包丁と身体
腹で立ち、腹で切る
──俎板の前で、身体が先に知っていたこと
料理人は、頭で切ってはいない。
少なくとも、私はそうだ。
俎板に向かう時、私は正面には立たない。
身体は、必ず斜め四十五度、右前方を向く。
理由を説明しろと言われれば、後から幾らでも理屈は付く。
だが実際には、身体がそうでなければ落ち着かなかっただけだ。
俎板の高さも同じである。
必ず、自分の丹田がすっと静まる高さに来る位置。
高ければ踏み台に乗り、
低ければ足幅を無意識に広げる。
「高さを合わせている」のではなく、
腹が落ち着く位置を探しているのだと思う。
調理台には、身体を触れさせない。
距離は、握り拳二つ分ほど。
近すぎれば腰が死に、
遠すぎれば腕が無理をする。
このわずかな余白があることで、
骨盤も、呼吸も、刃も、自由になる。
包丁を入れる瞬間、
目線は俎板の中央を直視している。
手元を凝視することはない。
代わりに、腹の前に、
直径五十センチほどの柔らかな球体があるような感覚で、
その中で作業をしている。
刃も、手も、肘も、肩も、
すべてがその球の中に収まっている。
斜め四十五度に立つことで、
右肘は背中より外へはみ出さず、
二の腕も脇に貼り付かない。
その結果、
包丁を持つ右手は、
最も自由な可動域を手に入れる。
私は、包丁を「振って」はいない。
刃を、落としている。
腕で切るのではない。
腹で立ち、
身体ごと刃を通している。
振り返れば、
これは誰かに教わった技術ではなかった。
怒鳴られた覚えも、
理屈で習った記憶もない。
ただ、
そうでなければ切れなかった
それだけの積み重ねが、
今の立ち方を作ったのだと思う。
腹を立てる。
腹を括る。
腹を決める。
日本語が「腹」に託してきた感覚は、
決して比喩ではない。
料理の現場では、
腹は今もなお、
最初に判断を下す場所であり続けている。
