見出し画像

完璧主義で動けない人へ。工程を「分解」して一人で抱え込まない構造の作り方

プロローグ

正直に言う。

私は先日、五分かけて一本の動画を作り、それを「無音のまま」書き出した。

音楽のない、五秒間の、ただ静かに揺れるだけの映像。

パソコンの画面に映った「MP4を保存しました」という文字を見ながら、私は少しだけ恥ずかしくなった。

五十二歳のおじさんが、平日の夜に、誰に頼まれたわけでもなく、縦長の小さな動画を作っている。

しかも音は入っていない。

まるで、声を失った人が、それでも何かを伝えようとして手を動かしているような。

その無音のファイルを見つめながら、私はふと思ったのだ。

これは、私の人生そのものではないか、と。


一 私は、完成品を出そうとして、いつも動けなくなっていた

かつての私は、何かを作るとき、必ず「完成品」を出そうとしていた。

音楽も、文字も、演出も、意味も、全部そろえてから世に出す。

そうでなければ恥ずかしいと思っていた。

だから、動けなかった。

BGMが決まらないから投稿できない。

タイトルがしっくりこないから公開できない。

構成が完璧でないから書き始められない。

私の頭の中には、いつも「まだ足りない」という声があった。

会社員時代もそうだった。

提案書は、あらゆる想定質問に答えられるまで作り込む。

三十枚のスライドに、余白を許さず、隙間なく情報を詰め込む。

私は、それを丁寧さだと思っていた。

いま思えば、あれは恐怖だった。

隙があると攻撃される。だから隙をなくす。

そうやって私は、いつも「音楽まで乗せた完成品」を、たった一人で抱え込もうとしていた。

そして、その重さに、静かに潰れかけていた。

二 なぜ、完成品を目指すと、人は動けなくなるのか

ここで、少しだけ構造の話をしたい。

なぜ、完璧な完成品を目指すと、人は動けなくなるのか。

答えは単純だ。

完成品とは、すべての要素を一人で同時にそろえること、を意味するからだ。

背景、文字、演出、音楽、意味、タイミング。

これらを一度にそろえようとした瞬間、作業量は掛け算になる。

要素が五つあれば、その組み合わせは無限に膨らむ。

人間の脳は、掛け算の複雑さに耐えられるようにはできていない。

だから固まる。

一方で、あの動画編集の手順には、恐ろしく賢い構造が隠れていた。

映像は無音で書き出し、音楽はプラットフォームの側で、あとから乗せる。

つまり、自分が抱える工程を意図的に減らし、残りは別の場所に委ねる。

これは、掛け算を足し算に分解する行為だ。

自分が完璧にコントロールする範囲を、あえて狭める。

そして、狭めたぶんだけ、身軽になる。

音楽という最も感情を左右する要素を手放したからこそ、映像そのものは五分で完成した。

手放したから、動けた。

抱え込まなかったから、前に進めた。

三 娘の一言が、私の思い込みを砕いた

その無音の動画を、私は娘に見せた。

自信があったわけではない。むしろ、笑われる覚悟だった。

案の定、娘は画面をのぞき込んで、こう言った。

「これ、音楽ないの。さびしくない」

来た、と思った。やはり無音では駄目なのだ。

私が言い訳を並べようとした、その瞬間だった。

娘は自分のスマホでその動画を開き直し、いつも聴いているアイドルの曲を、指先でひょいと乗せた。

すると、どうだろう。

さっきまで無言で沈黙していた五秒間の映像が、まるで別の作品のように息を吹き返した。

同じ映像だ。私は何も変えていない。

ただ、音楽が乗っただけ。

娘はけろりとした顔で言った。

「べつに、全部自分でやらなくていいじゃん」

私は言葉を失った。

私が二十年かけて学べなかったことを、娘は五秒で言ってのけた。

四 手放したら、はじめて回りはじめた

その日から、私の作り方は変わった。

私はもう、完成品を出そうとしていない。

自分が確実に作れる部分だけを、静かに、確実に仕上げる。

残りは、乗せてもらう。

プラットフォームの音楽に。誰かのコメントに。時間の経過に。

そうしたら、驚くほど回りはじめた。

以前は一本を出すのに三日かかっていたものが、いまは五分で出せる。

しかも、無理をしていない。

夜中に歯を食いしばって作っていた頃より、あきらかに続いている。

私はようやく理解した。

続けられなかったのは、私の根性が足りなかったからではない。

一人で全部を抱える構造を、選んでいたからだ。

構造を変えれば、根性はいらなくなる。

これは、精神論ではない。設計の話だ。

五 これは、動画の話ではない。組織の話でもある

視点を、少し広げてみたい。

一人で完成品を抱え込む人が、なぜ現場で潰れていくのか。

私はこれまで、そういう人を何人も見てきた。

優秀で、責任感が強く、細部まで妥協しない人ほど、静かに折れていく。

彼らは、悪くない。

悪いのは、その人に「音楽まで乗せさせる」構造のほうだ。

本来なら分担できるはずの工程を、一人に集約してしまう仕組み。

そこで私たちは、つい、こう考えてしまう。

あの人は要領が悪い、あの人は抱え込みすぎだ、と。

けれど、人を責めても何も始まらない。

人を責めるより、構造を見る。

その視点を持てたとき、はじめて現場の理不尽は因数分解できる。

誰かが無音のまま潰れそうになっているなら、問うべきは「なぜ頑張らないのか」ではない。

「なぜこの人が音楽まで乗せなければならない構造になっているのか」だ。

工程を分解し、乗せる部分を外に開く。

それだけで、折れなくてよかった人が、折れずに済む。

六 人生もまた、無音の映像でいい

そして、これは組織の話にとどまらない。

人生そのものの話だ。

私たちは、自分の人生に、はじめから完璧な音楽が付いていなければならないと思い込んでいる。

意味も、物語も、結末も、全部そろってから歩き出そうとする。

だが、そんな必要はない。

人生は、無音の映像でいいのだ。

まず、自分が確実に作れる映像を、淡々と積み上げる。

意味という音楽は、あとから乗る。

十年前の失敗が、いまになって心に染みる曲を連れてくることがある。

あの頃はただの無音だった日々に、後から意味という旋律が乗る。

だから、いま音楽が聴こえなくても、焦らなくていい。

映像さえ撮り続けていれば、音楽はいつか、必ず乗る。

本記事を含む一連の記事は、書籍化を視野に入れながら執筆を続けている。

統合 無音の五秒が、教えてくれたこと

あの無音のMP4が、私にすべてを教えてくれた。

速く作ることは、才能ではない。

工程を分解し、抱えるものを減らす、その巡航速度こそが設計なのだと。

今日の完璧さより、十年後も残る一本を。

長期残存価値とは、詰め込むことではなく、削ることの先にある。

足し算より引き算。

音楽を手放したから、映像は完成した。

そして、あの日々の遠回りも、いまや無音ではない。

経験は資産である。

だから私は、一人で音楽まで抱え込むのをやめた。

優しいまま、壊れない。

それは、全部を背負うことではなく、乗せてもらう勇気を持つことだった。

私が守りたいのは、遠くの拍手ではない。

娘が「さびしくない」と言って、笑いながら曲を乗せてくれた、あの半径五メートルの時間だ。

エピローグ

いま、私の手元には、あの無音のMP4がまだ残っている。

娘が音楽を乗せてくれる前の、静かな五秒間の映像。

かつての私なら、これを失敗作として消していただろう。

音楽が入っていない、未完成なファイルだと。

けれど、いまはこう思う。

この無音こそが、私の人生の縮図だ。

映像は、自分で撮る。

音楽は、誰かが、あるいは時間が、あとから乗せてくれる。

それでいい。

いや、それがいい。

私は五十二歳で、ようやく、無音のまま世に出す勇気を手に入れた。

これは終わりではない。

経験が構造になる、始まりだ。

本記事を含む一連の記事は、書籍化を視野に入れながら執筆を続けている。

今日からやること、一つだけ。

あなたが「まだ足りない」と思って抱え込んでいるものから、一つだけ工程を手放してみてほしい。

音楽は、あとから乗る。

まず、無音のまま、出してみよう。


関連記事

▼ 完璧を目指して一人で悩んだときの、等身大の実践記録
AIを使い続けた3年間の正直な記録
https://note.com/quiet_emu2080/n/n8a9843349c9a

▼ 「一人で抱え込まない」を、組織と仲間の構造から読み解く
仲間がいないと、たどり着けない世界がある
https://note.com/quiet_emu2080/n/n7f82e4d646bb

▼ 仕組みで人を活かす、Shiraco思考OSの決定版
PMおじさんが、指原莉乃から学んだマネジメント論
https://note.com/quiet_emu2080/m/m957be4f5d32b

©shiraco|PMPおじさんの実践ノート @NoteCcm42090

構造学。──人を責めず、構造を見る。
問題は、人ではない。構造が、人をそう動かしている。

いいなと思ったら応援しよう!

shiraco よろしければ応援お願いします! いただいたチップはクリエイターとしての活動費に使わせていただきます!