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イエスマンじゃなくなった日、わたしが受け取ったもの。

NPOの中で行っていた、とある事業の責任者という職務。
前職の経験を語ろうとしたら、このエピソードが一番に思い出される。

一般的には、順を追って、少しずつ昇格させるのだろうけれど、わたしの場合は、事情が事情だっただけに、断ることが出来なくて、請け負うことにした。


あの時のわたしは、あまりに未熟で、今思うと、つっこみどころが満載なのだけれど、それでも、結婚3年目、夫婦ふたり暮らしだったわたしなりに、プライベート全てを犠牲にして、その時のエネルギーを全て注ぎ、1年半をやり切った。



あの頃、寝ても覚めても直面していた、悔しさ、みじめさ、そして未熟さ。

そんな小さくも脆い責任者を支えてくれたのは、「支えるために、勤務日を増やします」と覚悟を決めてついてきてくれた、たったひとりの同僚だった。


わたしは、この同僚に、どれだけ支えられたかわからないし、離れた今でも、その同僚への感謝の気持ちを忘れたことはない。

ちなみに、この一文を入力しただけで、わたしは涙を流している。
この後、書き進めていく内容を想像しても、涙は止まらない予感である。

前職を去ってからしばらく経つ今でもなお、わたしの原動力になっている。

今日は、ちょっと真面目に、そんなお話をしようと思う。




さて。
人一倍目立ちたくなくて、学生時代から、「長」の付くものを一切避けてきた。

それほどに管理職経験のなかったわたしが、
なぜ、いきなり事業の責任者になってしまったのか。


語弊を恐れずに言えば、

No.を言わずに従い、
割と卒なく仕事をこなすということで、
上層部から気に入られていたから

だと思う。


正確に言うと、わたしを推薦してくれた上司だけは、わたしの特性や個性を見て、本質的に理解してくれていた。
けれど、職場のみんなが、そんな理解ではなかったように感じる。


上からの話は、常にYes.という姿勢で、即時仕事に移す。
とか
周囲の空気を読み、相手の裏側を想像して、俯瞰して見るようにする。
とか

そんな働き方をしていたため、勤務時間中は、常にアンテナが立ち続けていた。


職場には、いろんな人がいて。
だからこそ、わたしはここで昇格するつもりも一切なかったし、現場スタッフの中のひとりとして、勤めていくつもりだった。


その中での、突然の昇格・・・。
それも、何段階も一気に上がってしまったのだ。


メンバーをよく知っている人からは、かなり心配されたほどの人員体制。
ただ、一事業の責任者としては、そのメンバーについて意見を言えるほどの影響力はなく、Yes.で受け入れるしかなかった。


良くも悪くもイエスマン。
上層部としたら、都合のよい人材だったんだと思う。


でも、いざ責任者というところに行くと、
なんでもかんでも、Yes.と言うわけにはいかなくなる時が来る。

そこから、上から受け取る反応は一転したし、メンバー内もバラバラで、少しずつ、でも明らかに、事業内の関係性も悪くなっていった。



今だから言うけれど、

本当に、やりづらかった。


毎日、頭は痛いし、足が本当に重たくて。
「鉛みたいだと感じる」というたとえは、まさに「今日のわたしのための言葉だ!」と、生まれてはじめて思った。


元々、この職場で上を目指さない不良職員だったため、わたしのリーダー職としての評価などは、本当にどうでもよかった。

マネジメントもできていないのだから、「管理職手当も返したい」とさえ、思っていた。



裏切られたこともたくさんあったけれど、
そんなわたしが、なぜ事業の責任者をやりきることができたのか。


それは、

たったひとり、
わたしについていくと覚悟を決めてくれた同僚を守るため



事業の中身が変わったことによる反響が届いていて。

ありがたいことに、労いや応援のお言葉をかけてもらえたこともあれば、
「前は、これが良いと言われていたのに(なんで変えたんだ)!」という不満のお言葉も届いていた。


そんな時に矢面に出ることが多かったわけだけれど。

その度に、わたし以上に心を痛めて、少しでもわたしの力になることを考えて、動いてくれていた人がいるのを、わたしは見て知っていた。


わたしは、プライベート全てを捧げて、休日も返上して仕事をしていたけれど、それは責任者として当然の務めだと思っていた。

一方で、この同僚には何ら手当もないのに、期待以上の仕事をしてくれていて、いろんな面で支えられてきて。


「わたしのために」と言って自ら動いてくれる。
そんな同僚に出会ってから、わたしの人生観は大きく変わった。



そこから…

自分のことは裏切ったとしても、
この同僚を裏切ることはできない。

何があっても、この同僚のことだけは、必ず守るんだ。

と、心に誓ったのだった。



どんなに体調が悪くても、朝一番に出勤して、一番最後に退勤する
(なんだかんだで、同僚が一緒に残業してくれていたけれど)
という、仕事漬け人間の生活をしていた。



今、業界は違えど、いろいろなことを学ばせていただくようになって。


わたしが、当時のことを思い返すと、

同僚は、なぜ覚悟を決めて、わたしについてきてくれたのかな?

と、不思議に思うのだ。



実際に、旗も掲げられていなかったし。


それまでは、前任の責任者なら許された動きも、わたしは「チームとしての方針を定めてからにしてもらえますか」とお願いするようになり…

やり方を変え始めたことによって、面白くないと思った方は、わたしについてくることも当然ありえなくて。

前任は、その職場のトップのお方。しっかり周囲にフォローを入れ回っていたのを知っていたわたしは、それは「わたしに出来ることではない」と判断した。

次第に敵対視されるようになって、孤立していった。

上に立つということはそういうものだと思っていたから、そこは仕方ないことだと受け入れた。

「無」になって、仕事をしていたから、楽しくはなかった。


けれど、

充実はしていた。


どんな時にも、絶大な信頼を寄せてくれて、力を貸してくれる同僚がいてくれたこと。


わたしの本質を見抜き、察して、必要な時に声を掛けてくれて、適切に上層部につないでくれた上司もいて、適度に、わたしの課題に向き合わせてくれたこと。



これまでにないほどの幸せな環境で、経験を積ませてもらったことは、どんなに感謝しても、足りなく感じている。


現場からは、感謝されたこともあったけれど、この日々のわたしの言動を思い返すと、反省するばかりで。


だからこそ、

あの時の挫折で終わった経験が、今のわたしの生きる意味になっている。


あの時もらったものを、これからのわたしが、誰かに返していく。

そんな人生でありたい。


そう感じることができるようになった、
2026年処暑の記録。



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