正解を選ぶな、納得を育てよ|五十代PMが到達した「選択の不安」を消す人生の構造学
プロローグ
正直に言う。
三十代の半ば、私は自分の選択を正当化するために、かなりの時間を使っていた。
転職を選んだとき、その会社に入った理由を、誰かに聞かれるたびに、少しずつ「より良い理由」に磨き上げていた。
最初は「なんとなく面白そうだったから」だったものが、三ヶ月後には「中長期のキャリアを見据えた戦略的な判断だった」に変わっていた。
自分で、自分の選択に、後から正解の衣を着せていた。
誰かを騙そうとしていたわけではない。
自分自身を、騙そうとしていたのだと、今は思う。
あの頃の私は、選択の正しさで、人生の不安を鎮めようとしていた。
だが、どれだけ「あれは正しい選択だった」と言い聞かせても、不安は、なくならなかった。
正解の衣を、何枚重ねても、その下の「これで良かったのか」という問いは、消えなかった。
一 正解という言葉の、奇妙な重力
若い頃、私は「正解を選ぶこと」が、人生の中心にあると信じていた。
正しい会社を選べば、正しい結果になる。
正しい選択を積み重ねれば、正しい人生ができあがる。
そのために、たくさん調べた。
先輩に話を聞いた。
本を読んだ。
比較して、分析して、最善策を選ぼうとした。
だが、五十代になった今、あの努力の多くが、少し違う方向に向いていたと気づいている。
私が本当にやろうとしていたのは、正解を選ぶことではなかった。
後から「あれは正解だった」と言えるように、自分の選択の周囲を固めることだった。
これは、正解を探す行為ではない。
正解だと思いたい、という不安の処理である。
正解という言葉には、奇妙な重力がある。
一度「正解があるはずだ」と思い込むと、選ばなかったすべての選択肢が、失われた正解のように見えてくる。
選んだ道の苦労は、誤りの証拠のように感じられてくる。
だが、現実には、人生の多くの選択に、あらかじめ正解など存在しない。
正解は、最初からそこにあるものではなく、その選択とともに生きた時間の中で、後から育つものだからである。
二 幸せそうな人と、正しい選択をした人は、同じではなかった
二十年以上、現場で多くの人と一緒に仕事をしてきた。
優秀な人を、たくさん見た。
正しい選択を重ねて、目に見える成果を出した人も、多く見た。
だが、そういう人が必ずしも、幸せそうだったかというと、そうではなかった。
逆に、大きな出世をしたわけでも、目立った成果を残したわけでもないのに、毎日どこか楽しそうで、一緒にいると場が和む人も、確かにいた。
この違いが、長いあいだ、私には言語化できなかった。
能力の差でも、運の差でも、選択の差でもないと、なんとなく感じていた。
だが、何の差なのかを、うまく言葉にできなかった。
ある日、一つのことに気づいた。
幸せそうに見えた人たちに共通していたのは、自分の人生を、受け入れていたということだった。
出世していないことを、嘆いていなかった。
別の道を選ばなかったことを、後悔し続けていなかった。
今自分がいる場所で、今できることをやる。
その態度が、自然に滲み出ていた。
正解かどうかという問いを、持ち続けていなかった人たちが、私の目には、一番豊かに見えた。
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本有料パートで提供する五つの価値について、先に述べておく。
一つ目は、正解探しと納得探しの違いを、感覚ではなく構造として言語化する視点である。
二つ目は、「地図と、歩いた道」という比喩を通じた、正解という概念と、納得という概念の根本的な違いである。
三つ目は、正解を探し続けることをやめ、別の問いを持ち始めたことで、人生が変わったある人物の実例である。
四つ目は、「正解を否定するな、しかし正解に人生を委ねるな」という二重否定の視点である。
五つ目は、AIが正解を出せる時代に、人間だけが育てられる、納得という力についてである。
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