post festum通信 カロリーの悪魔祓い

2月13日(金)

仕事の夢から目覚めて朝を迎える。アクシデントが重なり仕事がなかなか始められず、しかもそれを見張られている。覚めた直後から気分が重い。特別悪夢というわけでもなく、ありきたりな不自由に支配された夢らしい夢だった。それでも何かが引っかかるようで、気持ちの底がずっと晴れない。

この頃は朝の日課にしている翻訳が、今日は捗る。その最中、インターホンが鳴る。宅配ですと言われ、受け取ったのは立方体の大きな箱。くまモンが描かれた箱、もしかしてと思うとやはり、晩白柚、と書かれている。ばんぺいゆ。
わたしの調子が二月に入った辺りから、明らかにおかしい。といっても二月はわたしによって魔の季節である。如月の鬱はわたしの尋常で蛸を頭に載せてる心地。そう詠ったのがコロナ前だ。だからもうずっと、この季節になるたびに頭に蛸を載せている。蛸は年によって小蛸もあれば大蛸もある。なんなら小蛸を曲芸のようにいくつも載せていることもある。今年はどうだろう。頭に載せている間は当人にはあまり見えないのである。
送っていただいた晩白柚は、そのお見舞いであろう。子どもの頭くらいの大きさはあり、鮮やかに黄色い。香りもよく、触れるとその爽やかな香りがしばらくは指先に残る。とりあえずは書斎机脇の小さな本棚の上に飾る。ばんぺいゆという音は、万事平癒、という音に近い。病人としてはありがたい音である。実際、熊本では魔を追い払う果実でもあるらしい。わたしの頭の上の蛸を少し追い払ってもらうことにする。

午後、食材を買いに出る。先日見つけたゲンゲはあるだろうかと駅ビルの地下へ降りるが、今日はまったく見当たらない。西も東も、どちらもない。文字通りに幻魚である。売っていたら今度は揚げ物にしてみようと思っていたので、残念だ。揚げ物というのはカロリーがいる。このカロリーとは食べるときのあれではなく、作り手のカロリーである。
なんだろう、料理を作りたいという衝動や熱の中にはカロリーとしか呼べないものがあって、これに駆られると力強いものが作りたくてたまらなくなるのだ。丁寧なものや、手の込んだものではなく、パワーでなぎ倒すようなものを作りたい衝動といえば伝わるだろうか。映画「カリオストロの城」でルパン三世が食す、ミートボールスパゲッティのような、あんな武骨な力のかたまりをつくりたい、淡々と出汁なんて引いている場合じゃない、そんな気持ちをわたしはカロリーにやられた状態と呼んでいる。で、今日はどうやらそれらしい。
悪魔祓いのために揚げ物がしたいのだ。気持ちはフライ・ミー・トゥー・ザ・ムーンと洒落こんで、ゲンゲ以外にいまのわたしの悪魔を払ってくれる魚を探す。メカジキとマグロの加熱用の切り身、これにしよう。そもそもこやつらは魚というには肉肉しい味である。ゲンゲのような繊細さとも違って、がっつり肉感がある。むしろこのカロリー悪魔祓いにはうってつけかもしれない。

帰宅して、今日も道路・河川の中継番組をつけて、しばらく眺める。徐々に暮れてゆく光を、テレビのある陽射しの入らない部屋のテレビで眺める。それぞれのカメラが映す夕暮れの具合は、どれも素晴らしい。終わりというものはいつだって美しいのだろう。小さな川にかかる橋の上で、立ち止まる女性が映った。スマホをいじるわけでもなく、ただ、そこに、橋の上に、立っているだけの女である。たぶん、この日見た最も美しいショットである。

メカジキとマグロは下味をつけて、ひよこ豆のパウダーを多めに入れた竜田揚げにした。ひよこ豆のおかげで食感がだいぶ変わり、さくっといく。それに香りもどこか香ばしい。そうやって作りながらも、魔が晴れない。悪魔祓いがうまくいかない。揚げたそれなりの量の肉をすべて、このまま一気にゴミ箱にぶち込もうかと考える。
やはりおかしくなっているのだ。蛸が頭の上に何匹か載っている。うねうね動いている。そいつらを茹蛸にすべく、風呂に本を持って入り、ゆっくりつかって、読む。嵐山光三郎『素人庖丁記』。料理の本はどれも憂鬱に効く。そう思って最近は意識的に読んでいる、というか仕事で読んでいるものを別にすると、最近は食の本しか読んでいない。この本も毎日少しずつ、いただいた旨い酒の肴をつまむように読んでいる一冊だが、今日も面白い。
少し前に読んだ、テキーラのグラスに塩を塗るように、コップの飲み口のふちにカレーのルーをぬりつけて飲む、嵐山特製のカレー焼酎の話もなかなかだった。今日の泥鰌豆腐を作ろうと泥鰌を買ってきてあれこれ実験しているところへ家族が帰ってきて、異常性格者だと怒られる話には笑ってしまう。
泥鰌豆腐についていちおう書くと、吉四六さんか彦一さんか、そんなとんちばなしで昔読んだが、鍋に豆腐と泥鰌を入れて火にかけると、泥鰌が暑さから逃げるために豆腐に首を突っ込むというやつだ。
だが嵐山がやってみた結果、泥鰌は暴れて豆腐を崩したらしい。だが嵐山は諦めない。ぬるま湯に泥鰌を放ち、そこへ冷えた豆腐を入れて徐々に熱するとできるとか、酢をすこし入れるとできるとか、そんな説を信じて、彼は20匹の泥鰌を買ってきて試そうとするのだ。たしかにこれは、「異常性格者」である。
だがそれよりどうかしているのは、息子の飼っていたおたまじゃくしを柳川風にして食べた話だ。素人庖丁記という題は、料理を初心者の楽しみをつづった随筆を思わせるが、そういったものから本書は程遠く、豪快に破天荒である。だがこの破天荒はただ無軌道なわけではない。泥鰌豆腐を、わざわざ泥鰌20匹と豆腐2丁を用意してやる人の破天荒は、根っからの破天荒とはやはり本質的に異なるのだ。常軌を逸した実験精神と言った方がよく、ここにはそれとは裏腹の強い規範意識もまた透けて見えてくる。
実際この本を読んでいてわかるのは、嵐山のその読書量のすさまじさである。そして時に、あれ、この破天荒はあのエピソードの応用であろうと、この手の食の随筆が好きな者からすれば、推察できるものも出てくる。
ふと思い出したのは、深沢七郎との関係である。彼はある時期から深沢に異常なまでに嫌われる。やはり嵐山の書いた伝記的小説『桃仙人』に詳しいが、二人とも似た気質を持っているのだろう。それをインテリ嫌いのインテリと片づけるのは、やはりなんだか批判めいた立ち位置からの冷笑のようで、好きではない。深沢はおいておいて、このエッセーを読みながら、嵐山は江戸の文人のようだと思った。江戸時代の、今のエッセーとは異なる意味での、随筆なるジャンルの筆をとっていた人たち、あのタイプの人なのではないか。と書きながら、わたしは江戸の文人の随筆を、ろくに読んだことはない。

風呂上り、週末のおでんのための仕込みをはじめる。わたしはおでんを作るとなると、二日がかりで作る。とりあえず今日は、大根を下処理し、出汁をとりおでんのつゆを作り、そこに大根を入れて味を吸わせるまではやりたい。22時を回って、武田砂鉄のラジオをかけながら、大根の桂剥きをする。この皮はかつをぶしと一緒に、明日炒めるのでとっておく。面取りをして、味が染みやすいように、筋を入れる。出汁は濃い目に、かつをぶし30グラム近くを使う。せっかくだから、いまほうれん草も茹でて、この出汁でおひたしにしようかと、また別の鍋を出す。
ああ、さっきのカロリーの悪魔祓いとも違う、落ち着いた気分で食材と向きあえている。いま、庖丁が、鍋が、食材が、すべてがわたしに語りかけてきている。週末の夜の仕込み、わくわくする。

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