知識はAIが配った。だからこそ、ベテランが焦がしてきた「失敗の記憶」に値がつく時代
プロローグ 新人が同じレシピで、同じ味にならなかった日
正直に言う。
去年、部下がAIに書かせた提案書を見て、僕は一瞬、言葉を失った。
構成も、論点整理も、文章の流れも、完璧だった。僕が二十年かけて身につけてきた「型」が、そこにそのまま出力されていた。
「これ、もう僕、要らないんじゃないか」
帰りの電車で、本気でそう思った。
数日後、その提案書が、実際の会議で使われた。結果は、思わしくなかった。
内容は完璧なはずだった。何が悪かったのか、まだ答えは出ていなかった。
50代は不利じゃない。──AIがレシピ本を配った日、僕らの仕事は終わらなかった。
第一章 完璧な提案書が、通らなかった夜
会議のあと、部下に理由を聞かれた。
「構成、間違ってましたか」
間違っていなかった。むしろ、教科書的には満点だった。
でも僕は知っていた。あの会議室にいた部長は、数字の話より先に、現場の不安を聞いてほしいタイプの人だった。それは、彼のプロフィールにも、過去の議事録にも、どこにも書かれていない。何度もあの部長の会議に出て、何度も空気を読み違えて、痛い目を見てきたから、体に染みついているだけの感覚だった。
AIが書いた提案書は、正しかった。でも、「今日、この場で、この順番で話すべきかどうか」までは、書かれていなかった。
情けない話だが、僕自身も、それを言葉にできたのは、この一件があってからだった。
第二章 ある料理人から聞いた話
知人の料理人から聞いた話がある。
彼の店では、若手にレシピを渡す。分量も、火加減の目安も、手順も、全部書いてある。今なら、AIに聞けば同じレシピが一瞬で手に入る。
でも、同じレシピで作っても、同じ味にはならない。
「レシピには、"強火で2分"としか書けない。でも実際の火加減は、鍋の材質、その日の湿度、食材の水分量で、毎回微妙に変わる。その微妙な差を感じ取れるようになるまで、何百回も焦がして、何百回も生焼けを出す」
彼は、その失敗の積み重ねを「舌の記憶」と呼んでいた。レシピは共有できる。でも、火を止めるべき「あの一瞬」の感覚だけは、共有できない。
第三章 ある会社に起きていたこと
もう一つ、聞いた話がある。
ある会社が、AIに議事録の要約と、次のアクションの提案までさせる仕組みを導入した。精度は高く、要約は的確で、提案も筋が通っていた。
ただ、ある案件で、AIが提案したアクションプランが、そのまま実行されてしまったことがあった。プラン自体に、論理的な誤りはなかった。
問題は、そのプランが「今、このメンバーにこの順番で頼んだら、誰かが確実に反発する」という、組織の履歴を踏まえていなかったことだった。案の定、現場は反発し、プロジェクトは一時停滞した。
「AIが間違えたわけじゃない」と、その会社の担当者は振り返った。「AIは正しい手順を出した。でも、その手順を"今、ここで"出していいかどうかを判断する人間が、間に立っていなかった」
第四章 三つとも、同じことに見えないかもしれない
完璧な提案書が通らなかった話。レシピ通りに作っても同じ味にならない話。正しい手順が現場を止めた話。
一見、バラバラの話に見えるかもしれない。提案書と、料理と、組織運営。舞台も、業界も、全く違う。
その通り。僕も長いあいだ、これらを別々の「あるある話」だと思っていた。
でも、まだ全部は言わない。
第五章 そういうことだったのか
AIは、レシピ本を、全員に無料で配った。
論点整理の型。要約の作法。手順の組み立て方。かつては、本を読んだ人、経験を積んだ人だけが持っていた「知識」が、今は誰でも、数秒で手に入るようになった。
これは、脅威ではない。むしろ、大きな進歩だ。
でも、レシピ本を全員が持っていても、同じ味にならないのには理由がある。「強火で2分」の"2分"は書けても、"今日は湿度が高いから1分50秒で止める"という判断は、レシピには書けないからだ。
その判断力は、何百回も焦がして、何百回も生焼けを出した人間の中にしか、蓄積されない。
50代が積み重ねてきたものは、成功のコレクションではなかった。「あの会議では、あの一言が火種になった」「あの案件は、あの順番を間違えた」という、できれば思い出したくない失敗の記憶だ。それこそが、レシピには載らない「火加減」の正体だった。
これは、あなたの経験が古くなったという意味ではない。AIが知識を配ったからこそ、知識の差では測れなかった、あなたの中の「火加減」の価値が、初めて外から見えるようになった、というだけの話だ。
第六章 構造は、一つだった
この「レシピと火加減」の構造は、仕事の話だけでは終わらない。
PMの現場では
AIは、正しい進捗報告のフォーマットを一瞬で作れる。でも、「今日はこの数字より先に、現場の不安を聞くべきだ」という順番の判断は、火加減と同じだ。人を責めるより、構造を見る。その判断力を持っている人が、チームの中で一人でもいれば、正しい手順が現場を止める、という事故は防げる。
AI活用では
半径五メートル、つまり自分が実際に責任を持つ範囲では、AIが出した「正しい手順」を、そのまま実行する前に、一呼吸置く癖をつける。その一呼吸こそが、経験のある人にしか出せない付加価値だ。
人生では
足し算より引き算で、若い頃は「全部知っていること」が価値だと思っていた。でも本当に価値を持つのは、「これは今、言わないほうがいい」を判断できる、引き算の感覚のほうだった。長期残存価値のあるスキルは、たいてい、失敗の数だけ増えていく。
構造は、一つだった。知識は、AIが配った。でも、その知識を「いつ、誰のために、どう使うか」を決める火加減は、まだ誰にも配られていない。
第七章 じゃあ、あなたはどうする?
さて、ここまで読んで、あなたはもう気づいているはずだ。
AIに知識で勝とうとする必要は、もうない。競う場所が、そもそも違う。
あなたが二十年、三十年かけて焦がしてきた鍋の記憶、生焼けを出した夜の記憶は、レシピ本のどこにも書かれていない。それは、AI時代になって初めて、正当に値段のつく資産になった。
今、あなたの中にある「火加減の記憶」は、どの場面で使えるだろうか。
エピローグ
あの部下は、今では会議の前に、僕にひとこと聞いてくるようになった。
「これ、今日この順番で話して大丈夫ですか」
AIが作った提案書は、相変わらず完璧だ。でも、それを「いつ、どう出すか」を、僕らはまだ一緒に考えている。
AIは、私たちから多くの作業を奪うだろう。でも、それは人間の価値を奪うという意味ではない。
問題は、人ではない。
構造が、人をそう動かしている。
だから構造が見えた瞬間、人は少しだけ、自分を許せる。
あなたの中の「火加減の記憶」は、まだレシピには書けない。
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