日本の学校いじめとルワンダ虐殺は、なぜ似ているのか――予防を学習できない社会の構造【第5回】
人間は「予防の成功」を学習できるのか
ここまでの連載で、
私たちは何度も同じ結論に触れてきた。
予防は、
理論的にも、技術的にも、設計上も可能である。
それでも、社会は繰り返し失敗する。
その理由は、
「善意が足りないから」でも
「知識が不足しているから」でもない。
人間と社会が、予防の成功を学習できない構造にあるからだ。
成功した予防は「存在しない出来事」になる
予防が成功したとき、
そこに残る事実はたった一つしかない。
「何も起きなかった」
事件は起きなかった。
被害者も出なかった。
ニュースにもならなかった。
だがこの「無事象」は、
評価も、記録も、記憶もされにくい。
何が危険だったのか
なぜ止めたのか
どんな判断が行われたのか
それらは、
結果が出なかったという理由で、
静かに忘れられていく。
人間は「起きなかった出来事」から学べない
人間の学習は、
基本的に結果依存型だ。
失敗すれば、反省する
被害が出れば、対策が進む
事件が起きれば、制度が変わる
だが予防は、その逆にある。
うまくいった瞬間に、学習素材を失う。
これは偶然ではない。
人間の認知特性そのものだ。
目に見える結果を重視する
因果が確定した物語を好む
「何も起きなかった理由」を想像できない
だから予防は、
成功するほど評価されなくなる。
評価されない行動は、やがて消える
社会の中で、
繰り返される行動には共通点がある。
評価されることだ。
だが予防は、評価されにくい。
[行動した場合]
・失敗 → 強く非難される
・成功 → 記憶されない
[行動しなかった場合]
・失敗 →「想定外」「仕方なかった」で処理される
この非対称性の中で、
どちらの選択が残りやすいかは明白だ。
動かない判断が、
最も合理的な行動として保存されていく。
ルワンダも、学校も、この構造の中にある
ルワンダ虐殺の前にも、
兆候は存在していた。
ヘイトスピーチの増加
小規模な暴力の頻発
武器流通の異常
だが、介入しなかった判断は、
その時点ではほとんど批判されなかった。
学校でのいじめも同じだ。
欠席が増える
相談が増える
空気が荒れる
それでも、
「断定できない」という理由で動かなければ、
責任は発生しない。
結果が出るまでは。
これは後知恵ではない
ここで、
一つはっきりさせておく必要がある。
これは、
「あとから賢くなった話」ではない。
予防が学習されない構造の問題だ。
動いた人が損をし、
動かなかった判断が保存される。
この設計のままでは、
どれだけ啓発しても、
同じ失敗は繰り返される。
予防には「社会の記憶装置」が必要だ
では、どうすればいいのか。
答えは単純で、
同時に難しい。
予防の成功を、記録し、評価し、物語化することだ。
なぜその時、動いたのか
どんな兆候を見たのか
何が起きなかったのか
「何も起きなかった理由」を、
意識的に残す。
予防を、
英雄的行為ではなく、
判断の履歴として蓄積する。
次回予告(最終回)
それでも、
悲劇はゼロにはならない。
それでも、
間違いは起きる。
それを受け入れた上で、
なお予防を選ぶ意味とは何か。
**「完璧ではない社会で、
それでも予防を引き受ける理由」**を、
最終回で考えたい。
