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朗読松姉さん2

釜ヶ崎の路上に座り込んでいるホームレスの女性。彼女は八十歳近くに見えたが、実際はもっと若いかも知れない。彼女と眼が会った。黄色い目やにがべっとりとついていた。
「百円頂戴……」
彼女は手を出して私にそう言った。
私は百円玉を取りだして渡した。
「病院へいかへんの?」
彼女は首を振った。
彼女は何故ここにいるのか? 
そして 何故病院をこばむのか?

天王寺公園の蝉の声も聞こえなくなり、大阪の暑い夏が終わろうとしていた。青い空に白い雲がいくつも浮かんでいる。 
飛田新地は天王寺公園の南西にある。飛田大門から入ると、二階建ての店が軒を並べて建っている。その幾分古びたたたずまいは昭和の雰囲気を残している。
今日も、店の中では若い女がクーラーの風を受けながら客を待っているが、人通りは少なく手持ちぶさたな様子であった。飛田の商店街裏通りに初老の男があちらこちらで段ボール紙を敷いて寝ている。中年の男が路上に座り、湯気のあがった弁当を食べている。中身はトンカツ定食のようだった。若い男が缶ビールを飲みながら歩いている。日曜日の昼過ぎ、いつもより時間がゆっくりと過ぎていた。

 新世界大通りに入ると様子は一変する。大勢の人が行き交っている。動物園から出てきた家族連れや観光客が声をあげ、楽しげに歩いている。路上では敷物の上に古本・古雑誌・ビデオフィルム・置物などが並べられている。三階、四階建の串カツ屋、高層のマンションも建っている。映画館の看板がとりわけ目につく。六〇年代、七〇年代の映画や、ポルノ映画が多い。
 路地の奥まったところに建っているポルノ映画館の前に男娼がミニスカートから太い足を出して立っている。それを、もの珍しそうに眺め、たこ焼きを食べながら歩く若いカップルもいた。昼間から客を探していないと思われるのだが、男娼はいやに堂々と煙草をふかしていた。
 通天閣入り口近くでは大型バスから、通天閣に昇る観光客が降りてきた。まわりにタクシーが何台も並んでいる。
 バスガイドが拡声器を持って話している。
「えー、皆様こちらが通天閣でございます。あちらに見えますのは通天閣歌謡劇場といいまして、浪速の演歌の殿堂として演歌歌手の皆様が熱唱を繰り広げております」
 観光客が話し合っている。
「通天閣いうたらもっと高い建物やと思うてたわ」
「本当や。まあ、レトロ」
 ホームレスの老婆が、コンビニの前のゴミ箱に手をつっこんでいた。
「見て、あの乳母車のおばあちゃん。可哀想じゃない、あの年で」
「そやな……」 
「エレベータが到着しましたので急いでお乗り下さい」
 バスガイドに促され、観光客の一団は遠ざかっていった。
 乳母車を横に置いてごみ箱を漁っていたのは、今年七十三歳になる『松』と呼ばれている女だった。戦前から飛田の店に出ていて、赤線廃止後はこの街からいなくなったが、十年ほど前から釜ケ崎の路上で暮らすようになっていた。

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 通天閣の下にある歌謡劇場の入り口の横に、演歌「王将」で唄われている「坂田三吉」の顕彰碑がある。それを背景にしてカメラ撮影している観光客が何人もいた。近くの土産物屋の若い店員が売り声をかけているが、今日はあまり商売になっていないようだ。
 この劇場をホームグランドにしている演歌歌手「茜みどり」の歌声が聞こえてくる。歌謡劇場は通天閣の真下の地下にあり階段には、この劇場で歌っている歌手のポスターが所狭しと並んでいる。今日も立ち見ができていて、前列は揃いの黄色いハッピにはちまきをした年配のおっちゃん達が赤い蛍光棒を持って声を張り上げて声援している。紙テープが乱れ飛んでいる。おじいちゃんが千円札を茜みどりのふところに入れた。茜みどりは恭しく頭を下げ、はげたおじいちゃんの頭を胸に抱き寄せた。茜みどりの眼から涙が流れている。おじいちゃんも泣いている。

 居酒屋「雅子」は通天閣から百メートルほど離れた路地裏にある。陽は傾いているが、残暑が路上に残っていた。五坪ほどの狭い店内は今日も混んでいた。四十五歳になる英之と三十歳の妻の雅子が居酒屋を始めて一年が過ぎた。雅子は飛田に出ていたが、体をこわして入院した。そんな雅子を優しく世話したのが英之だった。これまで蓄えた貯金では足らず、懸命に働いて金を工面し、雅子の借金を肩代わりし、今は二人で小さな居酒屋を営んでいる。昔のドヤの仲間や、茜みどり後援会の仲間がちょくちょくのぞいてくれて、やがて客もつくようになった。早朝から晩遅くまで二人は寝る間を惜しんで働いた。
店も客足が途絶えなくなり、店員を雇うことにした。店の前に募集の看板を出すと、その日のうちに応募があった。医療少年院を出て、就職先を探していた高子だった。まじめに働きたいと必死になって懇願するのに心を動かされ、雇うことにした。高子の母親は若い男と駆け落ちし、父親はアルコール依存症から精神を病んで病院に入院している。高子は一人で暮らしてきた。過食症になり百キロは超えていた体重も施設の規則正しい生活で少し痩せたが、家に戻るとまた太り始めた。始めは、言葉づかい、身だしなみで雅子から厳しくしかられていたが、十七歳になった今では、娘らしい一人前の店員になってきた。

店先に松が立っていた。英之も松に気づいた。
「高ちゃん、あのおばちゃんに何かあげて」
 高子はチラと店先を見てから、
「はーい!」
 と返事をするとすぐに、プラスチック容器を二つ取り出し、一つは焼き魚とほうれん草のおひたしを、もう一つはご飯を詰めた。包装紙に包み終わると、高子は松に渡した。
「おばあちゃん、これ」
「ああ……」
 松は受け取ると乳母車を押しながら人波に消えていく。
「あのおばあちゃん、最近よくきてるんか?」
 客の一人が、高子に尋ねた。  
「そんなこともないけど」
「飛田で一番の売れっ子やったんやて」
 客は、焼酎を飲みながら言った。飛田に出ていたことを聞いた雅子は手を止め、店先に出た。そして、松の後ろ姿を探した。行き交う人は松を避けるように歩いている。やがて松は小さな路地に消えた。

3
 暑い夕陽を避けるように、山王町商店街の日陰の隅で、松が段ボール紙を何枚も重ねて座り込んでいた。空が薄暗くなると、次第に人通りが増えてきた。松はゆっくりと首をあげ、歩いている二人連れの男に声をかけた。
「兄ちゃん、百円……」
「なんや!」
 男は驚いた。
「兄ちゃん、百円頂戴………」
「なんじゃい、女の乞食か。わしら急いどんのや」
 松は両手を伸ばした。
「兄ちゃん、百円………」
 男はポケットから百円玉を取り出すと路上に投げた。そして走るように去った。
遠くからその様子を見ていた英之がやってきた。茜みどりの後援会の会員の黄色いハッピを着ている。そして、松の手から遠く離れた百円玉を取りあげ小箱に入れた。
「ああ……」
 英之は松の横に座り込んだ。
「えげつないな、ちゃんと入れてやったらええのに。おばあちゃん、病院へ行ったほうがええんとちゃうか……。わし連絡しよか?」
「ええ……、ああ……」
英之は会うたびに入院を勧めていたが、松は今日も手を振って断った。松の顔に目やにがべったりとついている。眼を患っているかもしれなかった。松が英之の来ている黄色いハッピを指さした。
「このハッピか? これは茜みどりの後援会が着るハッピや。格好ええやろ」 
 松が笑ったようにも思えた。
「暖かいもん食べるんやで。ビールなんか飲んでお腹冷やしたらあかんで」
 英之は千円札を財布から取り出し、松に握らせて去った。松は皺だらけの自分の手の中にある千円札を見つめた。

 すでに亡くなった人が多く、生きている人もその記憶が曖昧だったが、松について英之が聞いた話は次のようなことだった。
松は、飛田では戦前、戦後は一番の売れっ子だと言われていた。女達から松姉さんと慕われていた。松は一九二三年年、泉南地方の部落で生まれた。父母に定職は無く、小作農家の手伝いや、皮革作業で生計をたてていたらしい。松が、芸能の世界に染まるきっかけになったのは十歳の時だった。その年、五人目の子供が生まれた。両親はいよいよ生計が成り立たなくなるのを案じ、松を奉公に出そうと考えたが、泉南の貧しい部落が出自の松に奉公先は見つからず、大道芸人に預けられることになった。花街の辻に立って、唄や踊りをみせる商売である。

4
 松の小さな可愛い黒い手が、父親の五助のごつい手に握られていた。
「今日から、定やんとこで修行するんや。松は唄も踊りも好きやからすぐに上手になれるわ」
「松、松……」
 母は松を抱いて離さなかった。小さな四人の兄弟も家の隅で泣いていた。松は働き通しの母親にかわり兄弟の世話をしてきた。
「もう、泣くな。松がこの家離れられんようになるやないか」
 松は母の目をしっかり見て言った。
「お母ちゃん、心配せんといて。うち早う、お金稼げるようになって帰ってくるから」
 家を出て行く松と五助を母親と弟と妹達は泣きながら見送ったという。傾きかけたあばら屋が続いていた。芸事に才能を見せた松は、厳しい修行のなかにそれなりに楽しさを見いだして過ごした。街頭では、芸の師匠でもある定吉の三味線の音に乗り、松は唄いそして踊った。
通行人が立ち止まり、小さな松の唄と踊りに聞き入る。
「うまいな、この子の踊り」
「それに、ほんま可愛いこと」
「ありがとうございます。まことにこの松はけなげな娘でございます。父親は、満州で戦死、それを悲しんだ母は病死したのであります。残された松でございますが、幼い弟・妹を食べさせるため、今はこうして大道芸で身を立てております」
「お父ちゃん、満州で死んだんか。可哀想にな。少ないけど」
年配の婦人がお札を松に握らせる。遠くからも声がかかる。
「がんばりや」
「ありがとうございます」
 小銭が投げ入れられた。いくつも、いくつも投げ入れられた。
「ありがたいな、ここの方はほんま、人情の溢れた人ばかりや。松、お礼言うんやで」
「ありがとうございます」
 しかし、年齢を重ね、松に幼さが消えると、客の投げ銭はみるみる少なくなった。幼子を抱え、定職を持たない父の五助には金づるは松しかなかった。久しぶりに松を尋ねてきた五助が定に話していた。
「そらひどいわ、約束は七年やで」
「わかってるがな、そやさかい金をわたすんやないか」
 五助は定に金を握らせた。金をみて定は喜んでうなずいたらしい。松は父に飛田に売られた。十五歳になっていた。

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 戦時中とはいえ飛田遊郭は活気があった。それまで大阪で一番大きな花街であった九条の松島を抜き飛田が最大の規模になっていた。三味線の音もにぎやかで女達の唄が聞こえてくる。酔った軍人が威張っている。
「神国日本は、大東和共栄圏をうちたて、こら! 春駒。貴様聞いておるのか」
 松は源氏名を春駒とよばれ、十七歳になっていた。
「もう、まーさんたら。聞いてますがな。ほれ、あーんして」
「大尉殿も春駒にかたなしですな」
「無礼者! 皇国の軍人が女ごときに」
「可愛いな、大尉殿」
「こら! どこをさわる! 馬鹿者」
「しかし、松も立派な芸者になりましたな。春駒いうて、ええ名前までつけてもろて。ついこの前までは、しょん便臭い小娘やったけどな」
「客あしらいがうまいわ。角付けやってたころからきたえてんのや。まあ、そのうちここらで一番の売れっ子になりますわ」

 しかし、敗戦が近づいてきた。
「空襲や!」
「なにしとんのや、春駒」
「そやかて、着物が」
 松にとっては高価で大事な着物だった。
「あほ! 着物と命とどっちがだいじなんや」
 サイレンが一層大きく鳴り響いた。

 終戦。玉音放送を聞いたが、何をいっているのか松にはさっぱり分からなかった。しかし、戦争が終わったことは嬉しかった。松が暮らすのはやはりこの飛田だった。バラックが建ち並んでいた。男達が女を求めてやってきた。女達が声をかける。松は二十歳になっていた。
「お兄さん!」
「ねえ! お兄さん遊んでって!」
「ちぇ! 景気の悪い顔しくさって! お兄さん!」
 ラジオから菊池章子の「星の流れに」が流れていた。 松はいつもこの唄を口ずさんでいた。このころが、松の売娼としての絶頂期であったらしい。松は飛田で一番の稼ぎ頭であった。しかし、たかってくるのはやはり父親だった。

松が妹分の桃子と大阪の繁華街を歩いているときのことだった。父親の五助が追いかけてきた。
「松、待ってんか。松、松言うたら」
「松、松、言うてうるさいな。ここは松の廊下とちがうんやで。大阪のど真ん中の道頓堀や」
「お母ちゃんの体の具合がようないんや。お金あるんやろ、ちょっと貸してんか」
「貸してんか言うて、返してくれたことなんかないやないか」
「……」
 五助は照れ笑いをしている。見飽きた醜い表情だった。
 松は財布から札を何枚か取りだして渡した。
「お母ちゃんに渡すんやで、酒飲んだらあかんで」
「わかってる、わかってるがな。ありがとな、松。ありがとな」
 五助は逃げるように去った。
「どうせ酒や、酒に消えるんや。あんなろくでもない父親なんかいない方がええのに。桃子、あんたみたいにお父ちゃんなんて、いてない方が、かえってええわ」
「そんな、姉さん……。姉さんのお母さんにお金渡してくれはるわ」
「ええんや、お母ちゃんと妹達にちゃんとお金送ってるさかい」
「えらいな、お姉さんは」
「何がえらいんや、あほな男からふんだくった金やないか……」
 しばらくして父が亡くなったという手紙が届いた。松は桃子にこれで楽になれると言ったという。
 しかし、松の体もむしばまれていた。松と桃子が歩いているときだった。松は路上で倒れた。桃子が松のアパートまで抱きかかえて帰った。しばらくは桃子が付き添っていた。仲間の面倒見の良かった松は若い娘達に慕われていて、見舞いが多かったと言う。しかし、永く寝込んで蓄えを食いつぶしていった。
今日も、桃子が親身に世話をしていた。
「罰があたったんかな。子供堕ろしてばかりしてたから、今度こそ罰があたったんや」
「やっぱり大きい病院に入った方がええんとちゃいますか」
「そら、その方がええけど……。お金がないねん」
「旦那さん用立ててくれる言うとりましたで」
「後がこわいんや。あとが」
「……」
「あんたもわかってるやろ、いったん金借りたらもう死ぬまでここから出られへんで」
「お姉さん、これだけやと足りひんけど使ってください」
 桃子はふところから札束を取り出した
「あんた、これは」
「はよ、ここ出たい思うて貯めてきたお金やけど……」
「そんな大事なお金」
「わたし、もうこの先なごうないみたいなんです。病院のお医者さんがそう言うてはりました」
「あほ、そんならあんたの治療代に使わんかい」
「私の治療に全然たらへんお金なんです。わたし身寄りもないし、お姉さん、私の親や思うて生きてきましたさかい」
「桃子、私もあんたのこと自分の娘のように思うてきた。自分の娘の命のお金を何で、親の私がとれるんや。おまえはあほや」
 桃子は、生まれつき虚弱な体質だった。そこに家の貧しさが加わり、十分な栄養も取れず、住環境の悪いところで育った。父母も早くに亡くなり、頼れる親戚もなく、親の借金のかたに飛田に売られた。松は、そんな桃子を誰よりもかわいがり桃子も松を実の親のように慕っていた。
あの事件のあと言っていたそうだ。松は、なにも知らんと寝ていたと。

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 遠くから声が聞こえてきたらしい。
「首つりや」
「飛田の女みたいやぞ」
「まだ若いのに……」
 その後、おおぜいの人が走っていく足音がした。
 桃子は松の枕元に、体を売って貯めたお金を残して死んだ。何で桃子が来たことに気づかなかったのかと、松は狂ったように泣いた。
 ×  ×  ×

 今では松は昔の知り合いの顔を見ても分からない。ときおり、食べ物や着る物を貰ったりしているが、記憶に全く残っていないようだ。松が赤線廃止後、この街を去りどこでどのように暮らしていたのかよく分からない。北陸の方へ流れたという話もあれば、九州で所帯を持っていたという話も聞いた。この西成へ流れてきた人が、どこか松とよく似た女を、松の物語にしているのかもしれなかった。
 松の認知症は進行しているが、飛田での事は忘れていないのではないかと言う人もいる。桃子の話が出ると、松の眼の輝きが変わったと言う。松は暖かい日は路上で寝ているが、寒くなると釜ケ崎の自分のアパートに戻る。大きく傾き、雨露をしのぐだけのボロ家ではあるが、持ち主が昔、松のなじみの客で、自分が生きている間は余命の少ない松が暮らすために壊さずに残しているとの事だった。食事も近くの商店で買って持っていってあげているという。その人も八十歳近くになっている。 

「息子らは早よ売って金にしたがってるけどな。わしが稼いでわしが建てたアパートや。わしが生きている間はわしの勝手にするつもりや。松姉さんな、灯りもつけんと、暗い部屋や。少しだけ夕陽が差し込めててな。枕元に綺麗な布敷いてな、そこに水子供養の位牌が四体並んでてな、線香あげてんねん。お菓子が供えられてんねん。位牌は松姉さんの堕ろした子供達のもんやと思うわ。楽しそうな姉さんと桃子の写真もあんねん。古びて色も変わってるがな。姉さん、手を合わせておがんでましたで。昔と変わらん綺麗な横顔やった。わしも、死んだ嫁はんに、毎朝線香あげてるで。あの世いって怒られるの嫌やからな。  
え? 私のこと覚えてるかて? そうやな、それやったら嬉しいんやけどな。これ、死んだわしの嫁さん(妻)にも言うてないけどな。昔な、わしがまだ独りの若いときや、一度結婚の話、したことあんねん。親に勘当されても一緒になるつもりでおったんやけどな。そやけどな、松姉さんに断られてな。そんなこと忘れてるやろな。ええんや。わしの初恋やから。どっちが先にあの世に行くかわからんけどな」

 歌謡劇場も第二部の休憩になり、英之が階段を上って入場口に出てくると太陽は西の空に傾いていた。アスファルトの照り返しで熱気が渦巻いている。クーラーの冷たい風が地下の歌謡劇場から吹きだしてくる。入り口近くで松が、乳母車に両手をそえて看板を見ていた。よく見えない様子だった。英之が声をかけた。
「おばあちゃん!」
 松はきづかない。英之は一層大きな声を出した。
「おばあちゃん!」
「ああ……」
 松が振り返った。英之は松の耳元に近づき言った。
「どないしたんや、歌謡ショー見にきたんか?」
「ああ……」
「そうか、お金あるんか?」 
「ああ……」
 松は皺だらけの千円札を英之に見せた。ずっと握りしめていたのか汗で濡れている。それは飛田の商店街で英之が松に握らせた千円札だった。入場料は千三百円である。少し足りなかった。
「そうか……。後はわしが出したるさかい。さあ入ろ」
 英之は松を背負い地下劇場に続く階段をゆっくりと下りた。

7

歌謡劇場の中は大きな音が鳴り響き、演歌が流れている。英之は椅子を持ってきて松を座らせた。男性歌手が唄っている。前列に並んでいるおばちゃん達が、ライトペンを振っている。歌手の胸に千円札のレイがぶら下がっていた。客席の後ろは黄色いハッピを着た大勢の男達が並んで茜みどりの登場を待っている。

 唄は終わり、場内アナウンスが流れた。
「さあ、皆様お待ちかねの通天閣の歌姫、茜みどりの登場です」
 舞台は一瞬暗くなり前奏曲が流れてきた。ライトが舞台の袖を照らす。大声が飛び交う。
「待ってました! 我らが茜みどりちゃん!」
「みどりちゃん!」
 男達の声が館内に轟く。茜みどりの登場に紙テープが左右から投げられる。紙吹雪の中を茜みどりが歌い出す。カメラのフラッシュがバシバシとたかれる。数人の客が客席の後ろで踊り出した。つられてコップ酒を持った男も踊り出した。松は舞台をじっと見ている。曲目が終わり、プレゼントコーナーになった。男達がわれ先にと駆けより、お菓子、缶ビール、千円札、写真などをプレゼントした。前列のはしから、体の不自由な男が祝儀袋を持って足を引きずりながら茜みどりに近づく。
「また来てくれたん、ダーリン」
 茜みどりは男を抱き寄せた。男は、祝儀袋を茜みどりの着物の胸元に入れた。その男は、しばらく歌謡劇場に姿を見せずに入院していた。以前は摂津から自転車で、一時間以上かけて茜みどりのショーを見るために通い続けていたが、アルコールの取りすぎが原因で脳溢血で倒れた。
 戦後ヒットした菊池章子の『星の流れに』の前奏曲が流れた。場内のライトペン、蛍光棒が一斉に揺れ観客が唄い出した。松も立ち上がり唄っている。松の目から涙が流れ出し、昔の光景が浮かんできた。

 ×  ×  ×
場末のキャバレーで、大勢の女達を引き連れた松が酒を飲んでいた。松の大きな声が響いた。
「うちのおごりや、みんな飲んで!」
「お姉さん、ええんか。桃子がお姉さんのために残してくれたお金やろ。入院するためのお金やろ」
「ええんや、うちも死ぬんや。桃子のとこへ行くんや」
 女達のテーブルの上に夥しい数の酒と料理が並んだ。松は浴びるように酒を飲み続けた。周りの客も、女達と一緒になって狂ったように飲んで騒いだ。
 ×  ×  ×

 松の頭上にも紙吹雪が舞い、英之が横に立っていた。松の歌声が止まった。そして、呟くように言った。
「わしは死なれへんかった……」
 英之が松の手を両手で握りしめた。
「おばあちゃん、病院で体を治そ。生きていたら桃子さんも喜んでくれるで。松さんのこと今でも好いてる人あるんやで」
「ああ……」 
 松は喉をつまらせながら頷いた。そして、再び歌い出した。
       
     (了)


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