「上質」を外注するのではなく、自ら創り出そうと思える場所、他郷阿部家
「旅は非日常よりも、上質な日常」──。
郡言堂の創業者である松場登美さんの著書「過疎再生」に出てきたこの言葉を、大森町に二週間滞在する中で何度も何度も反芻した。知らない場所に滞在することは、それだけで非日常の刺激がある。けれど大森町の暮らしは自分の普段の暮らしとも地続きになっていることをたびたび感じさせられたからだ。
ただ行って楽しかった、いつもと違う場所に行けてリフレッシュした、と終わらせるのではなく、自分の暮らしに何を持ち帰ることができるだろうと考える。大森町には、そんな穏やかな内省の時間が流れている。
なかでも一番感銘を受けたのが「他郷 阿部家」での体験だった。郡言堂さんの世界観の象徴とも言える、隅々まで美意識が行き届いた宿。古民家をただおしゃれにリノベしたのとは違う、時間をかけて出来上がったからこその凄みのある空間。やっぱり「ほんもの」は一朝一夕には出来上がらないのだとあらためて痛感した。
隅々まで美意識が行き渡る宿・他郷阿部家へ。
— 最所 あさみ(asami saisho) (@qzqrnl) November 12, 2025
空間が美しいのはもちろんだけど、230年の家屋の歴史とそこに真剣に向き合って何十年もかけて手入れをしてきた登美さんの人生そのものが乗った、どっしりとした家。… pic.twitter.com/hEybztYqyQ
他郷 阿部家のHPには、登美さんのこんな言葉が載っている。
"ここには贅沢はありません
忘れかけていた豊かさがあります"
まさに、贅沢と豊かさの違いを肌で感じることができるのが他郷 阿部家という宿だ。

他郷 阿部家の宿泊料は決して安くない。同じ値段を出せば、高級旅館やラグジュアリーホテル、リゾートのオールインクルーシブヴィラにも泊まれるくらいの価格帯だ。
そういった高級な宿ではあらゆるサービスがきめ細やかに提供され、貴族か王族かと思えるような時間を過ごすことができる。でも私たちのほとんどは貴族でも王族でもないので、その贅沢さはあくまでひとときの夢、つかのまの非日常である。
対して他郷 阿部家では、お部屋まで上げ膳据え膳で食事を持ってきてもらえるわけではないし、24時間いつでもなんでも要望を聞いてくれるコンシェルジュがいるわけでもない。
それでもこの宿に泊まることが豊かな経験として満足度高く感じられるのは、古い武家屋敷を再生した空間の美しさだけではなく、そこで生み出される人とのつながりによるところが大きいのではないかと思う。
他郷 阿部家では、夜ごはんと朝ごはんを他の宿泊者も含めて、「みんな」で食べる。夜ごはんには登美さんをはじめ、創業家の誰かが同席する仕組みになっている。

一般的に、高価格帯のホテルは他の宿泊客と顔を合わせる機会を極力減らすようにデザインされていることが多い。自分たちだけの特別な空間に邪魔が入らないことが「贅沢」のひとつの要素でもあるからだ。
けれど他郷 阿部家では逆に、他者との交流が積極的になされる。たとえ初めて会う人であっても、今日この場に居合わせたもの同士が仲良く食事を囲むのは「豊か」な時間である。
そう強く信じているからこそできる仕組みなのだと思う。

左端はもう一組の方に差し入れしていただいたごま豆腐。
今回、私は二組のご家族と同席させてもらった。はじめはどんな方々なんだろうとドキドキしていたけれど、この宿に泊まる時点で本当の豊かさや長く続くものへの価値、人の温かさへの価値観が近しい方々なので、あっというまに打ち解けて楽しい時間を過ごした。
何より驚いたのが、結果的に宿泊者全員がそれぞれ「もてなし」を用意していたこと。
ひと組のご家族からは大森町名物のごま豆腐をいただき、夕食時に一品追加のかたちで振る舞ってもらった。また、もうひと組のご家族からはその地域で代々作られているという貴重などぶろくをいただいた。
こうなったら私もなにか提供しなければ…!ということで、ちょうど持参していた中国茶を淹れてお出しした(実技試験以来はじめて人に淹れたので緊張で震えつつ…笑)。
このもてなしの連鎖はたまたま生まれたものではあったけれど、私の心に深くじんわりと残った。
高級宿ではじめましての宿泊者同士が食事を共にするのも珍しいけれど、さらにその場でそれぞれが自分なりの「もてなし」をする、というのはなかなか起きることではない。
でもこれまでにもこういったことがたくさん起きてきたんじゃないだろうか、と私は思った。
他郷 阿部家で時間を過ごしていると、何かしてもらうことをただ受動的に待つのではなく、むしろ自分もその場をさらによくするために参加したいと能動的な感覚が湧いてくる。人を喜ばせることこそが自分自身の喜びにつながるという当たり前のことが、考えるまでもなく身体で理解できるようになる。
人の優しさや親切心を自然と引き出す魔力が、この宿にはある。

都会で過ごしていると、親切心を発揮したくても「逆に迷惑かもしれない」「変に怖がらせるかもしれない」とブレーキをかけてしまうことが多々ある。席を譲るとか、電車やバスの乗り降りをちょっと手伝うとか、そういう一瞬の判断に迷った結果、私の中の「親切」は萎んで消えてしまう。
でも他郷 阿部家ではそんなブレーキをかける必要がない。みんなが親切心を発揮することにためらいがないし、だからこちらも恐縮しすぎずありがたく受け取れるし、自分もまたためらいなく人に親切にしようと思うことができる。
自分の親切心に自信が持てるようになること。
それが今回私が他郷 阿部家に宿泊して一番感じた「豊かさ」だった。
もちろん、親切は時にいきすぎておせっかいやありがた迷惑になってしまうこともある。でもそれも含めてやりとりしながら軌道修正していくことがコミュニケーションであり、人と人が関わる豊かさなのではないかと思う。
自分が「いい人に見えるため」ではなく、本当に相手を想って行った親切は、相手からの反応に合わせて修正してく柔軟性を持ち合わせているはずだからだ。
そして登美さんをはじめ、松場家のみなさんはこのコミュニケーションの豊かさを本当に楽しんでいるのだなと改めて思った。
毎日ではないにしろ、月に何回も知らない人たちと夕食を共にするのは大変なときもあるんじゃないですか、と郡言堂代表の松葉忠さんに聞いてみたら「でも結局、楽しいから続いているんですよね」と返ってきた。
そう、まさにあの夕食の時間は、登美さんや忠さんにとって義務ではなく楽しみとして参加されているからこそ、私たち宿泊者も心からくつろいで過ごせたのだと思う。
たとえば他郷 阿部家に行って、この夕食を共にする仕組みだけを真似しようと思ってもきっとなかなかうまくいかない。そもそも登美さんが自宅として暮らしてきた歴史があって、その延長として自宅に人を招いたときのような夕食の時間がある。もともとやってきたことの延長だからこそ無理がない。だから人を疲れさせない。
はじめて他郷 阿部家を訪れた6年前、私は「疲れさせないことの価値」について書いた。
冒頭の登美さんの言葉に戻ると、他郷 阿部家は「上質な日常」だからこそ疲れさせないのだと思った。日常は、日常だからこそ刺激的すぎない方がいい。でも日常だからこそ、じんわりと染み渡ってくる上質さ、豊かさが欲しい。
他郷 阿部家は空間も料理も素敵なので、この設えを真似したいとか、この料理を再現したいとか、つい枝葉の部分に目がいってしまう。けれど私たちがこの宿から学び、私たち自身の「日常」に持ち帰るべきは、疲れさせるほどの刺激は作らず、けれど穏やかに幸せを感じられるような空間を、自分なりに作っていこうとすることなのではないかと思うのだ。

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