日本の学校いじめとルワンダ虐殺は、なぜ似ているのか――予防を学習できない社会の構造【第3回】
相関で動く社会は、全体主義なのか
ここまで書いてきた内容に対して、
おそらく多くの読者が、心のどこかでこう感じているはずだ。
「それは分かる。
でも、相関で動き始めたら、危険じゃないか?」
監視社会になるのではないか。
行き過ぎた統制につながるのではないか。
誰かが「怪しい」と判断された瞬間に、自由が奪われるのではないか。
この反発は、もっともだ。
そして、この反発そのものが、
私たちが相関で動けなくなっている理由でもある。
「相関で動く」=危険、という直感
私たちは、次のような図式を無意識に持っている。
相関で動く
→ 早合点
→ 冤罪
→ 全体主義
だから、
「因果がはっきりするまで待つほうが安全だ」
と感じてしまう。
だが、ここで一度立ち止まりたい。
本当に、因果を待つ社会のほうが安全なのだろうか。
全体主義とは、何か
まず、言葉を整理する必要がある。
政治思想としての厳密な定義はいくつもあるが、ここでは議論のために、あえて単純化して捉えてみたい。
全体主義とは、
人を分類し
内面や思想を疑い
従わない者を排除する
そうした統治のあり方だ。
重要なのは、
全体主義の対象は「人」そのものだという点である。
では、ここで言う
「相関で動く社会」はどうだろうか。
相関で動く社会が見ているのは「人」ではない
相関で動く社会が見るのは、
個人の思想や性格ではない。
見るのは、
欠席が増えている
相談が増えている
衝突が増えている
空気が変わっている
といった状況だ。
つまり対象は、
人ではなく、状態である。
ここに、決定的な違いがある。
もちろん、状態への介入であっても、
結果として人の行動を一時的に制限することはある。
だがそれは、人格の否定や排除とは別のものだ。
目的は「人を裁く」ことではなく、
「状況の暴走を止める」ことにある。
ルワンダで起きなかった「介入」
ここで再び、
ルワンダ虐殺
を思い出したい。
もちろん、日本の学校いじめと国家規模のジェノサイドは、
規模も背景も比較にならない。
ただここでは、
「悲劇の前に危険な兆候が積み上がっていたのに、
予防的な介入が十分に行われなかった」
という一点だけを、あえて共通点として取り出してみたい。
虐殺前夜、
ヘイトスピーチは増え、
暴力は日常化し、
武器は流通し、
難民は増え続けていた。
もしこの段階で、
放送を一時停止する
武器流通を抑える
国際的な監視を強める
といった介入が行われていたらどうだっただろうか。
それは、
誰かを思想犯として逮捕する行為ではない。
民族を分類して排除する行為でもない。
空間の暴走を止める行為だったはずだ。
学校で想像してみる
同じことを、学校で考えてみる。
欠席が急増している。
保健室利用が続いている。
からかいが固定化している。
この段階で、
一時的にクラスを分ける
外部の専門家を入れる
人間関係をリセットする
これは、誰かを罰しているだろうか。
思想を検閲しているだろうか。
むしろ逆だ。
何かが決定的になる前に、
誰も傷つかない形で止めている。
なぜ「全体主義」が持ち出されるのか
それでも私たちは、
相関で動くことに強い拒否感を持つ。
理由は一つではない。
過去には「相関」を口実に、
偏見や差別、プロファイリングが正当化されてきた歴史がある。
AIやビッグデータによる監視への懸念も、決して杞憂ではない。
そのうえで、
なお私たちが最後に立ち止まってしまう理由がある。
相関で動く社会では、
「何も起きなかった」場合が必ず生じる。
そのとき、
こう言われる。
「結果的に、過剰だったのではないか」
「そこまでやる必要があったのか」。
つまり、
成功した予防は、後から見ると“無駄”に見える。
これを正当化できない社会では、
相関介入は「危険な統制」に見えてしまう。
自由を守るのは、どちらか
ここで問い直したい。
因果が確定するまで待ち、
取り返しのつかない結果を受け入れる社会相関の段階で止まり、
何も起きなかった未来を引き受ける社会
どちらが、本当に自由だろうか。
自由とは、
事後に説明できることではない。
悲劇を生まない選択肢が残っている状態
そのものではないだろうか。
次回予告
次回は、
**「相関で動く社会を、どう設計するか」**を扱う。
誰が判断するのか。
どの時点で動くのか。
間違えたとき、どう戻るのか。
全体主義にならないための
具体的な条件を考える。
