだ、つま先がちょっときついと言うようになりました。それから少し大きいサイズを買ったので、今、玄関には長靴が二足並んでいます。
同じマンションの小学校の高学年ぐらいの子が、駅からの道で、四つの水たまりを全部よけて、まっすぐ歩いていくのを後ろから見ていました。傘は、私と同じ折りたたみでした。
明日は、傘のマークです。
炊飯器の予約を三十分遅らせて、玄関に、新しいほうの長靴を出しました。
雑巾は、玄関に一枚用意してあります。
