「コミニケーション」という暴力‐守破離から学ぶ、守る伝統と捨てる因習‐
1.「それしかできない」人たち
旧来型のコミュニケーションに固執する人々の背景には、しばしば単純な悪意だけでは説明できない問題がある。
それは、「それしか知らないから、それしかできない」というスキルの欠如である。
人間関係の築き方を
酒
上下関係
説教
根性論
距離の近さ
だけで切り抜けてきた人にとって、現代的な「心理的安全性を担保した対話」は、ほとんど未知の言語に近い。
相手の境界線を確認する。
断られても人格否定と受け取らない。
役職や年齢差を前提に、相手が本当に自由に拒否できるかを考える。
仕事上の信頼関係と私的な親密さを混同しない。
こうした作法を学んでこなかった人にとって、それは単なるマナーの更新ではない。
自分がこれまで信じてきた人間関係そのものを問い直す作業になる。
だから苦しい。
だから拒む。
しかし、ここで重要なのは、その苦しさは、旧来型のコミュニケーションの被害者に背負わせてよいものではない、ということだ。
2.変われない人を守る三段構えの要塞
旧来型のやり方から抜け出せない背景には、三つの要素がある。
第一に、スキルの欠如である。
新しい関係性の作り方を知らない。だから、古いやり方に戻る。
第二に、現状維持バイアスである。
新しい方法を学ぶ面倒さや、失敗する恐怖から逃れるために、「今のやり方こそが正しい」と思い込む。
第三に、サンクコスト、つまり埋没費用の呪縛である。
深夜の飲み会に付き合い、理不尽な叱責に耐え、上司の顔色をうかがってきた過去の苦労がある。
もし、その苦労が無駄だったとしたら。
もし、自分が耐えてきたものが「成長のための試練」ではなく、単なる不条理だったとしたら。
その事実を認めることは、自分の人生の一部を否定するような痛みを伴う。
だから人は、過去を正当化しようとする。
「自分も耐えたのだから、次の世代も耐えるべきだ」と考えてしまう。
自分を傷つけた構造を、今度は自分が継承する側に回ってしまう。
スキルがない。
変化が怖い。
過去の苦労を無駄にしたくない。
この三段構えの要塞がある限り、正論だけではなかなか届かない。
ただし、繰り返すが、これは免罪ではない。
感染症の発生メカニズムを解明することは、ウイルスの害悪を正当化することではない。
同じように、旧来型の加害的コミュニケーションがなぜ生まれるのかを分析することは、その害を軽く扱うことではない。
むしろ、根絶するためにこそ、構造を見なければならない。
3.個人の頑迷さは、組織の衰退と同じ構造を持つ
この構造は、個人のコミュニケーションだけに限らない。
過去の成功体験に縛られ、新しい技術や価値観への移行に失敗した企業。
かつての勝ち方に固執し、環境変化に対応できなかった組織。
古い秩序を守ること自体が目的になり、自壊していった集団。
そこにある構造はよく似ている。
過去にうまくいった方法がある。
その方法で得た成果がある。
だから、その方法を疑えない。
しかし、時代が変われば、かつての成功法則は簡単に時代遅れになる。
それでも人は、「変わらないことのほうが安全だ」と錯覚する。
本当は、変わらないことこそが最大のリスクであるにもかかわらず。
職場の飲み会や説教文化も同じだ。
かつてそれで結束が生まれたように見えたとしても、その裏側で誰かが沈黙し、誰かが疲弊し、誰かが去っていたかもしれない。
それを「昔はよかった」と呼ぶのは簡単だ。
しかし、それは生き残った側から見た記憶にすぎない。
4.守るべき伝統と、捨てるべき因習
ここで考えたいのが、「伝統」と「因習」の違いである。
古いやり方がすべて悪いわけではない。
過去から受け継がれてきた知恵、技術、人間理解、仕事への誇りには、今なお価値がある。
日本には「守破離」という言葉がある。
まず、型を守る。
次に、状況に合わせて型を破る。
最後に、型から離れ、自分なりの境地を切り拓く。
本来の守破離は、変化を拒む思想ではない。
むしろ、変化し続けるための思想である。
しかし、滅びゆく組織や因習は、「守」の段階に固着する。
本来は手段にすぎなかったものを、目的そのものにしてしまう。
飲み会は、本来であれば親睦のための手段である。
説教も、本来であれば成長を助けるための手段である。
距離の近さも、本来であれば信頼関係の結果であって、強制するものではない。
にもかかわらず、それらが目的化されると、関係性は歪む。
「飲みに来ないやつは信用できない」
「本音を話さないやつは仲間ではない」
「厳しくされてこそ成長する」
こうして、手段が人を縛り始める。
生き残る伝統は、目的と手段を切り分ける。
本質を守るために、形を変える。
一方で、因習は形だけを守る。
そして、本質を失う。
生きる伝統は、変わらないために、変わり続けている。
5.「成果が出たから正しい」という幻想
ここで厄介なのは、暴力的な環境からも、時に成果が生まれてしまうことである。
「あの厳しい環境があったから、強い組織になった」
「ずっと理不尽に耐えたから、今の自分がある」
「飲み会で腹を割ったから、チームがまとまった」
このように語られる経験は、たしかに存在する。そして、それにともなう「成功」も存在する。
だが、その「成功」は慎重に扱わなければならない。
なぜなら、その成功譚は、生き残った人の視点から語られる物語だからだ。
その陰で、傷ついた人はいなかったのか。
声を上げられなかった人はいなかったのか。
去っていった人はいなかったのか。
自分を押し殺して適応した人はいなかったのか。
もし組織の結束や成果が、誰かの尊厳を踏みにじることでしか成り立たないのだとしたら、その「成功」は継承すべきものではない。
暴力的な器から、美しい中身だけを都合よく取り出すことはできない。
熱量があったとしても。
成果があったとしても。
そこに尊厳の侵害が含まれているなら、その方法は捨てなければならない。
守るべきは、熱意である。
捨てるべきは、強制である。
守るべきは、仕事への誇りである。
捨てるべきは、人格を削るやり方である。
守るべきは、人と向き合おうとする姿勢である。
捨てるべきは、相手の境界線を踏み越えることを親愛と呼ぶ感覚である。
6.被害者不在の「カイゼン」は無効である
旧来型の価値観に固着した人を変えるには、時間がかかる。
それは事実だろう。
長年かけて身についた作法は、簡単には変わらない。
本人にとっては、自分の人生を否定されるような痛みもある。
しかし、その痛みを理由に、被害者を待たせてはならない。
「加害者が変わるまで、もう少し我慢してほしい」
「悪い人ではないから、理解してあげてほしい」
「昔の人だから仕方ない」
こうした言葉は、一見すると穏当な調整に見える。
しかし、被害者から見れば、それは「加害者の心の準備が整うまで、あなたは傷つき続けてください」と言われているに等しい。
本来、待たれるべきは加害者の納得ではない。
被害者が安全に働ける環境の整備である。
必要なのは、加害者の面子を守ることではない。
被害者が声を上げても不利益を受けない構造である。
変われない人に配慮することと、被害者を危険にさらすことは違う。
その線を曖昧にした瞬間、組織は加害構造に加担する。
かなり厳しい言い方になるが、過去の因習を断ち切るには、この一線を引く覚悟が必要である。
7.要塞の外にある生きやすさを示す
構造の分析は、加害を薄めるための免罪符ではない。
「なぜこのような暴力が繰り返されるのか」を直視し、二度と同じ被害を生まないための解剖である。
古い時代の熱量や経験を、すべて無価値と切り捨てる必要はない。
しかし、過去の不条理な器を、そのまま現代に温存してはならない。
目の前で傷つけられている人の尊厳を守ること。
被害者の安全を最優先にすること。
「親しさ」や「指導」や「伝統」の名で、境界線の侵犯を許さないこと。
この倫理の線を、一歩も譲ってはならない。
その上でなお、変われない人との対話の窓口を完全に閉ざす必要もない。
人を変えるのは、制度であり、環境であり、そして時に人である。
必要なのは、過去を全否定する言葉ではない。
しかし、過去をそのまま継承する言葉でもない。
たとえば、こう言うことはできる。
「あなたの人生を否定したいわけではない」
「あなたが耐えてきた苦労まで、無意味だったと言いたいわけでもない」
「ただ、その苦しみを次の世代に渡してはいけない」
「あなたが受けてきた痛みを、誰かに与える理由にしてはいけない」
要塞を一瞬で壊すことは難しい。
だが、交渉は不可能ではない。
そのとき必要なのは、加害を許さない明確な一線である。
同時に、要塞の外にも生きる場所があると示すことでもある。
古い関係性の作法を手放しても、人は尊重される。
酒を介さなくても、信頼は築ける。
踏み込まなくても、関係は深められる。
支配しなくても、人はつながれる。
私たちは、過去から受け取ったものをすべて捨てる必要はない。
だが、誰かの尊厳を犠牲にする器は、もう受け継いではならない。
伝統は、変わらないために、変わり続けている。
ならば私たちもまた、古い時代の呪縛を断ち切り、誰もが安全に生きられる新しい関係性の作法へと、自分たちの伝統を進化させ続けなければならない。
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