作品は1文字も変わっていない、変わったのは「私」だ——自分の中に新しい住人が増えていく物語の読み方
夏の終わり、なぜか無性に、二十歳の頃に聴いていた洋楽が聴きたくなった。
理由は分からない。アルバムを検索し、プレイリストを作り、再生ボタンを押した。イントロが流れた瞬間、部屋にいたはずなのに、頭の中は二十歳のあの夏に戻っていた。当時の友人、当時の恋人、当時の空気。音楽は何一つ変わっていないのに、涙が出そうになった。
帰り道、ふと思った。そういえば最近、昔読んだ本を読み返していない。
その週末、本棚の奥から一冊の本を取り出した。読み終えて、私は少し戸惑っていた。ストーリーは、ほとんど覚えていなかった。だが、印象に残る場面が、昔とはまるで違う場所に移っていた。
第一章 『火垂るの墓』で、初めて清太を責めたくなった
子どもの頃に見た『火垂るの墓』は、ただ悲しい映画だった。
戦争は悲惨で、節子は可哀想で、清太は気の毒だった。それだけの映画だと思っていた。
先日、久しぶりに見返した。すると、まったく違う感情が湧いてきた。清太が、親戚の家を飛び出して二人だけで暮らそうとする場面で、私は初めて、少しだけ苛立った。
もっと大人に頭を下げればよかったのに。もっと周りに助けを求めればよかったのに。
自分でも驚いた。子どもの頃には一度も抱かなかった感情だった。物語は何も変わっていない。清太は、あの頃と同じように振る舞っている。
第二章 『舞姫』で、エリスの隣に立つ人が増えていた
学生時代に読んだ森鷗外の『舞姫』も、読み返してみた。
当時は、文明開化や国家という時代背景ばかりが気になっていた。主人公である豊太郎の葛藤を、教科書的な視点でなぞっていた。
今読むと、まったく違う場所に目が吸い寄せられる。エリスが、豊太郎の帰りを待ち続ける場面。彼女の心情を思うと、胸が締めつけられた。それだけではない。豊太郎の友人であり、彼を国へ連れ戻そうとした相沢の立場にも、なぜか気持ちが寄っていく自分がいた。
学生の頃、相沢のことは、ただの脇役だとしか思っていなかった。
第三章 娘に読み聞かせて、初めて気づいたこと
同じ時期、娘に頼まれて、昔好きだった絵本を読み聞かせた。
内容はほとんど覚えていたはずなのに、読みながら、思わず声が詰まる場面があった。それは、主人公の子どもではなく、その母親が出てくる、ほんの数ページの場面だった。
子どもの頃、この本を読んだときには、母親の場面など、まったく記憶に残っていなかった。今は、その数ページだけが、やけに心に残る。
第四章 三つの出来事に、共通していたもの
清太に対して初めて抱いた苛立ち。エリスの隣にいた相沢という存在。絵本の中の、母親という脇役。
一見バラバラなこの三つには、ある共通点があった。
私が心を動かされる場所が、いつも、以前とは違う登場人物へと移動していたのだ。主人公だけを見ていた頃の私は、もういなかった。
物語は、一文字も変わっていない。清太の台詞も、エリスの手紙も、絵本の挿絵も、あの頃とまったく同じだ。変わったのは、明らかに私の側だった。
第五章 私の中に、新しい住人が増えていた
なぜ、以前は目にも入らなかった人物に、今は心を動かされるのか。
しばらく考えて、一つの仮説に行き着いた。
物語の登場人物というのは、ただ「読む対象」ではなかった。私たちは物語を読みながら、その登場人物の誰かに、無意識のうちに自分を重ねている。子どもの頃の私には、清太という一人の視点しか持てなかった。だから、清太の悲しみだけが自分の悲しみになった。
だが、大人になるまでの間に、私は色々な役を実際に経験してきた。子どもを守ろうとして、うまくいかなかった経験。誰かを見送る側になった経験。誰かに帰ってきてほしいと、ただ待つことしかできなかった経験。
そうした経験の一つひとつが、物語の中の、それまで素通りしていた登場人物と、いつの間にか重なるようになっていた。相沢という脇役に心が動いたのは、私自身が、誰かを引き戻そうとして、うまくいかなかった経験を持っていたからだ。絵本の母親に声が詰まったのは、私自身が、子どもを見守る側に立ったことがあったからだ。
物語の中の登場人物は、増えていない。だが、その登場人物たちのうち、自分の内側に住み着いている人数は、確実に増えていた。
若い頃の私は、物語を、一人分の視点で読んでいた。今の私は、気づけば、何人分もの視点で同じ物語を読んでいる。感受性が鈍ったのではない。むしろ逆で、感情移入できる先が、静かに増え続けていただけだった。
第六章 仕事も、AIも、人生も、住人が増えていく物語だった
この構造は、物語の中だけの話ではなかった。
PMの現場でも、同じことが起きる。若い頃は、プロジェクトの成功だけを見ていた。今は、成功の裏で疲弊しているメンバーの顔にも、自然と目がいく。仕様書の向こう側にいる、名前も知らない利用者の生活にまで、想像が及ぶようになった。これは能力が上がったというより、自分の内側に、以前はいなかった視点の住人が増えた、ということなのだと思う。
AIに対しても、似たようなことが起きている。AIは、作品のあらすじも、時代背景も、登場人物の相関図も、正確に説明できる。だが、五十代になった今の私が、なぜ相沢という脇役に心を動かされるのかという理由までは、AIには説明できない。それは知識ではなく、私だけが積み重ねてきた経験という、固有のキャストの問題だからだ。
人間関係においても、若い頃は、自分の言い分だけを見ていた相手の話に、今は、その人の立場や事情という、もう一人分の視点を重ねて聞けるようになっている。キャリアという長い時間の中でも、かつては敵のように見えていた人の判断が、今になって、少し分かるように感じることがある。これも、自分の中の住人が、また一人増えたということなのだと思う。
第七章 自分の中には、今、誰が住んでいるか
もし今、あなたの手元に、昔読んだ本や、昔観た映画があるなら。
一度、読み返してみてほしい。きっと、以前とは違う場面で、心が動くはずだ。それは、記憶力が衰えたからでも、感受性が鈍ったからでもない。
その作品の中に、以前はいなかった誰かが、あなたの内側に、新しく住み着いたということなのかもしれない。
今のあなたの中には、一体、何人分の視点が住んでいるだろうか。
エピローグ
『火垂るの墓』は、これからも変わらないだろう。『舞姫』も、あの絵本も、きっと一文字も変わらない。
だが、来年の夏、もう一度同じ作品を開いたとき、私はまた、違う場所で心を動かされているかもしれない。
それは、寂しいことではなく、むしろ、少しだけ楽しみなことのように思えてきた。
物語を読み返すことは、過去に戻ることではなく、今、自分の中に誰が住んでいるかを、確かめる作業なのかもしれない。
問題は、人ではない。構造が、人をそう動かしている。
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構造学。──人を責めず、構造を見る。
問題は、人ではない。構造が、人をそう動かしている。
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