日本の学校いじめとルワンダ虐殺は、なぜ似ているのか――予防を学習できない社会の構造【第2回】
因果を待つ社会、相関を無視する社会
私たちは「慎重であること」を、美徳だと思っている。
だから、何かが起きそうなとき、すぐにこう言う。
「まだ分からない」
「断定はできない」
「因果関係がはっきりしない」。
一見すると、とても理性的だ。
だが、本当にそうだろうか。
私たちは、いつ動くのか
社会が大きく動く瞬間を思い出してみるといい。
多くの場合、それは事件や悲劇のあとだ。
「原因は何だったのか」
「なぜ防げなかったのか」。
ここで求められるのは、常に因果関係である。
Aが原因でBが起きた。
この説明が整ったとき、社会はようやく納得する。
だが、この順序には決定的な欠陥がある。
因果がはっきりするのは、
多くの場合、すでに取り返しがつかなくなったあとだからだ。
相関は「弱い情報」なのか
一方で、事件の前には別の種類の情報が存在している。
それが相関だ。
・欠席が増えている
・相談件数が増えている
・言葉遣いが荒れている
・空気が変わっている
それぞれ単独では、決定打にならない。
だが、同時に起きているとしたらどうだろう。
私たちは本当は分かっている。
何かがおかしい、と。
それでも相関は、こう扱われる。
「偶然かもしれない」
「一時的な変化だろう」
「判断材料としては弱い」。
なぜ相関では動けないのか
理由は一つではないが、重要な要因がある。
相関で動くと、責任が前倒しで生まれるからだ。
因果が確定してから動いた場合でも、
「なぜもっと早く動かなかったのか」という責任は残る。
だがそれは、結果が出たあとで、集団に分散されやすい。
一方、相関で動いた場合は違う。
もし何も起きなければ、
「やりすぎだったのではないか」
「過剰反応ではなかったか」
という責任が、即座に、より個人に近い形で返ってくる。
だから私たちは、
相関で動く判断を、無意識に避ける。
ルワンダでは何が起きていたのか
ここで再び、
ルワンダ虐殺
を振り返りたい。
(※第1回で述べた通り、規模や文脈を同一視する意図はない)
虐殺が始まる前、
特定の集団を貶める言葉は明らかに増えていた。
政府系ラジオでは扇動的な放送が常態化し、
小規模な衝突や脅迫は日常になっていた。
武器の流通量は増え、難民の数も増加していた。
これらはすべて、相関としては明確だった。
それでも国際社会は動かなかった。
「まだ内戦とは言えない」
「虐殺が起きると断定できない」。
因果が確定していなかったからだ。
そして、
因果が誰の目にも明らかになったとき、
すでに止めることはできなかった。
学校でも、同じ構図がある
学校現場でも、構図はよく似ている。
欠席日数が増える。
保健室利用が増える。
孤立が進み、言葉の扱われ方が変わる。
これらが重なっていても、
多くの場合、こう言われる。
「いじめと断定できない」
「もう少し様子を見る必要がある」。
ここで社会は、
因果がないことを理由に、相関を脇に置く。
そして重大事態や自殺が起きたあとで、
初めて因果関係が精査される。
慎重さと、判断保留のあいだ
ここで一つ、問いを置いておきたい。
相関で動かないことは、
本当に「慎重」なのだろうか。
それとも、
判断を保留し続けているだけなのだろうか。
因果を待つ姿勢は、
科学的で公平に見える。
だが同時に、
最も安全な立場に自分を置く選択
にもなってはいないだろうか。
相関は「証拠」ではないが、「警報」にはなる
誤解してほしくない。
相関は、誰かを裁くための証拠ではない。
犯人を決める材料でもない。
だが相関は、
状況を一時停止させる理由にはなる。
・いったん距離を取る
・外部の目を入れる
・場をリセットする
こうした行為は、
因果が確定していなくても可能だ。
ただし、
「相関で動く」とは具体的に何を意味するのか。
誰が、どの権限で、どの時点で動くのか。
その設計については、ここでは踏み込まない。
それは、第4回以降で改めて扱う。
次回予告
次回は、
なぜ「相関で動くこと」が
すぐに
「全体主義」「監視」「危険な統制」
と結びつけられてしまうのかを考える。
相関で動かない社会は、
本当に自由なのか。
それとも、
最も遅れて不自由になる社会なのか。
