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みやげものと人生。

カート・ヴォネガットJrの『スローターハウス5』を読んでいて、
妙に気に入った一節がある。

主人公ビリー・ピルグリムの母親について、はこう書かれている。

「みやげもの店で買う品物から意味のある人生をかたちづくろうとするタイプの人間であった」
ハヤカワ文庫「スローターハウス5」P58より引用

私も、旅に出れば何かしら買う。

家の鍵には、ヘルシンキのムーミンショップで買ったスナフキンのキーホルダーが付いている。

おそらく、あれは日本で買えるだろう。
ネットで探せば簡単に見つかるかもしれない。

だが、私にとってあのキーホルダーは、単なるキーホルダーではない。

見るたびに思い出すのは、ヘルシンキの街の空気だ。
石畳を歩いたこと。海辺でカモメを眺めたこと。
その時の自分。

旅の記憶が、小さな金属片の中に閉じ込められている。

昔、異業種交流会で知り合った女性経営者が面白い話をしていた。

彼女は、全国を旅するたびに、その土地で爪切りを買うのだという。

「もう、爪切り博物館が開けるくらい集まった」と笑っていた。

私はその話が妙に忘れられない。

もっとも、その爪切りの多くは、実際には同じような製品だったのではないかと思う。

新潟で買った爪切りも、高知で買った爪切りも、函館で買った爪切りも
おそらくどこか遠くの外国の工場で作られたものだろう。
もしかすると、同じ made in china だったかもしれない。

客観的に見れば、大差はないが、それは、彼女にとっては違う。

それは、
「新潟で買った爪切り」であり、「高知で買った爪切り」であり、
「函館で買った爪切り」だった。

正確には、
新潟を旅した自分。高知を旅した自分。函館を旅した自分。
その記憶が宿った爪切りだったのだと思う。

そこで、ふと気がついた。

ヴォネガットの言葉を少し誤解していたのかもしれない。

みやげものが、人生に意味を与えるのは困難かもしれないが、
人生が、みやげものに意味を与えることはできるのかもしれない。

「反転」して考えてみると妙にしっくりくる。

旅をする。
人と出会う。
何かを感じる。
何かを考える。
その結果として、“みやげもの”が、特別なものになる。

順番は逆なのだ。

もしそうなら、スナフキンのキーホルダーも、爪切り博物館も、
決して、ヴォネガットの皮肉の対象ではない。

むしろ、それらは人生の痕跡なのだろう。

私たちは物を集めているようでいて、
本当は物語を集めているのかもしれない。

みやげもの店に人生の意味は売っていない。

しかし、人生の意味を見つけた人が、その帰り道にみやげもの店へ
立ち寄ることはある。

そして時が経ったあと、その“みやげもの”は、
あの日の自分へ戻るための小さな扉になるのだ。

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