「完璧な人」が愛されなくなった理由——応援される人の条件は変わった
新シリーズ「時代を、構造で読む。」第4話 時代は変わる。でも、その変化には必ず構造がある。
プロローグ
正直に言う。
私は20代の頃、完璧であることが信頼の条件だと本気で信じていた。
ミスをしない。感情を見せない。弱音を吐かない。どんな状況でも冷静に、どんな質問にも即答できる。そういう人間がプロとして認められると思っていた。だから、わからないことをわからないと言えず、疲れているのに疲れたと言えず、20代の後半から30代の前半にかけて、少しずつ中身が削れていくような感覚を覚えていた。
転機は意外な場所からやってきた。
ある日の社内会議で、10年以上のキャリアを持つ先輩コンサルタントが、クライアントの前で「正直、この点はまだ整理できていないんですよ」と言ったのだ。会議室の空気が、なぜかほんの少し柔らかくなった。クライアントの担当者が「そうですよね、私もここはずっと悩んでいて」と続けた。その後の議論が、これまでになく深くなった。
完璧でいることで、私は何かを失っていたのかもしれない。
序章 現象:完璧さへの不信が、静かに広がっている
完成されたスターを遠くから眺める文化が、じわじわと変わっている。
オーディションの視聴者が最もテンションを上げる瞬間は、実はパフォーマンスの完璧な出来ではなく、緊張で声が震えた瞬間だったり、泣きながら歌い切った瞬間だったりする。YouTubeでは、メイキング映像の再生数が本編を超えることがある。SNSでは、完璧に編集された投稿より、失敗談や本音の一言の方がエンゲージメントが高い。
なぜ今、未完成であることや、弱さを見せることが、愛される理由になっているのか。
一、一般論——「親近感」「共感」という説明の浅さ
この現象について語るとき、たいていは「親近感が生まれるから」「共感できるから」という言葉で片付けられる。あるいは「SNS時代はリアルさが求められる」という説明も多い。
間違ってはいない。だが、これらの説明は「完璧な人が愛されにくくなった理由」には答えているが、「なぜそれが今になって起きているのか」という時代の構造には触れていない。親近感や共感への欲求は、昔の人間にもあったはずだ。それが今になって特に可視化されてきたのは、なぜなのか。
二、構造分析——完璧さが「脅威」になる時代
ここをPM視点で分解すると、見えてくるものがある。
昭和の社会では、完璧さは純粋に価値として機能していた。完璧なリーダー、完璧な製品、完璧な答え。それは安心の証明だった。情報が少なく、選択肢が限られていた時代には、完璧なものを見つけることが難しく、完璧さはそれだけで희少価値を持っていた。
令和の社会では、状況が変わった。AIが完璧に近い文章を生成し、完璧なビジュアルを作り、完璧な計画を提案する。人間の「完璧さ」は、もはや機能として差別化にならない。それどころか、完璧すぎる人間は、AIとの違いが見えにくくなる。感情を持たず、疲れず、ミスをしないという点で、AIの方が完璧だからだ。
完璧さが希少ではなくなった時代に、人間の「不完全さ」が역説的に価値を持ち始めた。これは感情論ではなく、希少性という経済の原理が動いた結果だ。
三、なぜ「伸びしろ」が愛されるのか——共創の論理
もう一つ、見落とされがちな構造がある。
完璧な人間には、応援の入り込む余地がない。完璧さはそれ自体で完結しているから、関わろうとする側の居場所がない。一方、未完成な人間には、応援という行為が意味を持つ空間がある。「この人の成長の一部に、自分も関わった」という記憶が生まれる余地がある。
前の記事で書いたように、令和のエンターテインメントは「共創」の時代に入っている。応援されるためには、応援が機能する構造が必要だ。完璧さはその構造を封じてしまう。伸びしろがあることは、関係を作る入り口なのだ。
人生は編集である、という思想とも、ここで直結する。未完成であることは、まだ編集できる余白があるということだ。その余白に、周囲の人が参加する。応援するとは、誰かの人生の編集に、少し手を貸すことかもしれない。
四、愛される才能と、完璧さの矛盾
以前の記事で「愛される才能」という言葉を提示した。能力だけでは、人は戻ってこない。また会いたい、また話したいと思わせる何か。
実はこの「愛される才能」は、完璧であることとは本質的に相性が悪い。
完璧な人間は正しい。だが正しさは、関係を深める力を必ずしも持たない。むしろ、正しすぎる人間は、周囲に「自分はその水準に届かない」という圧力をかけることがある。弱さを見せる人間の方が、周囲が「自分も同じだ」「自分にも何かできるかもしれない」と感じやすい。
優しいまま、壊れないという言葉も、実は「完璧ではないが、折れない」という状態を指している。折れないことと、完璧であることは違う。強さとは、欠点のなさではなく、欠点を抱えたまま立ち続けることだ。
五、組織論への応用——完璧なリーダーが組織を弱くする理由
このことは、組織の設計にも直接影響する。
完璧なリーダーがいる組織では、メンバーが「出る幕がない」と感じやすい。すべての問いにリーダーが答え、すべての問題をリーダーが解決すると、メンバーは考えることをやめる。これはプロジェクトの短期的な成果を上げるかもしれないが、長期的には組織の思考力を空洞化させる。
一方、「自分もまだわからない」「一緒に考えたい」と言えるリーダーの周りには、考え続けるメンバーが育ちやすい。完璧でないことが、組織の中に余白を作る。その余白に、メンバーの判断と成長が入り込む。
育成文化が競争力になる、という前回の命題は、実はここで完成する。完璧なリーダーが育てるのは依存であり、不完全なリーダーが育てるのは自律だ。長期残存価値という観点から見れば、どちらが強いかは明らかだ。
本記事を含む一連の記事は、書籍化を視野に入れながら執筆を続けている。「時代を、構造で読む。」というシリーズを通じて、アイドルという鏡に映った社会と組織の変化を、書籍として残していきたい。
六、統合章——5つの変化が示す、一本の軸
このシリーズを貫く5つの変化——メディア、組織、価値観、働き方、文化——は、すべて今回のテーマに収束してくる。
メディアの変化は、完璧に編集された映像より、リアルで未完成なコンテンツへの移行だ。組織の変化は、完璧なエース一人より、不完全だが多様なチームへの移行だ。価値観の変化は、完成品を所有することより、成長の過程を共有することへの移行だ。働き方の変化は、完璧な管理より、ともに考える育成への移行だ。文化の変化は、完璧なスターを仰ぐことより、伸びしろのある推しを応援することへの移行だ。
どこから見ても、社会は「完璧さ」から「伸びしろ」へ、「完成品」から「共創」へと動いている。これは偶然の流行ではなく、人間の根本的な欲求——何かに参加したい、誰かの物語の一部でいたい——が、ようやく表現できる時代になった結果だと私は思っている。
エピローグ|結論——あの会議室で先輩が見せた「完璧でなさ」の正体
正直に言う。
あの会議室で「正直、この点はまだ整理できていないんですよ」と言った先輩は、その後も私が最も尊敬するコンサルタントの一人であり続けている。20年以上のキャリアを持ちながら、その言葉を自然に言えた人だった。
当時は気づかなかったが、あれは弱さではなかった。「一緒に考える」という招待状だったのだと、今ならわかる。完璧さは人を安心させるが、不完全さは人を動かす。安心と動機は、似て非なるものだ。
完璧な人は信頼されるかもしれない。だが、また一緒に考えたいと思われるのは、「正直、ここはまだ整理できていない」と言える人のほうが多い気がする。
あなたの中にある、まだ整理できていない部分は、弱点ではない。それは誰かと一緒に考える余地だ。
本記事を含む一連の記事は、書籍化を視野に入れながら執筆を続けている。
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本有料パートで提供する5つの価値
一つ目は、あの会議室の先輩がその後どのようなキャリアを歩み、なぜ20年後も私に影響を与え続けているのかという、個人的な記録である。
二つ目は、「完璧さへの投資」と「伸びしろへの投資」を組織設計の視点から比較した実務分析で、どちらをどのフェーズで使うべきかの判断基準を解説する。
三つ目は、リーダーが意図的に「不完全さを見せる」技術と、それが組織の心理的安全性に与える効果の解説である。
四つ目は、アイドルの成長過程の共有が生む経済的価値を、推し活市場のデータと照合しながら構造化した分析である。
五つ目は、ダウンロード特典として用意した「自分の伸びしろ棚卸しシート」である。
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