「ラグジュアリー」が再定義される時代に
ラグジュアリーとは何なのか?
「知性ある消費」を掲げて発信する中でたびたび考えてきた問いである。一般的には欧州を中心としたラグジュアリーブランドが想起されることが多いワードだが、自分が百貨店のラグジュアリーフロアで働いた経験からも、それだけがラグジュアリーのすべてではないのではないか、と考えるようになった。
価格が高いこと、コレクションに出ていることだけが「ラグジュアリー」ではない。特に日本のブランドやものづくり企業がラグジュアリーブランドを目指すとき、既存の欧州ブランドの後追いをする意識でよいのか?そもそも「ラグジュアリー」の定義をしなおすことが必要なのではないか?
そんな課題意識から5年前に書いたのが日本的な「ていねいな暮らし」もラグジュアリーの一種なのではないか、という視点だった。
既存のラグジュアリービジネスは貴族の暮らしを憧れとして庶民に見せることで、世界的な中産階級のボリュームの増大とともに成長してきた。この階級と憧れの仕組みを使ったビジネスモデルは今後も一定の有用性を持ち続けるだろうが、先進国が経済的に成熟し「豊かさ」の方向性は上昇だけではないという価値観も広がってきた今、ラグジュアリーのあり方も変化していくのではないか。
長年考えてきたこの問いに対して、ラグジュアリーは「大衆化」ではなく「民主化」を目指すべきだったのではないか、という考え方を提示してくれたのが最近読んだ「新ラグジュアリー」だ。
できるだけ多くの人が、美しいものや美味しいものを同等に享受できる社会。私たちはそれが理想であり、目標だと信じてきました。適度な低価格帯でそうしたモノやコトを提供することは称えるべきこと。最終消費財におけるイノベーションとは「大衆化」の実現であるとみられてきました。でも、実現してみると、やや索漠とした風景が目の前に広がっていたのです。
なぜ、ここで「大衆化」と括弧に入れたのか。実は社会が目指すべきは「民主化」であったのではないかとの反省があるからです。
大衆化は、上下のある中で上にあるものが下に降りてきて広く普及すること。民主化は、上下そのものをなくし、かつ公平な機会のもと、新しい価値を人々の創造意欲によってつくり出すことです。
100年前まではほんの一握りの上流階級にしか手に入れることができなかった貴重なものたちが、お金さえあれば階級の別なく手に入れられるようになった。この「大衆化」は私たちに美しいもの、価値あるものとの出会いの機会を増やした。その一方で、消費記号論で論じられているようにそのものの本質的な価値から離れて、ブランドが富や権力の顕示欲のために消費される現象も生み出した。
これはそれぞれの人が置かれた状況や嗜好性に関わらず、ひとつの「正解」が設定され、その正解手に入れることを目指すべきとする価値観が根底にあるのではないかと思う。
しかし社会が成熟したことで、私たちの価値観も変化しつつある。
世間によいとされているものを手に入れるだけでは空虚感は埋まらないこと、自分なりの幸福の価値観をつくりあげていく必要があること。
「Well-being」への関心の高まりは、目指すべき幸福な状態は画一的なレールの上にあるのではなく、それぞれが見つけ出していくものであるという気づきからきているように思われる。
心地よい、満たされた状態は人によって異なる。であれば、「ラグジュアリー」だと感じるモノやコトも人によって異なるはずだ。
「新ラグジュアリー」の中でも、「ラグジュアリーの認知は地域の文化によって異なり、統一的に捉えられるものではない」という話が出てくる。
そもそもそれぞれの国ごとに宮廷文化も異なり、気候風土が変われば暮らし方も違うし、宗教観が変われば何を至高とするかの感覚も変わる。憧れの対象も道徳観も地域ごとに異なるにも関わらず、欧州ラグジュアリーこそがラグジュアリーの頂点である、という世界観が続いたことが歪だったのかもしれない。
いえ、もともと、ラグジュアリーと「ラグジュアリーブランド」は別物だったのです。
日本でも「日本発のラグジュアリーを」と掲げられることが多いが、それは単に現在の欧州ラグジュアリーブランドのように高単価のアイテムが一定のボリュームで売れる仕組みを作りたい、という話であることが多い。たしかにラグジュアリービジネスの観点で彼らから学ぶことは多い。ヘリテージや手仕事の価値をきちんとビジネスになるように伝えることはラグジュアリーや文化を伝え残していく上で必須の能力であり、この数十年で蓄積されてきた手法は価値がある。
その一方で、そもそも自分たちが思うラグジュアリーとは何なのかを自ら再定義することなく手法だけ学んでも、いつまでも後追いのままでしかないのではないかという思いもある。
さらにいえば、冒頭で紹介した「ていねいな暮らし」のように、価格が高いことだけがラグジュアリーではないのではないかと私は思っている。たとえ豪邸住まいでなくとも、すっきりと始末よく暮らしている人や、古民家を手入れしながら暮らしている人にも私たちは美しさを感じる。全員がビバリーヒルズの豪邸を目指すことがラグジュアリーなのではなく、その土地らしさを受け継ぎながら暮らしていけることもまたラグジュアリーなのではないか、と。
それぞれの土地で異なる「ラグジュアリー」が発展していくことこそが文化の豊かさであり、お互いにその違いに敬意を持ち、学び合い影響を与え合っていくことが次の豊かさにつながっていく。これからのラグジュアリーは、こうした営みの豊かさも含めた意味へと変容していくのではないだろうか。
「新ラグジュアリー」の中で、ラグジュアリービジネスは歴史や文学、地理、哲学、倫理などに根差した人文系発のビジネスである、という話が出てきた。これまで私たちの暮らしを飛躍的に豊かにしてきたのは技術発のスタートアップビジネスたちだが、ここから本格的に豊かさやWell-beingを考える上では、技術の発展と同じくらいにそれをどう捉え、活かしていくかの考え方が重要になってくる。
価格が高いもの、新しいものに価値があると漫然と受け取る時代は終わり、それぞれが自分自身の豊かさ、贅沢さ、満足につながるものを定義し、見つけていく時代に変化していくなかで、「ラグジュアリー」のあり方はどう変化していくのか。
本を読んでさらにこのテーマを深めていきたいと思っていたところで著者の安西さんとお会いする機会があり、10月から始まる3ヶ月のオンラインプログラムをご紹介いただいたので、来月からこのプログラムを通して自分なりに学びを深めていこうと思っている。
そこで学んだことはまた改めてnoteにも書いていくつもり。
「知性ある消費」の中のひとつのテーマとして、「新ラグジュアリー」のあり方、生み出し方について引き続き考えていきたい。
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