小林信彦『アメリカと戦いながら日本映画を観た』(2)

読んだのは1995年原著の2019年の文庫版である。小林が自身の体験を回想し赤裸々に語り、興味深い記述がところどころにある。実際に観た記憶と、後にビデオで確認したことが混じっているが、映画がどのように受容されたのかがわかる。

「<米英的>なるものを求めて」で、前章で予告した『待って居た男』の話を続けている。これはマキノ正博監督と小国英雄脚本による時代劇ミステリーで、『昨日消えた男』の姉妹編にあたる。長谷川一夫が名推理を披露するのだが、『男の花道』と役柄における揺れ幅が、長谷川の持ち味だろう。相手役となったのが、山田五十鈴である。

小林はここに「米英的」なるものを見出す。それは夫婦が推理合戦をするところである。妻は天才目明かしの娘で、推理には少しばかり自信がある。それが見当外れだと、一見凡庸な夫が指摘して、名推理を披露するわけだ。元ネタを小林はこう指摘する。

夫婦抜きつ抜かれつの探偵合戦といえば、これはもう、いやでも、ダシール・ハメット原作のーーというよりはW・S・ヴァン・ダイク監督の
「影なき男」、ウィリアム・パウエルとマーナ・ロイの名コンビを想い出さざるを得ない。/ 調べてみると、「影なき男」は日本では一九三五年(昭和十年)に封切られている。

アメリカと戦いながら日本映画を観た

ハメットの『影なき男』1934は、『血の収穫(赤い収穫)』や『マルタの鷹』に比べると低く見られるが、人気の点ではいちばんなのかもしれない。映画は続編も作られ、ハメットがシナリオや物語を提供している。

とはいえ、これはあくまでもアメリカにおいての話で、日本ではどうも今ひとつに思える。クリスティによる1922年の『秘密機関』に始まる夫婦ものスパイの「トミーとタペンス」シリーズが盛り上がらないのにも似ている。このあたり英米と日本との趣味の違いを感じさせる。

『影なき男』は、小林の原著が出された1995年に、新訳が小鷹信光によって出版された。惹句は「都会小説風に描く異色作」となっている。小林が『待って居た男』を評価しているのは、製作者が面白さのツボを引き抜いてきて時代劇の設定に当てはめる手腕と、きちんとしたミステリー仕立てになっている点だった。

今観ても、原作となった小説よりもキャラクター関係がコミカルに処理されていて、都会風が強調されている。

小林の本のこの章で取り上げられ、特筆すべきなのは、ドキュメンタリー映画「空の神兵」とアニメ「西遊記(鉄扇公主)」の二本立てが9月10日に封切られたことだろう。小林少年がどちらにも反応したのが回想される。小林は軍歌全般を嫌うが、高木東六の曲は好ましいとする。

「空の神兵」は鶴田吾郎による戦争画「神兵パレンバンに降下す」でも知られる。併映された「鉄扇公主」は、中国の万兄弟によるもので、フライシャー風のものだった。小林はディズニーの長編アニメが輸入されず、国産の長編もなかったので、当時の子どもたちの渇望を満たしてくれた、と回想する。

二本が併映されたことは興味深い。「西遊記」ネタに基づく中国アニメが長編として提示したことだ。小林は、「<皇紀二千六百年>十一月のモダニズム」の章で、11月10から14日の5日間の休みを回想している。そこで上映されがのが、山本嘉次郎監督による『孫悟空』前後編だった。円谷特撮が活躍したことでも知られる。

まさに「空の神兵」のドキュメンタリーと、アニメーションという手法が交差したところに、後に手塚治虫を含め多くの人に影響を与え、神話化されるアニメ映画『桃太郎海の神兵』が製作された。公開されたのは1945年のことだった。

現時点からこうした作品群を論じるとどうしても平板になってしまうが、同時代性を体験した者の目を通してだと違った文脈が見えてくる。二本立てや三本立ての併映作品というのは重要なのだが、日本ではあまり注意が払われることがない。



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