むすんで、ひらいて
むすんで ひらいて てをうって むすんで またひらいて てをうって…
幼かったころ、手遊びをするあの子たちを私は羨んでいた。歌詞に合わせてせわしなく手を組み替えて、楽しそうに笑い合っている。
それはまるで誰かと仲良くなれる魔法みたいで、けれども不器用な私は魔法使いにはなれなかった。
ひとりでの手遊びなら上手くできた。小声で歌って、家でも何度も練習したから。
でもふたりの手遊びは、ひとりでは練習できない。ぶっつけ本番でやるしかない。
羨ましそうに見ていた私を、誘ってくれる子もいた。だけど私は、失敗してしまうのが怖くて、誘いに乗れなかった。
幼いくせに見栄っ張りで、完璧主義者だった。
上手くできる自信のあることは堂々とやれたけど、ちょっとでも躓くのではと思うと、泣きそうになって首を横にぶんぶん振ってしまった。
万事が万事そんなんだから変な子に思われて、友だちと呼べる子ができたことはない。
誰とも関係を結べない、つまらない女。
その代わりのように、高校くらいから男の子が寄ってくるようになった。
かわいい、スタイルがいい、一緒にいたい、好きだ。
これまで誰からもそんな言葉をかけてもらったことなんてなかったから、そういう風に言われたら嬉しくて、私は誰にでもついていった。
誰とも関係を結べなかった私は、開くことを覚えた。
それを気持ちいいと感じることはあまりなかったけど、求められて、必要とされることが、心地良かった。たとえそれが、私でなくてよかったとしても、繋がっていられることで充足感を得られた。
かけられる言葉、向けられる優しさが、偽りに満ちたものだとしても、自分に価値を見出すことができた。
私でも誰かと結ばれる魔法を、見つけてしまった。
そんな私でも大学を出て働くことになった。そこそこ大手の企業の、地方にある子会社の事務員。
可もなく不可もなく、一人で暮らすにはあまり困らないくらいの給料を貰える仕事。最初のうちはお局様にイビられてストレスもかなりあったけど、気がつくと私がそう呼ばれる存在になっていた。
三十代も半ばを過ぎると、同期の子たちはたいてい寿退社し、向上心と男性不信が強い子たちはもっと好条件で雇ってくれて、やりがいもある仕事に転職していった。
残ったのは私、ただひとりだけ。ザ・お局様。冗談めかして言っても、その重みに戦慄してしまう。
この年代になるともう、これまでのように男から求められることはほとんどなくなり、自分の価値はますます揺らいだ。
仮に求められて開いたとしても、その扱いは露骨にぞんざいになって、それでも追いすがってしまう自分にほとほと疲れ果てていた。
そんなころだった。あの人が本社からの出張で、私のいる子会社に出向いてきたのは。
私より少し年上。でも外見はあか抜けてて、もっと若く見えた。だけど目元には年相応の苦労と疲れが滲んでて、それがとてもよかった。
とてもよかったのだけど、その薬指には当然のように、売約済みの証が光っていた。
そりゃそうだ、こんな優良物件が売れ残っているわけがない。
私は彼に努めて事務的に関わることにした。人様のものに手を出して、痛い目を見るのなんてアホらしい。もうそういうのは、卒業しよう。
と誓ってたはずなのに、求められたら応じてしまうのが、私という女の悲しい性だった。
最終的に傷つくのがだれかなんてわかり切っているのに、あんなにもあどけなく、さみしそうな目をされては、拒むことはできなかった。
子どもの頃は大人になったらさみしさなんて消えてなくなるのだと思っていた。でも違った。
一度でもさみしさを和らげる魔法を知ってしまうと、それがない夜に、さみしさは暴れ回る。決して飼い慣らすことができない、獰猛な獣のようなさみしさが、胸の内側に巣食ってしまう。
もしこれが公になったら、私と彼は元の生活には戻れない。でもその結果、ふたりが結ばれることなんてありえない。
彼は私を心の底から求めてはいない。
いつも私の向こうに誰かを見ている。誰かを触ったときと同じ手つき、同じやり方で、私を抱いている。
そうゆうのはなんとなくわかってしまう。
この男はたぶん、女に不自由したことがない。
だって滑稽な自信に満ちた指に、快楽を抑えきれないというふりをして喘いでやると、これがいいんだろと言うように、馬鹿みたいに激しくしてくるから。
誰でも女は同じで、同じ手技が通じるんだろと、思い込んでいる。
それを可愛いと思えてしまうのが、きっと私の業なのだろう。
キレイサッパリ離れられるように、人間的なやり取りや気遣いは最小限にしておこうと思っていた。それなのに彼は何故か、人間的な優しさを示してきた。
「はいこれ、誕生日おめでとう」
「えっ!?」
演技ではなく本当に驚いてしまった。
だって私は、彼の誕生日を知っていたけど何もせず、そわそわと期待するような目を無視していたのだから。お互いそうゆうのはやめときましょうね、って示したつもりだったのに、まるで伝わっていなかったのか。
「開けてみて」
この人はどうしてこんなに、優しい声と微笑みで言うのだろう。
華やかな包装紙を丁寧に剥がすと、筆箱くらいのサイズの、高級感漂う箱が出てきた。それをパカッと開くと、目も眩むようなシルバーを身に纏う、細長いナイフのようなものが出てきた。
「きれい…」
持ち手には繊細な装飾が施されており、柄はダイヤのような形をしている。刃の部分は艷やかに光を反射し、骨のように滑らかで、どこまでも優美。
手に取るとしっとり吸い付くように馴染む。
「気に入ってくれたみたいでよかった。レターオープナー、今使ってるのあれ百均のだろう。ちょっと気になっちゃってさ」
そんなとこを見られてた恥ずかしさと、そんなとこまで見てくれていたんだという嬉しさがごちゃまぜになり、抱きついていた。
「ありがとう、大事に使う!」
「うっ、うん。それは嬉しいけど、できれば刃物を持ったままくっつかないでほしいな」
「あっ、やだ、ごめんなさい」
くすっと笑い合って、レターオープナーを箱に戻した。そして後ろから抱きすくめてくる手に指を絡ませて、荒い息遣いに身を委ねた。
後戻りできないくらいに、結ばれてしまった気がした。
そうはなるまいと思っていたのに、私も数多のお局様の例に漏れず、新人を叱る声が強くなってしまっていた。
「あなた、前も同じこと注意したよね。コピー機の紙とインク、朝来たときにちゃんと見ときなさいって。あとポットのお湯も、どうしていつも忘れるかなあ」
怒ってますよと見せつけるための溜息も、横綱くらいに貫禄を増してきた気がする。絶対にこうなるもんかと思っていた、お局様の姿。
「す、すいませんでした…」
まだまだ余裕で水を弾き飛ばす、みずみずしい肌の上を涙が滑り落ちる。化粧っ気をあまり感じないのに、シワ一つなく、滑らかな白い肌が苛立たしい。
もうどれだけ私が時間をかけてメイクを施そうとも、一生この透明感は手に入らない。
ああ、そうか。だから私が新人だったころのお局様も、あんなに怒っていたのか。
なんのことはない、業務にさほど影響をきたさない細かい事柄。それなのにどうしてあんなに怒られたのか。
それは単純明快、若さへの嫉妬。自分がどれだけもがいてももう手にできないものを、当然のように見せつけられることへの、せめてもの意趣返し。
いいじゃん、あんたはまだまだ未来があんだからさ。私のためのサンドバッグになるくらい、どうってことないでしょ。
どうせ若くて単純で優しい彼氏がいて、それに慰められてセックスでもすれば、お局様に怒られたことなんてシワにも白髪にもならず、簡単に忘れられんでしょ。
だから、いいじゃん。
「すいませんでした、じゃないの!どうせまた忘れるんだからメモ取れ、メモを!ちょっとは頭を使いなさいよ、この能無し!」
ああ、やっぱりよくないわ。自分が昔言われて嫌だった言葉を、吐き散らかしてしまっている。
ああ、ほんとに最低だわ。でも誰かを怒鳴りつけるって、どうしてこうも気持ちいいんだろう。
グズグズ泣いてるだけの小娘に、教えてやらなきゃ。理不尽なものは、必ずどっかにあるんだって。そう、これは、教育なんだ。
「まあまあ、その辺で、ね」
吸い込んだ息が、柔らかな声と広げられた手に霧散していく。
「直接業務に影響する事柄じゃないんだから、もうちょっとお手柔らかに頼むよお。ガチンコファイトクラブじゃないんだからさあ」
彼がおどけて言うと、何人かが小さく吹き出した。
「なんすか、ガチンコファイトクラブって?」
若い子が手を上げて質問すると、彼は大げさに嘆いてみせる。
「えっ、ウソっ!?知らないの、ガチンコファイトクラブ!?竹原とか出てた、ボクシング合宿するやつだよ!」
「たっ、竹原…?」
「ウソだろおいっ!これだから若いやつはよお」
「ははっ、俺は知ってるぞ」
「そうそう、覚えてるよ。あのヤラセ満載のやつだろ」
「ヤラセって人聞き悪いな。演出って言おうぜ、演出って。チクチク言葉はダメダメよ」
それで雰囲気が和らいで、私の標的にされていた新人もクスって笑っていた。
はあ、助けられちゃった。もう、困ったな。こんなことされたら、離れるとき辛いだけじゃん。
終わりがあるものだとはわかっていた。でもこうも早まるとは思っていなかった。
「いやあ、みんな優秀でさあ。こんなに早くプロジェクトが片付くなんてねえ。まいったまいった」
最後の逢瀬。明日にはもうこの人は、遠くの街へと帰ってゆき、私の知らない女と躰を重ねる。
「私もついていっちゃおうかなあ」
甘えるように言って腕を絡めると、彼は困ったように笑った。そんな顔するくらいなら、最後の夜に誘わないでよ。
せめて最後まで、夢を見させてよ。
「なんてね、冗談。厄介事はごめんだし、奥さんに殺されたくないもん」
「はっ、ははっ、そんなやつじゃないけど、会わないのが一番安全だな」
「そうね、お互いのために、ね」
微笑んで唇を重ねると、すぐに火照ってくる感じがした。舌を絡め合うと芯まで潤ってきて、これまでになく荒々しく、二匹の獣のように獰猛に求めあった。
これが最後の魔法になると知っていたから、躰の芯に焼き付けるように、強く、激しく、貪った。
果てた後の気だるい空気。彼は死んだように眠っている。
寝息が静かなところも、愛おしかった。彼の隣なら私は、優しいゆりかごに揺られているかのように、とても安らかな気持ちで眠れた。
突き出た喉仏に、そっと銀の刃を添える。
彼から貰った、レターオープナー。
力の限り突き刺し、あるいはかき切れば、彼を永遠に、私のものにできるだろうか。
手に入らないのなら、誰かの元へと帰っていってしまうくらいなら、いっそ。
漏れる吐息が浅く、早くなり、心臓が狂しく脈打つ。
震える手にギュッと力を込め、私は銀の刃を、箱に収めた。そしてそれを、彼のカバンに忍ばせた。
やっぱりそんなことなんて、できっこない。
何事もなかったかのように目覚めた彼は、私に背を向けてワイシャツを着ながら、ひとりごとのように呟いた。
「刺してくれてもよかったのに」
私はただ、声を押し殺して泣きながら、心の中でさようならとささやいた。
むすんだ手は、ひらかなきゃならない。
早朝、まだ出勤している人が誰もいない時間。私は溜まっていた封筒を、百均のちゃちなレターオープナーで開けていた。
あんなカッコつけたやつがなくても、封筒なんて簡単に開けられる。あんなやつ、いらないんだ。
それでもさみしさは、湯水のように湧き出てくる。なんて最悪な朝だ。
誰もいないと思っていた給湯室から水音がして、ピピッと電子音が聞こえてきた。ポットにお湯を沸かしているのか、いったい誰が。
「あっ」
給湯室から出てきたのはこの前、私がサンドバッグにしようとしてしまった新人。
「おはようございます」
「おはよう」
挨拶はしたので自分の席へと戻っていくかと思うと、じっと私の手元を見つめている。
「なに?」
「いえっ、あのっ、前に使ってた、カッコイイやつ、あれどうしたのかなって思って…」
「ああ、あれ」
意外と見られているものだなと、ふっと軽い笑みがこぼれる。
「さあね、今ごろ呪いのアイテムみたいに扱われてるかもね」
「呪いのアイテム」
きょとんとした顔があどけなくて、私はどうしてこんな子にあんな意地悪なことを言ってしまったんだろうと後悔した。
「それよりごめんね。この前はあんなに怒鳴っちゃって。あそこまで言う必要なんてなかった。本当にごめんなさい」
「あっ、いえっ、何度言われても忘れちゃう、わたしが悪いんです。メモとペン、ちゃんと買いましたから。もう忘れません」
ちゃんと買ったメモとペンを見せつけてくれながら言うのが、なんだか犬みたいに見えてしまった。
「ふっ、あははっ」
素直なのがこんなに可愛いくて、こんなに救いになるなんて思わなかった。最悪な気分で仕事を始めたのに、今ではもう、何ともなくなっている。
「そう、ちゃんと買ったんだ。えらいえらい」
「あっ、ありがとうございます!」
「ねえ、この前のお詫びと言ったらあれなんだけどさ、今度飲みに行かない?」
「えっ?」
あっ、やっちゃった。アルハラとかパワハラとか、厳しいこのご時世に私は何を言っているんだ私は。しまったな。
「あっ、うそうそ!ごめんごめん、困るよねえ、上司から誘われても断りづらくて」
「いえ、嬉しいです!絶対に行きます!」
「えっ、そうなの?迷惑ならほんとに断って」
「迷惑なんかじゃないです!だってわたし、ずっとゆっくりお話してみたいなって思ってましたから!」
「ふえっ?」
あんまりにも予想外のことを言われて、間の抜けた声が出てしまう。
「ふえっ?」
「あっ、ううん、何でもないの。じゃあまた、詳しく日時とか決めよっか」
「えっ、わたしはいつでもいいですよ。なんなら今晩でも」
「そうなの?彼氏とか大丈夫なの?」
「はい、そんなのいませんから!」
「そんなの」
元気よく言い張るのを聞いて、ぷっと吹き出してしまう。そっか、そんなの、だよな。男なんて、そんなのだよ。
いらないんだよ、そんなさみしいだけの魔法なんて。
「よし、じゃあ早速今晩行こっか!」
「はい!楽しみにしてます!」
ニコニコと笑う彼女に笑みを返し、私はスマホを取り出して、未練を消し去った。そして彼女に向かって言った。
「ねえ、ライン交換しようよ」
ひらかれた手はまた、むすばれるものなんだ。
