見出し画像

値上げを気にしない主婦は、暮らしを見ていないですか

スーパーの調味料売り場で、いつも買っているしょうゆを手に取ったとき、隣にいた知り合いのお母さんが小さな声で言いました。

「また上がったよね。最近、何を減らしてる?」

私はラベルを見たまま、少し返事に迷いました。値札が変わったことには気づいていました。でも、だからといって今のところ、食卓から何かを減らしてはいなかったんです。お肉も果物も買うし、子どもが好きなヨーグルトも、夫が朝に飲むコーヒーも、いつもの場所からかごへ入れる。そのことをそのまま言ったら、ずいぶん呑気な人に見える気がして、「ほんと、困るよね」とだけ返しました。

少し、嘘でした。

九月は食品の値上げが多いらしく、テレビをつけてもスマホを開いても、家計をどう守るかという話が流れてきます。冷凍食品、調味料、お菓子。どれも家の中にあるものだから、ニュースがそのまま台所まで入ってくる感じがします。

それ自体はよく分かるんです。前と同じものを買って、会計だけが高くなっていれば、気持ちよくはありません。私だってレシートを見ますし、使い切れずに傷ませた野菜があると、もったいなかったな、としばらく引きずります。

ただ、値上げの話になると、なぜか主婦はすぐに「何を工夫したか」を聞かれるんですよね。安い店を回ったのか、献立を変えたのか、嗜好品をやめたのか。何も変えていない、と言う余地だけが、最初から用意されていないように感じます。

会社員だったころは、昼休みに同僚と値上げの話をしても、最後は仕事の愚痴や週末の予定へ移っていきました。けれど今は、「主婦なのだから、当然そこを考えているでしょう」という前提が会話の底に残ります。家にいる時間が長いほど、値札の変化に敏感で、冷蔵庫の中をむだなく回し、同じ食卓を以前と同じ予算で作れる人であることを、静かに期待されている気がするんです。

気にしていないわけではありません。

うちは今、食べるものを変えなくても暮らしていけます。こう書くと、たぶん感じが悪いのでしょうね。家計簿をつけていないわけでも、世の中の動きを知らないわけでもない。ただ、毎朝同じヨーグルトを食べる娘や、夕飯のあとに温かいコーヒーを淹れる夫の姿を見ていると、そこを急いで削る理由が、私にはまだ見つからないんです。

お金の使い方には、その家の静かな優先順位が出ます。外食を控えて家で好きなものを食べる家もあれば、平日の食卓は簡単にして休日に出かける家もある。私は、冷蔵庫を開けたときに家族がいつものものを見つけられることに、少し多めに払っているだけです。

もちろん、何も考えずにかごへ放り込んでいるわけではありません。棚の奥から賞味期限を確かめて取り、帰宅したら野菜を傷ませない順番を頭の中で組み直す。そういう小さな管理は、値上げの前からずっと続いています。ニュースになった月だけ急に賢い主婦になることはできないし、なるつもりもありません。

なのに、値上げを前に平然としていると、「管理していない人」「夫のお金だから気楽な人」という顔をされることがあります。専業主婦は収入の話をしなくても、買い物かごの中身だけで姿勢を問われる。慎ましく困ってみせるところまでが、仕事に含まれているみたいです。

レジを出たあと、そのお母さんとは駐車場まで一緒に歩きました。彼女の袋には豆腐と鶏肉が見えて、私の袋にはぶどうが入っていました。どちらが堅実で、どちらが呑気かなんて、本当はあの数分では分かりません。家に帰れば、それぞれに誰かが食べる夕飯になります。

私は車に荷物を積みながら、次に同じことを聞かれたら、「今は特に減らしてないよ」と言ってみようかな、と考えました。威張るほどのことでも、隠すほどのことでもない。困っているふりをしないだけで、誰かの苦しさを否定することにはならないはずです。

夕方、娘が冷蔵庫を開けて、ぶどうある、と嬉しそうに言いました。私は台所でお米を研ぎながら、あるよ、と返しました。

それで十分でした。

いいなと思ったら応援しよう!