短編小説『演劇』#シロクマ文芸部「夜桜と」
夜桜と君は似ている。雨雲に晒された帰り道の中、傘を差し僕は一人思う。
考えたくない寂しさを患いながら。
僕は教室の後ろから三番目に座り、本を読んでいた。新鮮な空気。見覚えのある机と椅子。まっさらな掲示板。着慣れない学生服。履き潰したスニーカー。皆が皆同じ格好で不安の霧に新しい自分を探し始めている。伸びすぎた前髪から見た教室は、淡水と海水の境目みたいな曖昧な空気が占めていた。
四月の憂鬱はたった一つの理由のせいで起きていると思う。それは自己を強いられることである。限られた時間の中で、無色から有色に、蕾から花に、背景から演者に、とただ淡々と変化させられていく。その息苦しさが疎ましい花曇りの空みたいに僕らを縛り付けている。狭い世界で吐いた息が深く沈んだ。
「まずは、皆さん入学おめでとう。私は………」
先生の常套句が過ぎ去り、自己紹介が始まる。あいうえお順に一人ずつ簡略化されたマニュアルを教室に投げかける。無意味な視線と温度を持たない空気の中、言葉が萌芽(ほうが)していく。刻一刻と自分の番が迫る。
「空谷菜月(そらたになつき}です。えっと、好きな食べ物はパンケーキです。えっと、一年間よろしくお願いします」
と前の席から清涼飲料水みたいな透き通った声が、僕を突き刺した。泡が弾けるみたいな心地いい痛みだった。きっとこの狭い世界の主役なのだろう。
「田村彰人(たむらあきと)です。えーっと、好きな食べ物はカレーです。よろしくお願いします」
とデクレッシェンドな声で、ただ間を埋める。順番が後ろに回り、安堵と後悔が僕の幼稚さを知覚させる。僕は脇役に割り振られたのだろう。耳鳴りみたいに透き通った声が鼓膜に張り付いている。
退屈なレクリエーションが終わり、教室の中はそれぞれがあらゆる情の糸を紡ぎながら帰路につき始めていた。窓の外では春時雨が四月の憂鬱を書き換えている。前の席では、空谷さんがガサゴソと茶色のバックを漁っている。
折り畳み傘を持ちながら、僕は視線を君の背中に向ける。肩にかかった黒髪がとても艶やかに見えた。心臓が激しく、脈を打つ。か弱い理想をどす黒い不安がおおう。くぐもった雷雲が桜並木を覆うみたいに。
それでも一縷の望みにすがるように
「ねぇ、あのさ、これ、もしよかったら使いませんか?」と不慣れなアドリブを空谷さんに投げかけ、折り畳み傘を差し出す。
「えっと、ホントにいいんですか?」と君は不安げに聞き返してくれる。瞳のキャンパスに僕の姿が映る。
「うん、全然大丈夫、家近いから」と僕は簡単な嘘を吐く。
「ほんと、忘れちゃったからうれしい。ありがとう」と空谷さんは笑ってくれる。晴れ間から覗く太陽みたいな笑顔だ。
「どういたしまして、僕先行くね」と笑いかけながら言う。
気まずくなった空気から這い出ようと荷物を肩にかけ、教室を出ようとすると。
「うん、また明日ね」とはにかみながら君は言った。あまねく空想が輪郭を象った瞬間だった。
「また明日」と僕はぎこちないセリフを言った。きっとそう長くはない永遠を願う言葉だった。
排気ガスが漂う夜桜の下。持て余した左手に傘を持ちながら。
主役のいない世界をただ生きている。
小牧幸助さまの企画 シロクマ文芸部「夜桜と」に参加させていただきました。 よろしくお願いいたします。
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