漏洩したパスワードに、賞味期限はない
はじめに
「パスワードを使い回すな」という話は、もう誰でも知っています。
知られていないのは、その先です。使い回したパスワードが、いつまで危険であり続けるのか。 1年でしょうか。3年でしょうか。
答えは「何年経てば安全になる、という期限がない」です。そして、それを一番はっきり示している事例が2012年にあります。
2012年の漏洩が、本当の規模を現したのは2016年だった
2012年、LinkedIn から利用者のパスワードが流出しました。当時公表された規模は 650万件。同社はパスワードのリセットを行い、対応はそこで一区切りついたように見えました。
ところが4年後の2016年5月、ダークウェブの取引サイト「The Real Deal」に、同じ2012年の漏洩に由来する 1億1,700万件のアカウント情報が出品されます。当初把握されていた数の、およそ18倍です。
出典:As Scope of 2012 Breach Expands, LinkedIn to Again Reset Passwords for Some Users(Krebs on Security)
ここで注目してほしいのは、被害の大きさではありません。4年間、誰も本当の規模を知らなかったという事実のほうです。
漏洩した側の企業ですら、2016年になるまで被害の全体像を把握できていませんでした。当然、利用者はもっとわかっていません。1億件規模のデータが存在すると判明するまでに、4年かかったわけです。
値段は、1件あたり0.002円
このとき提示された価格は 5 BTC、当時のレートでおよそ 2,200ドルでした。
出典:Hackers selling 117 million LinkedIn passwords(CNN Business)
https://money.cnn.com/2016/05/19/technology/linkedin-hack/
1億1,700万件で2,200ドルです。1件あたりに直すと、日本円で0.002円ほどになります。
安すぎると感じるかもしれません。ただ、値段が問題の本質ではありません。一度流出したデータは、企業が回収して消去できるものではないという点のほうが重要です。コピーされてしまえば、その後も別の場所に残り続けます。
なぜ、判明までに4年もかかったのか
LinkedIn の経過からは、盗まれたデータが辿る流れが読み取れます。
2012年の流出時点で、情報はすでに攻撃者の手にありました。しかし公になったのは2016年、ダークウェブの取引サイトに出品されたときです。盗まれてから売りに出されるまでの4年間、そのデータは表に出ていません。
この空白が生まれる理由は、価値のあり方にあると考えられます。まだ誰も気づいていない認証情報が、最も価値が高い。 出回っていないほど、当たる確率が高いからです。逆に、広く出回った時点で価値は下がります。
つまり、私たちがニュースで漏洩を知る時点では、攻撃者側ではすでに別の使われ方をしている可能性があります。
そして公になったデータも、消えません。他の漏洩データと突き合わせられ、メールアドレスを軸に統合されていきます。
10年以上前のパスワードが、なぜ今も通用するのか
ここまでは「データが残り続ける」話でした。次は「残っていても、普通は使えないはずでは?」という疑問です。
理由は2つあります。
理由1:人はパスワードを使い回す
Google が Harris Poll と実施した調査(2019年・回答者3,000人)では、次の結果が出ています。
13% が、すべてのアカウントで同じパスワードを使っている
52% が、複数のアカウントで同じパスワードを使い回している
すべてのアカウントで異なるパスワードを使っているのは35%
出典:Google Survey Finds Two in Three Users Reuse Passwords(Infosecurity Magazine)
3人に2人が使い回している。 つまり、あるサービスから漏れたパスワードは、そのサービスの鍵であると同時に、その人の他のサービスの鍵でもある可能性が高い。
漏洩元がパスワードをリセットしても、使い回していた先のサービスは何もしません。 リセットの対象外だからです。
理由2:変えるきっかけが訪れない
パスワードを変えるのは、たいてい「漏れたと知ったとき」です。
ところが、先ほど見た通り、漏れたことを知るのは何年も後です。しかも自分が使い回した先のサービスまでは通知が来ません。
変えるべき理由が発生してから、それを知るまでに数年の空白がある。 この空白のあいだ、古いパスワードは有効であり続けます。
通らなくなったパスワードも、まだ役に立つ
ここまでは「古いパスワードがそのまま通る」話でした。では、変更されて通らなくなったものはどうなるのか。
捨てられません。訓練データになります。
人はパスワードを作り直すとき、ゼロから考えません。末尾の数字を増やしたり、記号を足したりします。つまり古いパスワードは、新しいパスワードの手がかりです。
この推測を機械学習にやらせる研究があります。PassGAN は、実際に漏洩したパスワードの分布を GAN に学習させ、そこから推測候補を生成する手法です。既存のパスワード解析ツール HashCat 単体と比べ、PassGAN の出力を組み合わせることで 51〜73% 多くのパスワードを一致させられたと報告されています(「パスワードの51〜73%を破った」という意味ではありません)。
出典:PassGAN: A Deep Learning Approach for Password Guessing
https://arxiv.org/pdf/1709.00440
その後も、GPT-2 のアーキテクチャを漏洩パスワードで学習させた PassGPT など、後続の研究が続いています。
つまり漏洩したパスワードは、二重の意味で価値を持ち続けます。 そのまま試せば当たることがある。当たらなくても、次を推測する材料になる。変更しても、過去の自分の癖は残ります。
攻撃側から見ると、これは十分に成り立つ商売になる
「10年前のパスワードなんて、ほとんど変わっているだろう」——その通りです。ほとんどは通りません。 それでも攻撃は成立します。
ここで、当然の反論が出てきます。「最近は脆弱性を突く攻撃のほうが増えていると聞く。古いパスワードなんて、もう気にしなくていいのでは」と。
その通りの変化が、実際に起きています。ただし結論は逆になります。
Verizon の Data Breach Investigations Report は毎年、実際に起きた侵害を集計して公開しています。2026年版では、初期侵入の経路として 脆弱性の悪用が31%で1位になりました。認証情報の悪用は前年の22%から 13%まで下がっています。
数字だけ見ると「パスワードの問題は終わりつつある」ように読めます。ただ、同じレポートには続きがあります。
初期侵入に限らず、侵害のどこかの段階で認証情報が使われたケースを数えると39%。これは依然として最多です。
ここでいう39%は「侵入経路」の割合ではなく、「侵害の過程のどこかで認証情報が使われたか」という別の集計です。13%と39%は、数えているものが違います。
出典:Data Breach Investigations Report(Verizon)
つまり、入口が変わっただけで、認証情報は使われ続けています。 最初の一歩が脆弱性になり、そこから先の横移動や権限昇格で認証情報が効いてくる、という形です。
そして前年の 2025年版には、規模を示す数字がありました。
単一サインオン基盤のログを分析した結果、1日あたりの認証試行の中央値19%がクレデンシャルスタッフィング(漏洩した認証情報を大量に試す攻撃)だった
基本的なWebアプリケーション攻撃の88% が、窃取された認証情報を使っていた
ランサムウェア攻撃者が公表した被害組織のうち54%で、その組織のドメインが情報窃取マルウェアのログや、認証情報が売買されている場所に確認されていた
出典:2025 Data Breach Investigations Report(Verizon)
https://www.verizon.com/business/resources/reports/2025-dbir-data-breach-investigations-report.pdf
Verizon が分析した単一サインオン基盤では、認証試行の約5回に1回がクレデンシャルスタッフィングでした。「たまに起きる攻撃」ではなく、常時流れている背景ノイズに近い。
そして、試行のコストが十分に低ければ、成功率が1%を下回っても成立します。1件あたりの取得コストが極端に低ければ、当たる確率が下がっても大量に試せるからです。だから、古い認証情報にも「試してみる価値」が残り続けます。
「使い回すな」と言われても、覚えられない
ここまでの話で「使い回しが危ない」のは分かっても、実行できるかは別です。サービスごとに違うパスワードを作ったところで、覚えられません。
答えは単純です。覚えるのをやめます。
1. まず、メールアカウントを守る
やることを1つだけ選ぶなら、ここです。
ほとんどのサービスは、パスワードを忘れたときにメールで再設定します。つまりメールアカウントは、他のすべてのアカウントの合鍵を作れる場所です。ここが落ちると、他が全部落ちます。
メールに多要素認証(MFA)をかけてください。パスワードが漏洩リストに載っていても、パスワードだけでは入れなくなります。
2. パスワードマネージャーで、覚えることをやめる
パスワードマネージャーは「強いパスワードを作る道具」だと思われがちですが、本質は「覚えなくてよくする道具」です。
覚えるのは、マネージャーを開くための1つだけ。残りは全部、機械が作って機械が覚えます。サービスごとに完全にバラバラなパスワードになるので、1箇所漏れても他に波及しません。
先ほどの Google の調査では、パスワードマネージャーを使っていると答えたのは24%でした。
専用のサービスを入れるのが面倒なら、ブラウザやスマートフォンに最初から入っている管理機能でも構いません。何も使わないよりはるかにましです。
「マスターパスワードを忘れたらどうするのか」という不安については、これだけは使い回さない前提で、紙に書いて自宅の安全な場所に置くのが現実的です。攻撃者は自宅の引き出しではなく、漏洩リストから来ます。
3. パスキーが使えるサービスは、移していく
パスキーは、サーバー側に「使い回せる秘密」を置きません。秘密鍵そのものはサービス側に渡さず、サービスに登録されるのは公開鍵だけです。
サービスが漏洩しても、そこから他のサービスの鍵は作れません。 パスワードのように「漏れて、使い回されて、10年後に試される」構造そのものが成立しなくなります。
対応しているサービスは増えています。ログイン設定にパスキーの項目があれば、そこから移していくのが一番確実です。
自分が載っているかは、確認できる
ここまで読んで気になるのは「自分はどうなのか」だと思います。確認する手段があります。
Have I Been Pwned は、公開された漏洩データを集約して検索できるようにしたサービスです。メールアドレスを入力すると、どの漏洩に含まれていたかが分かります。
ただ、パスワードそのものを調べる機能については、当然こう思うはずです。「パスワードを他人のサイトに入力するのか」と。
そこは設計で解決されています。k-匿名性(k-anonymity) という方式です。
入力されたパスワードを、ブラウザ側で SHA-1 ハッシュにする
そのハッシュの先頭5文字だけをサーバーに送る
サーバーは、その5文字で始まるハッシュの一覧を返す
照合はブラウザ側で行う
先頭5文字が一致するハッシュは、通常800件ほど返ってきます。その中から自分のものを探す作業は、すべて手元で行われます。
パスワードそのものも、完全なハッシュも、サーバーには送られません。
出典:Understanding Have I Been Pwned's Use of SHA-1 and k-Anonymity(Troy Hunt)
この方式は、パスワードを外部にそのまま送らずに漏洩履歴を確認するための実用的なやり方として使われています。
まとめ
2012年の LinkedIn 漏洩は、4年後に規模が18倍だったと判明した。漏洩した企業ですら、自分が何を失ったか把握できていなかった
私たちがニュースで漏洩を知る時点では、攻撃者側ではすでに別の使われ方をしている可能性がある
3人に2人がパスワードを使い回しており、漏洩元がリセットしても使い回した先は手つかずで残る
通らなくなったパスワードも捨てられない。 次を推測する訓練データになる(PassGAN で 51〜73% の上乗せ)
Verizon DBIR 2026 では、初期侵入の1位が脆弱性の悪用(31%)に変わり、認証情報の悪用は13%に低下した。ただし侵害のどこかで認証情報が使われたケースは39%で依然として最多
取得コストが極端に低ければ、成功率が下がっても大量に試せる。だから古い認証情報にも試す価値が残る
対策は「覚える」ではなく「覚えるのをやめる」。メールにMFA → パスワードマネージャー → パスキーの順で効く
Have I Been Pwned で、自分が載っているかは確認できる。パスワード検索は k-匿名性により、パスワードもハッシュ全体もサーバーに送られない
自分が使っているパスワードが、過去のどこかの漏洩データに含まれていないか。これは推測するしかないものではなく、確認できるものです。Have I Been Pwned には、今後新しい漏洩が見つかったときにメールで知らせる機能もあります(無料)。
ただし、登録しなければ通知は届きません。 確認するかどうかは、こちら側で決められます。
「いま盗まれたものが、後になって効いてくる」という構造は、暗号の世界にも同じ形で存在します。いま暗号化されている通信を保存しておいて、将来の計算能力で解読する、という考え方です。そちらも整理しています。
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セキュリティの話を、できるだけ前提知識なしで読める形に整理して書いています。同じように学び直している方の参考になれば嬉しいです。
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